随想倶楽部

 今年のNHK大河ドラマは黒田官兵衛(1546~1604)の一生が放映されて、中でもイケメンの俳優さんがやさしい笑みを浮かべた高山右近(1552
~1615)を演じています。ふと、この時代の人々の信仰は…と気になりました。
 時は安土桃山期から鎖国に到る頃です。日本人にとって、それまでのどの時代よりも海外との接触の多かった頃です。
 天文18年(1549)、はるかな海を越えて神・仏の日本にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝来しました。この信仰は日本中に広がり、キリシタン大名(大友宗麟、黒田官兵衛、高山右近、内藤如安、蒲生氏郷、等々)や百姓町人の庶民の信仰者が増えました。爆発的な広がりに豊臣秀吉、徳川家康はキリシタン禁教を開始し、高山右近や内藤如安は慶長19年(1614)にマニラに追放されています。古田織部は自刃するが、織部焼は残ります。後に藤堂高虎は京都の織部の屋敷と石造物をもらい受けて津に移しています。
 キリシタン大名の妻子、家中も信仰を共にしています。高山右近の妻である黒田ジュスタ、細川ガラシャ、松浦久信夫人らの話は有名です。戦いはいやです。平和な世の中を夢みて彼女達は祈りの中に生きたのです。島原の乱以降は鎖国へとなっていきます。
 江戸時代初期にはキリシタン達はきびしい弾圧を受けたために、密かにそして深く信仰は続けられ、摂津、伊勢、会津、九州で信仰は守られました。
 さて、津藤堂藩でこれらの遺物、遺跡がかい間見る事ができます。寛永年中(1624~1643)、三代藩主高次の時代、彼も他藩と同じく踏み絵で誓わせた人です。が、可愛い娘の父親でもありました。高次の四女、お石姫は信仰深く改宗しません。百石の池田権左衛門に預けていましたが、生まれつき体が弱く、四歳で亡くなりました。正覚寺(別称「赤門寺」津市西丸の内)には御殿の赤門を下げ渡して山門とさせました。西洋式の石棺です。幕府に気付かれないように、戒名は「香林院自性妙円大童女 四歳 寛永二十一年甲申歳八月二十四日 俗名御石」と記してあります。
 他に中島・鯰江事件があり、記録によると、寛永14年(1637)秋、上級武士二百石、中島長兵衛夫妻が城内式部倉の空地で逆磔付になり、息子二人が打首となっています。その二年後に上級武士三百石の鯰江九右衛門一家四人、職人、足軽等二十三人は塔世橋下流芝原で処刑されています。子供らは声高らかに祈り唄え信仰を守ったという。他に津城下では医者の道竹、研ぎやの長右衛門ら数人が処刑されています。キリシタンの子孫は天神様、荒神様に擬装を加えて信仰を続けていました。
 幕末期に禁教政策がゆるみ、慶応3年(1867)に長崎でキリシタン三三八〇人が発見され、津藩は浦上キリシタン一五五人を預かり、一志大三村に八三名、伊賀に五九名住まわせ村人は大切に接したといわれています。後に長崎に帰しています。ようやく、明治維新による「ご一新」でキリスト教開禁(1873)されました。
 今は津市木造町の引接寺、伊賀の西蓮寺、津市西丸の内の津カトリック教会などには切支丹灯籠マリア灯籠が、西古河町の国魂神社に織部型切支丹灯籠が残っています。大きな権力の中にあってもひそかにキリシタンの信仰が守られた形跡がわかり、美しい形でどこか心ひかれます。
 現在は平成17年(2005)に切支丹殉教記念碑がお城西公園に建立されて静かに歴史を語っているように思いました。
 世界では戦いに明け暮れる国々があったり、伝染病蔓延で大変だあという国があります。
 今日の日本の平和に繋がれるまでには幾多の戦いがありました。どの時代でも人は懸命に智恵を持ち、勇気と強い心で生きています。私自身も感謝と喜びと希望の念を大切にして人生を送りたいと思っています。(全国歴史研究会、三重歴史研究会及びときめき高虎会会員)

 突然「三重ふるさと新聞」様からお電話を頂いた。用件は去る7月24日付のの第一面に「津大空襲の記憶 今年も7月28日が近づく中、B─29搭乗員写真やボム・タッグ 津市の雲井保夫さんが初公開」と大きく報じられた記事を読まれた読者の方が、当時投下された焼夷弾の破片を義兄が大切に保管しており、それを私に託したいというものだった。
 それで早速その方に電話連絡をさせていただき、「今すぐお伺いさせていただきたい」と申し出た。その方の自宅前で待ち合わせをして、その方の義兄宅へご案内いただいた。
 「どうぞお上がりになってください」と、見ず知らずの私を、客間へと招きいれてくださいました。
 早速、大切に白いビニールに包まれた「焼夷弾の残骸」を一見するなり、それは頭部の信管の形と位置から「M─69型焼夷弾」とすぐに判別できた。その焼夷弾は岩田橋交番の近く、ちょうどオキナマンショのある場所で、戦前「弓ノ町」、現在の「本町十番地」のお屋敷に住んでおられたK氏の邸宅を直撃し、同家を一瞬にして炎上させたもので、戦後焼け跡を整地された時に見つけてK氏が大切に保管してきたものだった。ここで私は新たな「謎」が出てきた。それは、津市はあの夜、米軍B─29爆撃機は新開発の「M─74A1型焼夷弾」のみ投下して、その威力を確かめるため、その実験地とし津市を選定していたからである。
 そのような事実のなか、3月10日の「東京大空襲」を始めとして、日本本土焦土作戦に最も多用された「M─69」が何故、津市にあるのかという新たな疑問である。
 私が津市に投下されたとする「M―69」を手にするのは実はこれが三度目だ。これまで私は余り疑問に思ってこなかった。「何かの間違いだ」と思っていた。
 しかし、今度のこの焼夷弾は発見場所が完全に特定できている。加えて「岩田橋」近くである。あの夜の津市大空襲はその爆撃中心点が「岩田橋」付近なのだ。そうすると次のような推論が成り立った。B─29爆撃機は76機が投弾、うち12機が先導機である。
 先導機には最も腕のいい爆撃手が搭乗し、後続飛行するB─29のために投下目標焼夷弾を投下して、爆撃照準点を燃え上がる焼夷弾で作る任務があった。そのため新開発の「M─74A1」では実際に火炎を上げるか否か不明だ。それでより確実な「M─69」を投弾したと、考えれば説明がついた。
 一機の先導するB─29爆撃機はE─48型焼夷集束弾、いわゆる親爆弾を39発搭載した。それにより一発のE─48はM69焼夷弾を38発集束する。先導機は12機。そうすると、あの夜、M─69は合計で1万7784発が爆撃照準のために投下したと考えられる。
 津大空襲を体験された方々の中に、「あの焼夷弾は六角形していた」と証言されるのはこのためによると私は考えるのだ。
 今回「三重ふるさと新聞」の愛読者の方がくださった「M─69型焼夷弾」の抜け殻は私の津空襲研究にとても意味深くもっと研鑽する契機となった。快く寄付してくださった方に、改めて厚く御礼申し上げます。
     (戦争研究家)

 「ちょうど今頃、偕楽公園に梟が来るから見に行くといいよ」。と、友人が電話で教えてくれてから、夫と散歩道にしている公園で、ここら辺だよと言われた場所を毎日見上げていたら、運良く三日目に三脚を構えたカメラマンに出くわした。
 「梟ですか」と聞くと「三羽いますよ。親子ですね。覗いてみますか」とフアインダーを覗かせてくださった。
 大きいのと小さいのが一羽ずつ少し離れたところに。もう一羽はどうしても見つけられなかった。レンズでアップしてもらい目がとんでもなく大きく飛び込んで来、可愛い顔に思わず見入ってしまった。
 次の日、ごみ捨てに行ったついでにその場所へ行って探してみると、子供の梟がこちらを向いて枝にとまっていた。何と可愛いまん丸な目。しばらくにらめっこというか目がそらせなくなってしまった。
 魔法使い、魔術といったファンタジーな事が思い浮かぶのはハリーポッターの影響か。夜見つめあい続けていたら、そのままどこか違う世界へ迷い込んでしまいそうな…。
 梟・福を呼ぶ鳥・不苦労とか言われ、日本中、いや世界中で観光客目当ての土産になっている。我が家の飾り棚にも大理石の作家物から北海道で買った小さな木彫り、北欧でみつけた、中にもう一羽入った細工物があり、どれも丸い目が愛嬌。
 ミミズクとも言ったな。梟とミミズクは同じかしらと疑問に思い、パソコンで調べると、ミミズクとはフクロウ科で羽角(うかく)即ち耳があるもの。殆ど判別できないものまであり、形も様々。結論として「フクロウとミミズクには違いがないから気にすんな!」と出てきた。なんと無責任な…。
 そこで我が敬愛する谷川士清の『和訓栞』の登場。と言っても私が愛用しているのは平成二年に名著刊行会が発行した増補語林『倭訓栞』。その下巻で調べてみた。
 『和訓栞』は日本で初めて五十音順に並べた本格的な国語辞典で約二万一千語にものぼる。士清は一人で
編集をし、前編の出版準備を終え、いよいよ印刷だという一七七六年に亡くなった。その後、子孫や弟子が遺志を継ぎ何回かに分けて出版、全九三巻が出版し終えたのは一一〇年後の明治二〇年であった。増補本は伴信友の書き入れ本の前編・中編をまとめて五十音順に配列し直し「お・を」の順序を改め、井上頼圀らが語林を上欄に増補し、上・中・下巻とし、後編はそのままで明治三一年に出版した。名著刊行会からの復刻本は昭和四三年版、四八年版、平成二年版がある。
 みみづく 和名抄に木菟を訓せり、耳の長き獣なるをもて名く
 ふくろう 和名抄に梟をよめり、説文には不孝鳥也とみゆ、ろふ反るなり、形のふくれたるより名とする成るへし、常陸にてねこ鳥といふ…伊勢白子にて鳥追といふ、蝦夷にへうれこいきといふ…と非常に詳しく説明有り。
 広辞苑と比べてみた。
 みみずく 梟鴟目の鳥で頭側に長い羽毛(いわゆる耳)をもつものの汎称。
 ふくろう 梟鴟目の鳥。大きさカラス位。顔は灰白色、額は褐色。背面、下面共に灰白色の地に褐色の縦班があり、下面の方が著しく白っぽい。森の繁みや木の洞にすみ、夜出てノネズミなどを捕らえて食う。
 『和訓栞』は一語一語専門書のように詳しい。一人で調べ五十音順に並べた士清の努力は想像に絶する。
  (谷川士清の会 代表)

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