随想倶楽部

 高齢化社会になりました。私も今年3月の誕生日をむかえて77歳で喜寿です。私が子供時代は、人生50年とよく耳にしたことを覚えています。 
 未熟児で生まれ、幾つもの大病をくりかえし、死線をさまよった私でした。義務教育時代に病弱のために留年もしました。この私が今は元気で老いの生活を楽しんでいるのは、私にとってはまさに奇跡的です。これまで無数の人たちの慈愛とか、支援による結果です。感謝しています。
 仏教徒の末席にいる私です。毎日、朝夕に仏前で合掌し読経し、親、祖先はじめ無数の人たちに感謝しています。早朝に約1時間、妻と愛犬2頭と近くの仏閣の山門から合掌しながら、世の人たちの幸せを念じています。私流の感謝の祈願をしめすミニお遍路です。
 私は子供時代、喜寿まで生き続けられるとは想定できない健康状態でした。ありがたいことに今も元気で生活できています。
 この「いのち」を善用しなくては申し訳ありません。善用の心が強まっています。私なりに可能なことで、社会貢献したく思っています。自己実現は同時に社会貢献につながります。  自己実現と社会貢献の夢路を楽しく地道にあゆみ続けたく念じています。この夢路は過去の生活においてあゆみ続けた延長線上にあります。夢路の具体的内容はいくつもあり楽しいものばかりです。
 1.社会奉仕に関するもの…
 ①全国展開の無料による  教育と幸福についての  電話相談
 ②刑務所での篤志面接員
 ③各種のボランティア活動
 2.執筆・出版・講演に関するもの…
 ①教育や幸福についての執筆と出版
 ②教育全般・幸福実現に関する講演活動
 3.自己の修練と修養に関するもの… 
 ①仏法をより深く学ぶ
 ②自己の幸福度を向上させる
 ③仏法により幸せになった体験を少しでも世の  ために伝えられたら幸  せ
 この世に肉体が元気であるうち特に次の夢路を力強くあゆみたいと念じています。
 約半世紀にわたり続けている無料電話相談、受刑者の皆さまの更生と社会復帰のお手伝い、過去に23点の全国出版を続けており、新しい出版をする。仏法の素晴らしさを体得し、少しでも広く世に伝えて、一人でも多くの人がより幸せになってもらいたいと念じています。
 老化するのは当然のなりゆきです。動植物は老化します。人間の肉体もいつか消滅します。 
 私は老いて今あることを余生とは考えていません。「与生」です。余りものではないのです。与えられた、ありがたい、感謝すべき、この世での人生です。どの年齢でもバリバリの現役人生です。老いるにつれて体力は弱くなります。それでも喜寿の年齢なりの力強い現役です。
 社会や多くの人たちに「報恩感謝」の心を大切にして「和顔愛語」の姿勢で生きたいと思っています。さらに、利己の我欲を弱めて利他の気持ちを強めたいと考えています。
 今朝も、老いの楽しい夢路をあじわいたくて、さわやかに目覚めました。
   (宇佐美 覚了 作家・社会教育家)

 先日、友人からメールがありました。「松姫ってどんな人なんや」。私はすぐに思い出した分だけメールで送りました。松姫は戦国乱世の女性の一人。政略結婚の犠牲者で果たせなかった恋の人です。少しして私は机の前に座ると松姫の生きざまをもう少し垣間見たくなりました。
 松姫は永禄4年(1561)に武田信玄の第六女。母は油川氏として生まれました。まさに、武田家の最盛期に誕生しています。甲州の虎と呼ばれた信玄は、何をするか目の離せない信長を…。信長はなにがなんでも味方にしておきたい信玄…。両家の絆を結ぼうと 高価な結納品が取り交わされました。織田信長の嫡子奇妙丸(後の信忠)11歳、松姫7歳の時のことです。
 幼い松姫は届けられる贈り物や手紙にまだ見ぬ「夫」に胸をときめかせて美しい夢を育みながら成長しました。信玄はその婿が来た時にと新しい館も整えていたと云われています。奇妙丸は父信長に命ぜられることなく、まだ会えぬ「妻」に便りを送っていました。  二人の恋が本物になった頃に、その夢ははかなく破れた。二人の父の仲は決裂していたのです。父信玄は元亀3年(1572)に西を攻めようと徳川家康と対戦(三方ヶ原戦)し破ったが、密かに信長は徳川方に援軍を送っていたのです。 信玄は娘の心を不憫に思いはかり、二人の文通は続いていました。その父が翌年4月12日に野田城攻囲中に病死してしまい、二人のかすかな糸はぷっつりと絶えました。
 18歳になった松姫はまだ「夫」に会えずにいました。同母兄の仁科盛信は彼女を庇護しており、他家に嫁ぐ事を勧めるが頑として松姫は応じません。この頃になると武田家は目に見えて衰退していきます。
 天正10年(1582)3月11日に武田家を継いだ異母兄勝頼は田野の戦いで敗れ、盛信は信濃の高遠城で討ち死にし、武田家は滅びました。
 松姫は妹や姪を連れて武蔵国八王子心源院に逃げました。時に松姫22歳の事で、彼女はまだまだ信忠に会う夢は捨てていません。同年6月2日に本能寺の変があり信忠は父信長と共に命を落としたのです。
 のちに徳川家康の家臣となった武田家の旧臣の大久保長安の援助を受けて八王子信松院を建立して、武田家一門及び本能寺の変で亡くなった婚約者忠信の菩提を弔っています。
 畑を耕し、糸を紡いで懸命に働きました。八王子の里人には蚕を飼い糸を紡ぐことを教え、八王子銘仙の基礎を作った人です。妹や姪たちを養育し、行く末を見届けて56歳元和2年(1616)に目を閉じました。信松尼と号します。会うことのなかった恋しい「夫」に操を立てたのでしょうね。松姫は武田家の滅亡を見て、更に新しく訪れた元和偃武(刀を終って平和に暮らす)をみたのです。男たちの戦いの時代が済んで、刀を収めた元和の年号をむかえたのです。
 ちなみに、「夫」となった忠信の家からは三法師(のちの秀信)が跡を継いで小大名となり、信長の七男信高の子孫からはフィギュアスケートで活躍した織田信成選手が現れています。また、「妻」となった松姫の実姉菊姫は上杉景勝の室(大儀院・甲斐御前)になって歴史を彩ってくれています。
 生と死を考える時、戦国乱世の時代に女性が生き延びるためには自分の生命を預けられる相手さえ選べない。生と死の紙一重のところに多くの女性は生きたのです。
 今、私たち女性は輝きを持って生きています。この平和な世の中に生まれ育って良かったとつくづく有り難く思います。
(椋本 千江 全国歴史研究会、三重歴史研究会及びときめき高虎会会員)

  昭和二十年九月二十七日、昭和天皇はGHQをおたずねになりました。
 陛下はマッカーサー元帥の机の前まで進まれて直立不動のまま、ご挨拶されたあと、こう言われました。 「日本国天皇はこの私であります。今回の戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されてもいつでも応じるだけの覚悟はあります。しかしながら、罪なき国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民の衣食住にご高配を賜りますように。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部にあてていただければ幸いであります」
 マッカーサーは、天皇の訪問の目的が自分自身の保身、すなわち命乞いであろうと思っていました。
 ところが驚くべきことに、その天皇が絞首刑になってもいいから国民を救ってもらいたいと言われたのです。
 それまで姿勢を変えなかった連合軍の将軍が、立ちあがって陛下の前に進み、抱きつかんばかりに陛下のお手をにぎり、「私は、はじめて神のごとき帝王を見た」と言い、陛下のお帰りの際は、元帥自ら見送りの礼をとったのでありました。
 数千年の歴史の中で、さまざまな民族が興っては滅び、滅びては興るということをくりかえしてきました。しかし、その歴史の中で、危急存亡のときに、国民を守るために自らの命を捨てるほどの大きな愛を持った君主は、誰もいませんでした。
 ところが天皇は、すべての罪をご自分御一人で背負うという崇高な覚悟を占領軍最高司令官に申し出られたのです。
 そしてヤマトの国は、救われました。
 天照大神から脈々とつながる天孫の大君の祈りが、いまも我が国を護り導いています。
 宮中で一年の最初の祈りが「四方拝」です。
 大晦日に身を清めた天皇さまが、特別な衣装を身に纏い元旦のまだ夜も明けぬころからたった一人、伊勢の神宮、続けて四方の神々を拝されるのです。
 このとき天皇さまが、このように祈るのだとお聞きしたことがあります。
 「この一年、我が国に災いが来ませんように。国民が平安でありますように。だが、もしも、災いがくるなら、この私を通ってゆきますように」と。
 大きな災害で多数の人々の命が失われるようなことがあると、陛下は、「この災いは自分の不徳のなすところです。申し訳ありません」と皇祖皇宗、神々に詫びておられるということを知らされました。
 先の東北大震災の後に、「自主停電」をされていたお姿も、まさにご愛のお姿でした。
 当時七十七歳だった天皇陛下は、それ以前にがんの手術も受けられていました。それなのに「寒いのは着れば大丈夫」と、停電の間は暖房も使われませんでした。ろうそくや懐中電灯を使いながら、暗い中で夕食をとっておられたのです。私たちヤマト人の宝は、物でもお金でもありません。「神話の昔から世界人類すべての平和を願われる天皇という大君のいます国に生まれた」という事実です。それこそが、何にも変えられない宝物なのです。
 神武天皇が「八紘一宇」の精神でヤマトの国をお創りくださいました。
 人類すべてが、一つ屋根の下の家族なのだという素晴らしいお心です。民族の根っこを忘れてしまっては、もはやヤマト人でないばかりか、動物以下になり下がってしまいます。
 ヤマトの魂を失った無国籍の民には滅亡しかありません。私たちは伝えてゆかなければなりません。
 どんな時代の中にあっても、どこまでもヤマトの平安と国民の幸せを願われ、そのためにはご自分の命までも差し出してくださる天皇がいますことを。
(赤塚 高仁 赤塚建設㈱社長) 

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