検索キーワード
随想倶楽部
あちこちで雪の便りが聞かれる頃になりました。年の瀬もいよいよ押し迫り、気がつけば今年もあとわずか、何かと慌ただしい毎日でございます。
年末近くになりますと、真っ先に思い出しますのが、江戸時代に実際に起こりました「赤穂義士の討入り」事件でございます。
年の暮れには、その事件に材をとりました「仮名手本忠臣蔵」が、各地で人形浄瑠璃、歌舞伎として、たびたび上演されております。
四十七士の仇討ちまでの困難、彼らを取り巻く人間模様を鮮やかに描き上げた物語の中には、たくさんの小唄が唄われております。そして今なお多くの人に愛され、人々の心をとらえてやみません。
今回、「仮名手本忠臣蔵」の中からよく唄われております「年の瀬」「塩谷判官」をご紹介したいと思います。
年の瀬
〽年の瀬や年の瀬や
水の流れと人の身は
止めてとまらぬ武士の
浮世の義理の捨てどころ
頭布羽織も打ちこんで肌 さえ寒き竹売りの
明日待たるる宝船
この唄は明治時代の作で、赤穂義士の一人大高源吾と俳諧で知りあった宝井其角との出会いを唄ったものです。
赤穂義士討入りの前日、吉良家の様子をさぐるために、竹売りに身をやつした大高源吾を両国橋の上で俳友の其角が見かけ、冬空に頭布羽織をぬぎすてたみすぼらしい姿を見て、「年の瀬や水の流れと人の身は」と発句で問いかけますと、すかさず「明日待たるる宝船」と明日の討入りをひかえ、心中期する所のある源吾が其角に附句で答えて別れたという伝説をつづったものでございます。
年の暮れのわびしさ、年末のあわただしさと来るべき新しい年への望みなどを、「年の瀬」ではよくあらわしております。
「仮名手本忠臣蔵」四段目
塩谷判官
〽塩谷判官閉居によって
扇ヶ谷の上屋敷
白木の三宝に腹切刀
「力弥、由良之助はまだ 来ぬか」
「ははは未だ参上へへ仕りませぬ」
元禄14年に起きた世に言う赤穂義士討入り事件を題材にし、歌舞伎などでは本名を使うことをはばかり、時代背景を室町時代とし、「太平記」の世界を借りて、劇化したのが忠臣蔵です。 浅野内匠頭を塩谷判官(えんやはんがん)、大石内蔵助を大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)、吉良上野介を高師直(こうのもろなお)大石主税を大星力弥(おおぼしりきや)などの仮名で脚色しております。
この小唄は判官切腹の場面で、緊迫感に満ちた歌舞伎屈指の名場面を唄っております。
由良之介の一子、力弥が、白木の三宝に九寸五分の腹切刀をのせて判官の前へ置きます。
判官は、白小袖に無紋の上下で九寸五分を取って「力弥」「ハッ」「由良之介は」と聞くこと二度、力弥は泣く泣く「未だ参上仕りませぬ」と答えます。やがて刀を逆手に取り直し、突立てるという悲愴感みなぎる一場面です。
今回ご紹介いたしました小唄は「仮名手本忠臣蔵」の中から永い間愛されている小唄を選びました。
たしかに赤穂義士の仇討という事件を下敷にして、作られた小唄ですが、そこに登場するさまざまな人物たちが展開する、人間ドラマだったような気がいたします。
寒さ厳しき折、皆様の健康とご多幸をお祈り申し上げます。
(小唄 土筆派家元)
2015年12月3日 AM 4:55
親は子供の事をいつの世でも思っています。親は子供が思う以上に子供の事を気にかけています。親は誠の心で愛し、子供の何倍も思っています。自分が死んだ後の事を気にかけて、子供がいつまでも幸せである事だけを祈ってやまないのが親です。
戦国時代の忠義と親子の情愛に生きた真田信之(信幸を関ヶ原戦後に改名)の妻に私は思いを馳せました。政略結婚で嫁いだ小松姫もその一人です。
小松姫は、徳川四天王の一人本多忠勝の娘で家康の養女として一八歳で、真田信之に嫁いでいます。この信之を支え、才色兼備で真田家の行く末を安泰とした人です。
天下に名を轟かせた「六文銭」の家紋・旗印のもとで時代を読み、城主夫人の意地を貫いたのです。信濃国真田一族が十万石(長野県長野市松代)の大名として維新を迎え、更に現代へと家名を守ってきたのです。
この信之と小松姫の労を取ったのは豊臣秀吉です。その秀吉が世を去り、徳川家康が台頭してきます。石田三成は反旗を翻し関ヶ原戦へとなっていきます。舅真田昌幸の妻と石田三成の妻は姉妹であり、義弟真田幸村は盟友大谷吉継の娘を妻としています。信之だけが徳川家康の養女で本多忠勝の娘と結ばれているのです。その親子の袂を分けて信之は徳川方につき、忠節を貫き、命がけで行なった処世術はすごいものがあります。
舅昌幸は犬伏(栃木県犬伏)に子供の信之、幸村を呼んで密談し、昌幸と幸村は三成側につき、信之は徳川につく事で将来を賭けたのです。真田家はいずれかで名を保とうとしたのです。昌幸と幸村は信之を犬伏に留めて上田城(長野市上田市)に戻ります。その途中に信之の居城(沼田城=群馬県沼田市)があり、敵味方になれば孫たちの顔も見られぬと立ち寄る事にしました。夜中で城門は閉ざされています。「父上といえども留守を預かる身、みだりに入城はさせぬ。どうしてもというなら、弓矢をもって応戦する…」、と城内から嫁の小松姫は叫び、武装しています。「孫の顔が見たいだけじゃ…」と城の外から答えます。城から少し離れた正覚寺に昌幸らを招いて、心尽くしのもてなし、衣服を改め、五人の子を伴っていました。
さすがは気丈な立居振る舞いと思いやりに感心し、昌幸は戦国の掟と親子親族の情をわきまえた嫁に喜びました。「これで真田の血脈も安泰じゃ」と沼田の町をあとにしました。
戦いは家康側が勝ち、信之は沼田・上田領を与えられ安堵します。信之の功(小松姫の内助の功)で昌幸、幸村は死罪を免れて高野山へ流罪。小松姫は高野山(和歌山県九度山町)での生活費を出して支えています。舅昌幸は慶長16年(1611)九度山で六五歳の生涯を閉じ、義弟幸村は大坂の陣で大坂方に加わり、再び東西に分れて戦います。
幸村は兄信之に迷惑のないようにと 大坂城の平野口に出丸(真田丸)を造り、そこで華々しく戦い散った。でもこの大坂の陣は彼女にとっては悲愴の時です。夫の信之は病に臥す身なので長子信吉、次男信政を父の代わりとして、小松姫の弟本多忠朝の兵の中に組み入れてもらい、家康への忠勤を果たしました。
この時には真田家の重臣矢沢頼幸に「二人の子供をくれぐれも頼みますよ」と随行させます。子供の無事を祈る一人の母の姿であり、良妻賢母の心の細やかさがわかります。信之の病は長びきます。小松姫は元和5年に病に罹り、翌6年(1620)2月24日に療養に出かけた途中先の武蔵野国鴻巣(埼玉県)で四八歳の生涯を閉じました。その信之は小松姫が病をすべて引き取ってくれたかのように快癒して、九三歳まで生きました。
小松姫は嫁家、真田家の弥栄を心から願った人です。戦争の実体の多くは政治です。しかし親子の愛に優るものはないのです。親はいつも平安の心で、子供の笑顔を見ていたいのです。肉親の無事を祈り、生命を謳歌してくれる事のみを思うのです。
すべての人が幸せである事を願うのは、これからを生きていく私達の大きな義務だろう…と思いました。
(全国歴史研究会・三重歴史研究会・ときめき高虎会会員)
2015年11月19日 AM 4:55
2015年10月29日 AM 4:55