随想倶楽部

  先日、藤堂高虎公の大河ドラマを!とNHKに3県4市町の首町や各団体の代表者32名が請願に行かれたと聞きました。高虎公ファンの私も早期に実現となる事を願っています。 
 高虎公は徳川家康公と共に戦国時代を終え、おだやかな安定した平和な時代(封建社会ではあるが)へと力を注いだ一人でもあります。治世は武力で制圧する「武断政治」から徳をもって治める「文治政治」になっていきました。家康公は豊かな知識を持っている儒学者林羅山(道春)を召しかかえています。二百ヶ条御詠歌の箇所に林羅山との交友が書かれており、高虎公の学ぼうとする精神が読み取れます。
 古代国家の成立の時に、神道のところに中国、朝鮮から儒教や仏教が伝来し、うまく調和して日本文化に大きく影響を与えました。 儒学とは中国の孔子(BC551~BC479)を始祖とし、徳をもって治める思想。五つの徳(仁義礼智信)と五つの関係(親子・君臣・夫婦・兄弟・朋友)を大切にする考え方です。江戸期には儒学は「思想」よりも「教養」とされ、人々の生活の中に秩序、礼節を重んじる道徳として根づいていったのです。これは現代社会にも受け継がれてきています。
 高虎公家訓十九条に「仁義礼智信、どれ一つ欠けても何事も成功しないよ」と述べられています。仁(思いやり)義(道理)礼(礼儀)智(知恵)信(信頼)の事です。その他の条にもいろいろと書かれていて、息子の高次(当時二五歳)に父高虎(当時七十歳)はやさしく諭していて、親の深い情愛がわかります。 
 また高虎公遺訓二百ヶ条は高虎公死後三四年のちに家臣の大神朝臣惟直が高虎公を偲んで書き記したものです。家訓と類似する部分が多くあり、高虎公の心情や思考がよく分かります。背中のかゆい所に手が届く程にきめ細かく書かれています。
 まず一条は命の大切さ、一一条は思いやりを持つ事、一五条は人の意見は聞くようにすると良い。一六条・言葉は礼儀正しく。二〇条・適材適所に人を使って育てなさい。二一条・上司は人を見る目を持つ事。三七条・信頼されるように心がけよ。四三条・親孝行しなさい。五四条・精神力を養うこと。他に嗜み一つで人となりが見えるよ。自分の人生道はしっかりと持つ事。旅に出るときの心得。習い事はした方が良い。本を読もう。諸作法の心得等々。
 私のお気に入りは九三条です。妻は大切にしなさいよ!神代の昔から赤い糸で結ばれているから互いに助け合いなさいの所です。夫婦は笑顔で喜んで生活していれば福の神がやってくると言われています。頑張ろうーと!
 さて、今世間ではいじめや体罰の事が大きく取り上げられています。挨拶は笑顔のはじまり。ありがとうは感謝の言葉です。言葉ひとつで人を思い、更に自分の成長になりますね。一条の「寝屋を出るより其の日を死番と心得よ」の言葉にはいのち、今と言う時間の大切さ、心の持ち方が書かれています。一一条の情(思いやり)をかけなさい。もし何かあった時は「人のせい」にしないで、反省して相手の立場の身になって考えなさいと記されています。
 しつけは「しつづける」事でいつの間にか生活習慣となるもの。そして親や上司がやってはいけない三つの事があります。小言、権力乱用、体罰という暴力です。人は笑うと心が満たされ、褒められると頑張ろうという活力になります。親や上司は子や部下を信じて愛し、理解し、認めてあげると良いということですね。
 この高虎公の家訓や遺訓二百ヶ条の教えを守り、子孫、家臣や領民は努力し、人づくりや町づくりをし文化藩として栄えてきたのだと思いました。読み終えて高虎公の人柄に触れ、江戸時代早期の生活をかい間見た気がして楽しい時間を過ごしました。
 (椋本 千江 全国歴史研究会・三重歴史研究会・ときめき高虎会会員)

 私はよさこい「笑楽-eraku-(えらく)」というチームの代表を務めさせて頂いたり、「ノルディックウォーキング」という、スキーストックのような2本のポールを用いたウォーキング運動の普及活動をさせて頂いたりなど、まずは自分が楽しみ、それが皆さんへお役立てできるものであればと、催し物や市民活動を趣味の範囲で企画させて頂いています。
 しかし、それらの活動を元々されていらっしゃった方とのご縁があって始めたのであって、街の活性化などに私自身が寄与しているとは思っていませんが、この機会に〝街で暮らす〟と言うものを自分なりに考えてみようと思いました。
 「そもそも街の活性化ってなんだろう?」
 初歩的なようで、実はとても曖昧なものと言いますか、裏を返せば奥深いものなのだろうなと感じます。 経済学・社会学的に言えば、更なる消費の活性化、経済効果を指すことが一般的だろうと思います。それは街の将来にとっては非常に大切で、市民全体で取り組むべき課題であることも認識しているつもりです。しかし、私の立場は商売人でもないし、公の職員でもない。なかなかそのようなことを強く意識することが難しい中で、印象的な出来事がありました。
 仕事で美杉を訪れた時のことです。場所は美杉町の三多気地区。北畠氏が隆盛を誇った時代には、1万5千人もの民衆が暮らす一大都市でした。ところが現在では限界集落の代名詞のような場所になり、深刻な過疎化状態が続いています。お伺いさせて頂いた年配のお客様のお宅も御多分に漏れず。交通機関も行き届かず、さぞ困難な生活を強いられているのだろう、不安な毎日を暮されているのだろうと思い、お話していましたら意外なことをおっしゃられたのです。
 「ここは日本の桜名所百選にも選ばれた風光明媚な場所。こんなに景色が良く歴史が深く素晴らしいところはない。若い人にもおすすめしたい」
 私はこの言葉を聞いたときにハッとしました。私は住んでいるところに「自分の街」として誇りを持って生活しているのだろうか?誇りが持てるような街の魅力をきちんと分かっているのだろうか?それを意識したら、もっと楽しく生活でき、活性化に繋がるかもしれない。
 私自身ここ数年、様々な活動を通じて、沢山の方々と触れ合い、地域の魅力を発信されている方が沢山いらっしゃることを知りました。大切なのはその情報をきちんとお届けできる仕組みや、情報をキャッチしようとする受け取り側の意識を育むことなのではないでしょうか?
 そうすることで街で暮らすことへの愛着が高まり、地元が誇りに思える。結果として、外から見ても魅力ある地域になり、居住者や訪問者が増え、それがまずありきで、そこに名物や観光地がうまく絡んでいければ、津市のブランド化や活性化につながるのでは?そう考えました。
 とはいえ、矛盾するようですが、都会にいけば行列ができるようなおいしい飲食店が、いつでも落ち着いた雰囲気で楽しめるのも津市の魅力とも言えます。
 皮肉ではありません。要するに、真似事ではなく、自分なりの、その地域なりの独自の物差しで魅力を感じることから始めれば良いのだと思います。そのためにも「楽しい情報交換の活性化」が欠かせないのではないでしょうか?
 街は長い歴史に彩られた「人と食のテーマパーク」。もともとインドア派の私が街に出ることの楽しさを教えてくれたのも、この津市に魅力があるからです。私も体ひとつですし、すべての事を見聞したり取り組むことは難しいと思いますが、ご縁のある方とできる限りこの津市で楽しみ続けることが大切なことだと思っています。
 日頃の市民活動を支えて下さる地域の皆様に心から感謝申し上げます。
(田村 賢治 よさこいチーム笑楽-eraku-(えらく)代表、津市民活動団体『レッ津!ノルディック!』事務局長、ゆるキャラ「藤堂とらまるくん」テーマソング振付)

 5世紀後半・雄略朝の頃、白山一帯はあちこちに温泉が湧出し、盧城部連すなわち温泉を司どる村主が枳筥喩であった。
 当時、都から斎宮に遣わされていたのが拷幡皇女で、土地が変わりあまりにも田舎ぐらしで淋しいことや、都を想って食が細り、とうとう気欝になってしまう。
 そこで、家城の湯が良いと知ったお付きの人々が皇女を連れて湯治に来る。しばらく滞在する皇女たちを、湯人として努め世話をしたのが枳筥喩の息子、武彦であった。
 かゆいところへ手の届くように世話をしてくれる武彦に、皇女はいつか魅かれてゆく。
 ところが、磯特牛なる阿閇臣国見が前々から皇女に横恋慕をしていて、自分も湯治と称して家城に滞在、なんとか皇女の歓心をかおうと手練手管を尽くす。 
 しかし、皇女には全く関心がなく、国見が言い寄れば言い寄るほど、武彦に魅かれてゆくのである。一方、武彦にとって皇女は雲の上の人であり下心など微塵もなくただただ心を尽くして仕えるのであった。
 やがて、元のようにふっくらと元気を取り戻した皇女は名残を惜しみながら斎宮に帰ってゆく。
 どうしても自分になびかない皇女に国見は一計を考える。武彦が皇女を侵し妊娠をさせたと根拠のない偽りの嘘をとばしたのでる。
 この噂に驚いた父・枳筥喩は息子を呼んで問い正す。
「武彦、噂は本当か?おまえと皇女様の間に何かあったのか?」
 「父上、ぜったいに何もありません。考えて見て下さい、たとえ私が皇女様をお慕いしたとしても、私と皇女様ではあまりにも身分が違い過ぎます。父上、信じてください」
 「そうか、本当だな」
 「本当です」
 一時は武彦の言葉を信じたものの、この流言が朝廷に聞こえたら禍が己に及ぶことを恐れた父・枳筥喩は、武彦を盧城河(雲出川)に連れていき当時この地方で盛んに行われていた鵜飼の真似もさせて水中で魚を捕らせ不意をおそって殺してしまうのである(武彦は家城殺頭ヶ淵に討る。某所を飛落首と名づく。比淵西より東に到て三町餘あり、飛落首は東の端なり。寅の方三町許の岸に細流あり。土俗太刀洗の水と云。簗瀬の岸なり「地誌大系本」)。
 一方、この流言は都にまで達し、これを耳にした雄略天皇は、ただちに使者をつかわして事の真偽を皇女に確かめる。
 父・天皇の疑いと武彦の死を知った皇女は、
「私にはまったく身に覚えがないことです」
と、はっきり使者に伝えた後、身の証をたてようと神鏡を抱きさまよい出て五十鈴川を逆のぼりその川上に鏡を土中深く埋め、樹で首をくくって自殺してしまうのである。
 天皇は皇女が行方不明となり、あちこちを捜させていたところ、五十鈴川の川上で四、五丈(12~15m余)の虹がかかりまるで蛇が立ち登ったように見られたので、その辺りを掘らせたところ鏡が見つかり、その近くで皇女の遺体を発見する。
 そこで、遺体を腑分け(解剖)してみると、腹中に水がたまっているだけで妊娠の徴候はなく、単なる流言であったことがはっきりする。 
 このことを知った枳筥喩は、わが子の無実が明らかとなり、その嫌疑がはれたことにホッとしながら、早まってわが子を殺してしまったことを悔い、その噂を流した国見を見つけ打ち殺して、拷幡皇女と武彦の恨みを晴らすのである。
 その後、枳筥喩は大和の石山神宮に逃れて神官となり、皇女と武彦二人の冥福を祈ったという。まだ日本に仏教が伝わっていない時代、神社がある種のかけこみ寺のような役目をしていたのかも知れない。現在も白山・家城神社の裏に「こぶ湯」と呼ばれる霊泉があり、悲しい物語りの当時を偲ばせる。
 また、この悲話から雲出川が上古奈良時代には河魚の大きな漁場であったことが伺える。なお、雲出川の鵜飼は明治30年頃まで在続し、薪炭や農作物などの物資を河口まで輸送する舟運に使われていたと史誌は伝える。
(新津 太郎)(このお話は「日本書紀」雄略記と「白山町史」をベースにした一部フィクションです)

[ 21 / 22 ページ ]« First...10...1819202122