随想倶楽部

 昭和二〇年十二月、皇居に六十人ほどの青年たちが手に荷物を持ってやってきた。戦争で荒れた皇居の草刈りや、掃除をさせてもらいたいという思いの宮城県の青年たちだった。
 もし、GHQの目に触れて検挙、あるいは永の別れになるかも知れないと水杯で親兄弟と別れてきたという。
 皇居付近には泊まるところがないので、二十キロ離れたところから歩き、朝から夕まで手弁当で働いた。
東北からはるばる上京し、皇居内の清掃をしている青年たちがいることは、すでに両陛下の耳に届き、天皇さまから「一同に会いたい」とのご希望があった。
 陛下が作業現場までお出ましになったとき、そのお姿を遠くから拝した六十人の青年たちは、仕事を中断し、集まった。
 昭和天皇は、即位以来初めて国民と語り、共に喜ぶという御思いがその時現実となったのである。
 代表がご挨拶を申し上げたのに対し、陛下は「遠いところから来てくれてまことにありがとう」それから、次々に質問をなされた。
 十分ほどのお話があり「なにとぞ国家再建のためにたゆまず精を出してもらいたい」とのお言葉を最後に、陛下は一同と別れ、元の道をお帰りになられた。 二、三十歩お歩きになったとき、突然青年たちが「君が代」の合唱を始めた。当時、占領軍の取り締まりが厳しく、誰もが口にできなかった「君が代」が誰からともなく、皆の心の中からほとばしり出たのだ。
 陛下は歩みを止められ、じっと聞き入っておられた。青年たちはお見送りのつもりだったのだが、陛下は立ち止まって聞き入っておられた。青年たちは、お止めしては申し訳ないと焦れば焦るほどその歌声は途切れ、最後には皆の嗚咽しか聞こえなくなった。
 それから七十年、今も続く皇居勤労奉仕に私は仲間たち二十八名で出かけた。
 初日は、赤坂御苑の清掃で、皇太子殿下がお出ましになり、団長である私に、「日頃はどのような活動をされているのですか?」とお声をかけてくださった。
 「戦後失われてしまった日本の歴史を神話から学び直すために古事記を読んでおります」とお答えすると、「どうか身体に気をつけてご活躍ください」と言ってくださった。
 その涼やかな眼差しに、「殿下もどうぞお健やかにお過ごしください」と申し上げると、「ありがとう」とお応え下さった。
 次の日、皇居の清掃では、天皇・皇居両陛下が御会釈にお出ましくださった。
 私の目の前に両陛下が立ち止まり、お言葉をかけてくださったのだ。
 「三重県ですか、遷宮の後はいかがですか?」と。
何とお答えしたかさえ覚えていない。両陛下の輝くオーラ、その光に包まれる至福の体験であった。
 そのうえ私が代表して、両陛下の至近距離で、天皇陛下、皇后陛下万歳を三唱することになったのである。
「天皇陛下、皇后陛下」と申し上げると私の目を見つめてくださる両陛下。
 そのとき、締め切った部屋の中に風が吹いた。確かに、霊の風が吹いた。そして、はらわたの底から「万歳!」と叫んだ。
 これが、天皇さまか!理屈はすべて吹き飛びただ、かたじけなさに涙こぼれた。
 後ろに控える私の仲間も、各地から集った奉仕団の皆も泣きながら万歳三唱した。
 宮中三殿の澄み切った気配も、ありありとやまとこころに刻まれた。
 日ごとに国民ひとりびとりの幸せを祈ってくださっている天皇・皇后陛下の御存在にただただ感謝が湧いてならない。
 やまとこころに目覚め、国を大事に思う気持ちを取り戻さなければいけない。
かみさまとの御約束で、私たちは世界で唯一、建国以来二六七四年続く、万世一系の大君を仰ぐ君主主義国家、日本に生まれることができたのだから。
     (赤塚建設社長)

 東京カリスマドライバーである、下田大気さんの「タクシーほど気楽な商売はない」にも書かれているが、福祉タクシーも時間マネジメントの世界だ。時間を有効に使う人、現状に満足せず自分の一日を振り返る人には向いているのかも知れない。先の〝気楽〟というのは、また別の意味から派生しているのだろうが、いろんな出会いが自らを変えるのは間違いない。
 福祉タクシーには、様々な依頼がある。病院への通院、入退院だけでなく一人住まいのお年寄りの見守りや季節の花見、結婚式場の付き添い、夜間も要請があれば走行する。
 桜花の落花が盛んなある日の夕方、一本の電話が鳴った。津市内から横浜市内の病院まで、至急搬送の依頼。「療養目的で三重に来ていたが、今日帰ることになった。電動車椅子に乗っているが、重量もかなりで、道中も心配している」と、相手は告げた。
 帰庫を予定していたが、ハンドルを返して乗車を開始したのは、午後6時を過ぎていた。これから夜間走行ということもあり、安全運転はもとより、車の揺れや空調の一つひとつが患者さんの負担を大きく左右するので、慎重な搬送が求められる。同時に、車内介助も大きな役目の一つだ。
 車椅子で乗車いただいたのは、著名なエッセイスト。ADL(日常生活動作)や、その他を詳細に聞いたうえで車輛を走らせたが、本体が100㎏はある電動車椅子に長期療養期間中の膨大な荷物、家族や関係者も同乗するという。
 さらに、患者等搬送車輛は2名乗務体制が基本。道中の休憩も、もちろん入れなければならない。ドライバー以外に患者さんを含めて4人が乗車するのだから、普段余裕のあるハイエースの車内は、それこそ足の踏み場もない。
 これだけ大所帯の車に緊張し、聞けば高速道路の途中は渋滞しているとの情報だ。もし途中で患者さんの容体急変すれば、それこそ一大事である。患者等搬送車輛は、サイレンや赤色灯を設置してはならない。
 私は、これまでの経験をフルに生かそうと決断した。その中には、もちろん遠距離の走行や患者搬送、救命講習等で習ったこと、車内に設置してある諸設備、介護経験なども全て入れ込んで走行した。
 水分の補給や体の見守りは、後部に乗車する介助員が車内ランプを頼りに行う。春と言っても、夜間は冷え込む。難病ということもあり、家族と相談して患者さんに負担がかからないよう、車外での休憩は難しいと判断。幸い、患者さんは車内で熟睡している。 
 停車させつつ容体を気遣い、途中の渋滞もクリアして現地に到着したのは、午前1時を過ぎていた。横浜の街並みは、夜露に包まれていた。昼間は混雑するであろうビルの谷間の深夜はタクシーの往来だけが頻繁で、走行していて幻想的な気分になる。
 早速、連絡済みの病院の救急外来の指示を仰ぎ、車を誘導してもらいながら、医師に道中の患者の状態などを報告した。 
 何日かしたある日、搬送した患者さんの家族から電話があった。「今日、天国に旅立ちました。地元の病院で最後を看取れたのは、私達もそうですが、本人もよかったと思います。ありがとうございました」。
 息を引き取られてから、数時間後とのこと。普通は、親戚やこれまでに付き合いがあった人達への連絡で多忙を極めているだろうが、我々にも〝礼〟を返してくれる。この仕事をして、感無量の一瞬だった。
 日記を開けば、幾多のエピソードがある。これらの経験一つひとつが、乗車していただくお客様の喜び、自身への明日への糧につながっている。
大森  成人(日本福祉タクシー協会会員・患者等搬送事業認定はあと福祉タクシー代表)

 市役所が用意する住民参加の一つとして、市民会議、市民懇談会のたぐいがある。福祉のまちづくりとか、ゴミゼロといった特定のテーマで設けられることもあるし、メンバーが自由にテーマを決めてよい場合もある。
 私は長年勤務した国土交通省を辞め…自由な立場になったのを期に、今までとは違う視点から「住民参加」を実践してみようと考えた。ふるさと津市では難しかったので、現在、住んでいる川崎市の「麻生区区民会議」に公募委員として参加することにした。2年前のことである。
 任期が始まり、二つの部会に分かれて活動することになったが、私は自分がやりたかったテーマに近い「安全・安心のまちづくり部会」に所属し、思うところあって部会長を買って出た。
 この部会では、「大地震から助かる命を守る」というテーマで検討することになった。阪神・淡路大震災では、地震発生直後に亡くなった犠牲者約5500人の95パーセント以上が建物の影響で亡くなっている。 主な原因は、火災と家屋の倒壊と家具の転倒である。その中で、区民会議の性格を考え、区民(市民)の立場でできることとして、あえて「家具の転倒防止」に焦点を当てることになった。
 役所と同じような議論をしていても意味がないので、区民会議らしい活動として、地域に出てモデル事業をやろうと提案し、個人宅にモデルになってもらい、実際に家具固定工事を行い、その成果を普及しようということになった。
 市民自ら市民に呼び掛けるのだから、顔の見える関係で簡単に協力世帯が集まるかと思ったが、実際にはかなり苦労した。家具の転倒は心配だという声はよく聞くのだが、ではやってくれるのかというとそうでもなくて、他人が家の中に入ること、家の中を見られることへの抵抗が大きいようで、「家の中が散らかっているから」という断り文句を何度も聞かされた。それでも、なんとかマンション6戸、戸建て13戸の協力世帯を確保することができた。
 このモデル工事を行うためにはプロの協力が不可欠だった。幸い、地元の明治大学建築学科の先生を知っていたので、いい建設会社を紹介してもらうことができた。また、個人で家具転倒防止の普及に取り組んでいる奇特な方と以前に会ったことがあったので、思い切って連絡を取ってみたら快く協力してくれることになった。
 こんな経緯で、19軒のお宅に専門技術者とともに伺い、家の中のすべての家具や電化製品を固定して差し上げた。ご家族は納得・安心できる家具固定を、しかも無料でやってもらえたということで、心から喜んでくれた。私たちも、家具転倒防止対策の専門知識や技術がたくさん得られたし、今後普及していくためのノウハウもいろいろと得ることができた。モデル事業として実際に現場に入って手を動かしたからこそ分かったことがたくさんあったのである。現在、その成果を「普及啓発パンフレット」として取りまとめている。
 たまたま私の専門は建築なので、これらの取り組みをリードできた面もあるが、あくまで「市民による取り組み」を基本線とし、メンバー同士のチームワークを尊重することを貫き、今までの、そして他区の区民会議よりもはるかに素晴らしい成果を挙げることができたと思っている。
 事務局を務めてくれた麻生区役所も、最初は前例のない活動にブレーキを踏むこともあったが、成果が出てくるに従って協力的になり、よくサポートしてくれた。専門技術者の献身的な協力も区民会議メンバーの熱心な取り組みも有り難かった。まさに様々な関係者が一丸となって連携協力することで素晴らしい成果を上げることができるという典型例になったと思う。 一方で、委員の中には、欠席が目立ったり、ろくに発言しなかったり、自分の主張に固執し和を乱す委員もいたが、あえて批判せず、粘り強く話し合いに努めた。このあたりの効率の悪さや体制の不確定さが住民参加の難しい一面だろう。それを承知で取り組むことで、「住民参加」も一歩一歩進化し、広がっていくのではないだろうか。
 今回は川崎市での経験をご披露したが、どの街にも住民が主体的に取り組むまちづくりの可能性は大いにあるので、今度は津市あたりでお役に立ちたいものだと思っている。
村主  英明(津市出身。川崎市在住。㈱日本建築住宅センター研究開発部長)

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