随想倶楽部

 森村竹軒が山のような蔵書を持って突然郡山の家へ帰って来たのは大正12(1
923年)8月末のことであった。何事かと驚いた森村家の人々を更に驚かせたのは、帰省して1週間後の9月1日正午に起こった関東大震災である。
 竹軒は前年の大正11年の冬至にこれを予知していたのである。冬至の日に、国家の大事や吉凶を占うことを例としている竹軒の卦に、「天と地が一つとなり、自分はそれにはさまれ、身動きがとれなくなる」と、天地の変動、大勢の人の死、大きな災いなど、ただならぬ卦が出たので、早速、関係団体や知人友人に連絡、当時易学で最高の権威があった「陰陽新聞」に発表したのである。
 この関東大震災予知は、易者として森村竹軒の名を全国に知らしめることになる。
 森村竹軒、本名は小田二郎、明治2年(1869)年5月3日、一志町大字井生の小田覚之丞の二男として生まれた。名は順、字は敬直、一志の大井小学校、県立津中学校を卒業後、奈良県庁に就職する。
 郡山市の下宿が縁で人柄を見込まれ、同市の森村平七氏の養子となり雪と結婚、二男一女にも恵まれる。夫人の雪は雪蘭と号し、後に「和州遠山流盆石」の家元となった人である。
 竹軒が易と初めて係わったのは、休暇で故郷の一志に帰るため、国鉄津駅から歩いて岩田橋に差しかかった時であった。「兄さん兄さん、あんたに女難の相が出てるよ」と、一人の大道易者に呼び止められる。「えっ、私に…」、そんなことがある筈がないと腹を立て、一志への道を急ぐのであった。
 ところが、実家へ帰ってみると妹が結婚のことで悩んでおり、ぜひ、兄の竹軒に何とかしてくれという。休養のため帰った実家であったが、竹軒は東奔西走して何とか話を丸く収め、妹は無事嫁ぐことになる。そこで、易者の言った女難は自分自身のことでなく、妹のことであったのかと、彼はその後、易道に魅かれてゆく。
 明治30(1897)年、易道への思いが強くなり、森村家の許可を得て単身上京、慶応大学に入学し易学を専攻する。しかし、大学のそれは竹軒の求める易とは乖離したもので、間もなく大学を中退、頼れる師のないまま独学で学理と事象の関係などを判断、苦学し努力して、その道を極めてゆく。
 そもそも易とは、中国古代におこった占の一種で、亀甲獣骨を火で焼いてできた裂け目の形によって吉凶を判断する方法を卜といい、卜法の口述・記録を占とよんで、判断の根拠となる原則がつくられたが、これが次第に理論づけられて易がうまれその根本原理を八卦と称した。易の字義はトカゲの象形といわれ、トカゲの体色が周囲の状況に応じて変化する意味を転用し、宇宙の万障が変化する自然の理法にのっとって人事諸般の対応策を説こうとするものである(参・小学館・百科辞典)。
 そして、易学は一年の計を冬至にはかるので、竹軒は毎年冬至の早朝に国の吉凶、政治の変遷や経済の動向などを占い、その出た卦を親しかった後藤新平や斉藤実、千葉胤月など、時の大臣や多くの名士、文化人、経済人といわれる人たちに伝えてきた。
 そして、大正12年におこった関東大震災予知の的中は、さらに竹軒の易者としての地位を不動のものにしたのである。
 大震災のあった9月下旬、東京より陰陽新聞社社長の松浦東洋が大和郡山に竹軒を訪れ、上京をひたすら懇願する。また、在京の友人知人からも上京を促す手紙が多く寄せられ、ついに竹軒も重かった腰を上げ、東京駒込に居を移し篇額に「洗心学堂」と揮毫する。
 その後、斉藤内閣に関係し、「二・二六事件」発生の予告をしたり、時勢を憂い「易経専攻書院」を設立、国家社会に役立とうと日夜奮闘努力するが、志し半ばの昭和9年(1934)、病死、郡山市の三松寺に葬られる。享年66。
 三松寺境内に頌徳碑があり、建碑者の一人、宮中御歌所寄人・千葉胤月が歌を刻している。
〝身をわすれ すめらみ国の道をとく 人は君よりなかりしものよ〟 
 竹軒の清廉潔白な性格と高い品性の人となりは、精緻な占いと共に多くの人に惜しまれたのであった。
 もし、彼が今の世にあれば、3・11東日本大震災や尖閣列島・日中問題なども的確に予知し得たであろうか。(新津 太郎 参考・一志町史)

   わたしたちの会は、今年設立15周年という節目を迎えました。会の活動はボランティアだと思いますが、わたしは、このボランティアということばを今日までずうーっと自問自答してきました。
 ボランティアの定義は、「無償奉仕」ということでしょうが、そこには無償だから、多少ゆき届かなくても許されるという、あまえのようなフシがあります。わたしは、しばりのないボランティアだからこそ、心を引き締めてとりかかる必要があるのだと思います。 15年という節目の年に会名を改め、それに沿って、定款の活動目的も、より分かりやすく表現することにしました。
 会名ですが、里山のことを考え、見つめ続けてきましたが、かつて地域の人々がやってきたように里山という自然にとけこみ、ふれあっていこう、人間も自然も所詮おなじ地球の仲間じゃないか、この里山という自然を利用させてもらって共に子どもたちを育んで、地域の人々が支えあおうというのが根底にあります。 優美な大型の鳥ばかりが大切な鳥というわけではありませんが、わたしたちの拘わっている里山の周辺には、10数種の猛禽類が集まってきており、ピラミッドの頂点に君臨する彼らは、その場所が如何に生態ゆたかな森であるかという証左となっているのです。
 周辺には、いくつもの池が点在し、小川が流れ、里山の外周に畑や田んぼがあり、町を縦断する大きな川がたくさんの生き物の餌を提供しているからです。
 わたしたちは、まもなくオープンされる県立博物館の附属生態園=エコミュージアムとして、広く県民に愛される里山にできないかと模索しています。
 梅雨が訪れる6月のはじめ、ササユリがにおい、夏には、カブトムシやクワガタムシが現れ、秋には、アケビが熟する町のまん中に位置する里山、これこそ子どもたちが、体験学習をする場所としてふさわしい舞台であると思っています。 おこがましいことですが子どもたちを含め、青少年や大人も共々、人間形成への創造に取り組み、深めていきたいと願っています。
 里山の生態を守り、その奥深さにふれて、次代の夢を育てていくのがわたしたちの究極の願いです。
 《NPO法人 みえ里山自然ふれあいの会》 
 この新名称は、三重県の認証後に正式に表示されます。
(NPO法人 三重の里山を考える会事務局長)

 高齢化社会と言われたのは、この前のこと。今では〝超高齢化社会〟となり、県内でもあちこちにデイサービスや高齢者専用賃貸住宅ができている。それに伴い、高齢の方や障害の方が病院や各目的地まで乗車できる、いわゆる介護・福祉タクシーも頻繁に走る。
 福祉タクシーは、歩行困難者や交通弱者の外出を支援する、福祉・介護の専門業者。お年寄りをはじめ、障害を持つ人達の日常の足として、病院や施設等への移動の足として、車イスやストレッチャー利用者でも乗降できる機能を車に備えている。
 「ドア・ツー・ドア」、「ベッド・ツー・ベッド」 高齢者や障害者がありのままの生活から外出を可能にすることを基本にしており、乗務員による介助技術も大切である。
 私は、その福祉タクシーを開業して今年で一年。これまでは開業している先輩にイロハを教わり、営業もし、自分で実地で勉強しながらここまで来た。それまで、介護の現場で教わったことも今では大いに生かされている。と言っても、55歳。まだまだこれから頑張らねばならない。一日のうちにお会いする、これまでにご乗車いただいた方や、はじめてお会いする方と、乗降や介助を通して会話することが非常に楽しみであると共に、今日一日どのような出会いがあるのか、良い意味で緊張を覚えるし、安全な乗車、介助を心がける。
 お客様に気持ち良く乗車していただくため、きちんとした挨拶はドライバーの基本。車イスや手介助で注意して乗車させていただき、目的地へ向かうわけだが、道中常に安全運転を心がけ、時間を計りながら、到着した後は、乗車運賃をいただいて目的の場所へさらに事故のないように、車椅子や介助で注意しながらお届けする。実にいろいろな作業をこなすわけだが、これらの中でお客様とのふれ合いがあるし、やりがいを感じる。
 一方で、タクシーというだけに、事故のないよう心がけるための精神的、技術的な努力や、その日の事業運営収入など、少々ドロ臭い独特の感覚も持ち合わせる。また、訪問する介護の現場でも、私の営業に対してあまり理解していただけない場合もあれば、利用者の側でもこのようなサービスがあること自体知らなかったという人もいる。
 ある病院の午前の時間帯は、介護、福祉タクシーの事業者が客を乗降させるのに列をなすこともある。マナーの遵守も大切だし、介護も引き受ける福祉タクシーの運転手は、病にも気をつけねばならない。病は気からというが、この業種は病は肉体からともいえる。時には腰を痛めることも。
 ある日、家内がそっとくれた梁石日氏著「タクシー・ドライバー日誌」を時間があればページをめくる。1986年初版だから、今のタクシー料金とは比較にならない時代だが、ドライバーが日々送る心の喜びや心身の悲痛な現実は、まさに自身にあてはまるのだ。 時には、文章に表せないような搬送依頼もあるし、深夜の搬送依頼も。寝床にいる時は、お客様を長時間待たせている錯覚に陥る。これまで毎夜飲んでいた酒も、今やノンアルコール。
 同時に自身の心も磨けと、毎朝トイレ掃除をして、〝きれいな心〟で出勤するのだが、その日の売上げは後からついてくるのだと、とにかく真心で働かせていただくことに徹する。
 ある日、乗車いただいたお年寄りが「病院からの帰りだし、施設の食事以外のものが食べたい」という。何がいいですか?と尋ねると「うなぎか、天ぷらが好き」と話す。お年寄りは大抵、あっさりしたものが好みと思い込んでいたが、意外な話に、「それでは、ぜひ」と、天ぷらの専門店へ直行した。食事の際、そのお年寄りは「食べたかったから、本当においしい。幸せよ」と、満面の笑みを浮かべて満足。その顔が、素敵だ。
 福祉タクシーとは乗車するだけでなく、人と人をつなぐ心のバロメーター的存在でもあるが、ボランティアでは成り立たない。車の維持費やガソリンの高騰など、思う以上に経費がかかる。だから、行政的支援、財政的補助が必要だ。
 行政と事業者が一体として取り組み、将来さらに需要が増加するであろう介護・福祉タクシーに、政治ももっと耳を傾けて、移送サービスの法制度体制を強化すべきである。
(大森 成人 日本福祉タクシー協会会員、はあと福祉タクシー)

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