随想倶楽部

 「ちょうど今頃、偕楽公園に梟が来るから見に行くといいよ」。と、友人が電話で教えてくれてから、夫と散歩道にしている公園で、ここら辺だよと言われた場所を毎日見上げていたら、運良く三日目に三脚を構えたカメラマンに出くわした。
 「梟ですか」と聞くと「三羽いますよ。親子ですね。覗いてみますか」とフアインダーを覗かせてくださった。
 大きいのと小さいのが一羽ずつ少し離れたところに。もう一羽はどうしても見つけられなかった。レンズでアップしてもらい目がとんでもなく大きく飛び込んで来、可愛い顔に思わず見入ってしまった。
 次の日、ごみ捨てに行ったついでにその場所へ行って探してみると、子供の梟がこちらを向いて枝にとまっていた。何と可愛いまん丸な目。しばらくにらめっこというか目がそらせなくなってしまった。
 魔法使い、魔術といったファンタジーな事が思い浮かぶのはハリーポッターの影響か。夜見つめあい続けていたら、そのままどこか違う世界へ迷い込んでしまいそうな…。
 梟・福を呼ぶ鳥・不苦労とか言われ、日本中、いや世界中で観光客目当ての土産になっている。我が家の飾り棚にも大理石の作家物から北海道で買った小さな木彫り、北欧でみつけた、中にもう一羽入った細工物があり、どれも丸い目が愛嬌。
 ミミズクとも言ったな。梟とミミズクは同じかしらと疑問に思い、パソコンで調べると、ミミズクとはフクロウ科で羽角(うかく)即ち耳があるもの。殆ど判別できないものまであり、形も様々。結論として「フクロウとミミズクには違いがないから気にすんな!」と出てきた。なんと無責任な…。
 そこで我が敬愛する谷川士清の『和訓栞』の登場。と言っても私が愛用しているのは平成二年に名著刊行会が発行した増補語林『倭訓栞』。その下巻で調べてみた。
 『和訓栞』は日本で初めて五十音順に並べた本格的な国語辞典で約二万一千語にものぼる。士清は一人で
編集をし、前編の出版準備を終え、いよいよ印刷だという一七七六年に亡くなった。その後、子孫や弟子が遺志を継ぎ何回かに分けて出版、全九三巻が出版し終えたのは一一〇年後の明治二〇年であった。増補本は伴信友の書き入れ本の前編・中編をまとめて五十音順に配列し直し「お・を」の順序を改め、井上頼圀らが語林を上欄に増補し、上・中・下巻とし、後編はそのままで明治三一年に出版した。名著刊行会からの復刻本は昭和四三年版、四八年版、平成二年版がある。
 みみづく 和名抄に木菟を訓せり、耳の長き獣なるをもて名く
 ふくろう 和名抄に梟をよめり、説文には不孝鳥也とみゆ、ろふ反るなり、形のふくれたるより名とする成るへし、常陸にてねこ鳥といふ…伊勢白子にて鳥追といふ、蝦夷にへうれこいきといふ…と非常に詳しく説明有り。
 広辞苑と比べてみた。
 みみずく 梟鴟目の鳥で頭側に長い羽毛(いわゆる耳)をもつものの汎称。
 ふくろう 梟鴟目の鳥。大きさカラス位。顔は灰白色、額は褐色。背面、下面共に灰白色の地に褐色の縦班があり、下面の方が著しく白っぽい。森の繁みや木の洞にすみ、夜出てノネズミなどを捕らえて食う。
 『和訓栞』は一語一語専門書のように詳しい。一人で調べ五十音順に並べた士清の努力は想像に絶する。
  (谷川士清の会 代表)

 昭和二〇年十二月、皇居に六十人ほどの青年たちが手に荷物を持ってやってきた。戦争で荒れた皇居の草刈りや、掃除をさせてもらいたいという思いの宮城県の青年たちだった。
 もし、GHQの目に触れて検挙、あるいは永の別れになるかも知れないと水杯で親兄弟と別れてきたという。
 皇居付近には泊まるところがないので、二十キロ離れたところから歩き、朝から夕まで手弁当で働いた。
東北からはるばる上京し、皇居内の清掃をしている青年たちがいることは、すでに両陛下の耳に届き、天皇さまから「一同に会いたい」とのご希望があった。
 陛下が作業現場までお出ましになったとき、そのお姿を遠くから拝した六十人の青年たちは、仕事を中断し、集まった。
 昭和天皇は、即位以来初めて国民と語り、共に喜ぶという御思いがその時現実となったのである。
 代表がご挨拶を申し上げたのに対し、陛下は「遠いところから来てくれてまことにありがとう」それから、次々に質問をなされた。
 十分ほどのお話があり「なにとぞ国家再建のためにたゆまず精を出してもらいたい」とのお言葉を最後に、陛下は一同と別れ、元の道をお帰りになられた。 二、三十歩お歩きになったとき、突然青年たちが「君が代」の合唱を始めた。当時、占領軍の取り締まりが厳しく、誰もが口にできなかった「君が代」が誰からともなく、皆の心の中からほとばしり出たのだ。
 陛下は歩みを止められ、じっと聞き入っておられた。青年たちはお見送りのつもりだったのだが、陛下は立ち止まって聞き入っておられた。青年たちは、お止めしては申し訳ないと焦れば焦るほどその歌声は途切れ、最後には皆の嗚咽しか聞こえなくなった。
 それから七十年、今も続く皇居勤労奉仕に私は仲間たち二十八名で出かけた。
 初日は、赤坂御苑の清掃で、皇太子殿下がお出ましになり、団長である私に、「日頃はどのような活動をされているのですか?」とお声をかけてくださった。
 「戦後失われてしまった日本の歴史を神話から学び直すために古事記を読んでおります」とお答えすると、「どうか身体に気をつけてご活躍ください」と言ってくださった。
 その涼やかな眼差しに、「殿下もどうぞお健やかにお過ごしください」と申し上げると、「ありがとう」とお応え下さった。
 次の日、皇居の清掃では、天皇・皇居両陛下が御会釈にお出ましくださった。
 私の目の前に両陛下が立ち止まり、お言葉をかけてくださったのだ。
 「三重県ですか、遷宮の後はいかがですか?」と。
何とお答えしたかさえ覚えていない。両陛下の輝くオーラ、その光に包まれる至福の体験であった。
 そのうえ私が代表して、両陛下の至近距離で、天皇陛下、皇后陛下万歳を三唱することになったのである。
「天皇陛下、皇后陛下」と申し上げると私の目を見つめてくださる両陛下。
 そのとき、締め切った部屋の中に風が吹いた。確かに、霊の風が吹いた。そして、はらわたの底から「万歳!」と叫んだ。
 これが、天皇さまか!理屈はすべて吹き飛びただ、かたじけなさに涙こぼれた。
 後ろに控える私の仲間も、各地から集った奉仕団の皆も泣きながら万歳三唱した。
 宮中三殿の澄み切った気配も、ありありとやまとこころに刻まれた。
 日ごとに国民ひとりびとりの幸せを祈ってくださっている天皇・皇后陛下の御存在にただただ感謝が湧いてならない。
 やまとこころに目覚め、国を大事に思う気持ちを取り戻さなければいけない。
かみさまとの御約束で、私たちは世界で唯一、建国以来二六七四年続く、万世一系の大君を仰ぐ君主主義国家、日本に生まれることができたのだから。
     (赤塚建設社長)

 東京カリスマドライバーである、下田大気さんの「タクシーほど気楽な商売はない」にも書かれているが、福祉タクシーも時間マネジメントの世界だ。時間を有効に使う人、現状に満足せず自分の一日を振り返る人には向いているのかも知れない。先の〝気楽〟というのは、また別の意味から派生しているのだろうが、いろんな出会いが自らを変えるのは間違いない。
 福祉タクシーには、様々な依頼がある。病院への通院、入退院だけでなく一人住まいのお年寄りの見守りや季節の花見、結婚式場の付き添い、夜間も要請があれば走行する。
 桜花の落花が盛んなある日の夕方、一本の電話が鳴った。津市内から横浜市内の病院まで、至急搬送の依頼。「療養目的で三重に来ていたが、今日帰ることになった。電動車椅子に乗っているが、重量もかなりで、道中も心配している」と、相手は告げた。
 帰庫を予定していたが、ハンドルを返して乗車を開始したのは、午後6時を過ぎていた。これから夜間走行ということもあり、安全運転はもとより、車の揺れや空調の一つひとつが患者さんの負担を大きく左右するので、慎重な搬送が求められる。同時に、車内介助も大きな役目の一つだ。
 車椅子で乗車いただいたのは、著名なエッセイスト。ADL(日常生活動作)や、その他を詳細に聞いたうえで車輛を走らせたが、本体が100㎏はある電動車椅子に長期療養期間中の膨大な荷物、家族や関係者も同乗するという。
 さらに、患者等搬送車輛は2名乗務体制が基本。道中の休憩も、もちろん入れなければならない。ドライバー以外に患者さんを含めて4人が乗車するのだから、普段余裕のあるハイエースの車内は、それこそ足の踏み場もない。
 これだけ大所帯の車に緊張し、聞けば高速道路の途中は渋滞しているとの情報だ。もし途中で患者さんの容体急変すれば、それこそ一大事である。患者等搬送車輛は、サイレンや赤色灯を設置してはならない。
 私は、これまでの経験をフルに生かそうと決断した。その中には、もちろん遠距離の走行や患者搬送、救命講習等で習ったこと、車内に設置してある諸設備、介護経験なども全て入れ込んで走行した。
 水分の補給や体の見守りは、後部に乗車する介助員が車内ランプを頼りに行う。春と言っても、夜間は冷え込む。難病ということもあり、家族と相談して患者さんに負担がかからないよう、車外での休憩は難しいと判断。幸い、患者さんは車内で熟睡している。 
 停車させつつ容体を気遣い、途中の渋滞もクリアして現地に到着したのは、午前1時を過ぎていた。横浜の街並みは、夜露に包まれていた。昼間は混雑するであろうビルの谷間の深夜はタクシーの往来だけが頻繁で、走行していて幻想的な気分になる。
 早速、連絡済みの病院の救急外来の指示を仰ぎ、車を誘導してもらいながら、医師に道中の患者の状態などを報告した。 
 何日かしたある日、搬送した患者さんの家族から電話があった。「今日、天国に旅立ちました。地元の病院で最後を看取れたのは、私達もそうですが、本人もよかったと思います。ありがとうございました」。
 息を引き取られてから、数時間後とのこと。普通は、親戚やこれまでに付き合いがあった人達への連絡で多忙を極めているだろうが、我々にも〝礼〟を返してくれる。この仕事をして、感無量の一瞬だった。
 日記を開けば、幾多のエピソードがある。これらの経験一つひとつが、乗車していただくお客様の喜び、自身への明日への糧につながっている。
大森  成人(日本福祉タクシー協会会員・患者等搬送事業認定はあと福祉タクシー代表)

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