随想倶楽部

 レストランという舞台で、もちろん主役はスポットライトを浴びたお客様。演じるのは華麗なるサーヴィススタッフと、シェフの織りなす料理の数々。プロヴァンス地方で最も華のある街、カンヌ。映画祭の舞台にもなる「オテル・マルティネス」のレストラン「LA PALME D’OR」で自らが修業した際、その自然と素材のマリアージュに感銘を受け、今も思いを寄せる場所である。
 私が渡仏したのは、1990年秋、長男が生れて、1才に満たない時でした。なぜ、そのような状況の中で渡仏を決心したか、そこから話を始めましょう。
 そもそも私が、フランス料理に魅了されたのは、この世界に入って3年が過ぎた頃でした。ホテルのメインダイニングで仕事が出来るチャンスを頂いたのですが、そこには、フレッシュのフォアグラや、オマール海老、トリュフやキャビア…憬れの食材ばかりで、見るのも、手にするものすべてが新鮮でした。
 そんな環境の中、子供の頃から負けず嫌いだった私は、同世代の料理人には、負けるもんかと、寝る時間も惜しんで仕事に没頭しました。しばらくすると、フランスへ食べ歩きに行った先輩たちが、「あの三ツ星レストランの鴨料理が最高だった!」とか、「やっぱりフランスのキノコは違うよな」という話で盛り上がっているのを聞き、もう居ても立ってもいられなくなり、普段の生活を切り詰めて、ついには1年後、後輩を誘って食べ歩きに行ったのです。
 夢にまで見たフランス、パリの風景、そしておいしい料理の数々…昼に夜にと惜しみなく食べ歩き、フランスの空気に酔いしれ、フランスを満喫できた旅となりました。しかし、まだその時点ではフランスで働きたいとかは全く思いませんでした。
 大変充実した旅でしたが、日本に帰って日々仕事をしているうちに、今度はフランスに料理の修業に行く先輩が現れました。
 1年後、その先輩が帰国すると「フランスは、パリもいいけど、地方がいいぞ。有名な三ツ星レストランを食べ歩くよりも、実際にフランスの厨房で働いて、フランス人と同じ賄いを食べてこそ、フランスの生活や文化に触れられる」とか言う訳です。
 負けず嫌い、しかも好奇心旺盛な私にとってはもう、この先、料理人を続けていく上で、「フランスでの修業」は「必要不可欠なもの」となってしまったわけです。
 その頃の私は、結婚をしていた上に、幼い子供も産まれたばかり。それでも、と一大決心をして、フランスへ修業に行ったのです。 そこから2年間、フランスでの生活は、料理人としてだけではなく、一人の人間として、様々な経験が出来ました。
 ある程度、日本で経験を積んで行ったのが後になって良かったと感じました。あまり早く行き過ぎると、いいも悪いもすべてがフランス流になってしまいがちです。フランス人相手にフランスで勝負するならそれも良いことだと思います。しかし帰国して日本でやるのなら、それはまた、別だと今でも思っています。なぜなら、風土も違えば、食べる人も日本人だからです。それでもフランスに行かなくては感じられなかったことも多くありました。
 たとえば、フランスでは、お昼になると、銀行や郵便局、美容室なども一時的に閉まってしまいます。お昼の時間をみんなと共有するわけです。それも驚きましたが、カンヌの「ラ・パルム・ドール」で働いた時、フランス人の気質を象徴するような出来事がありました。
 ホテルの前のメインストリート(クロワゼット通り)の前に海岸があり、日本の夏と同じように、花火大会があるのです。
 その日、もちろんレストランは満席、言うまでもなく、厨房は戦場となります。花火大会のラスト30分、今からクライマックス!という時、シェフが「arretez service!」(サーヴィスストップ!)と言い、何番テーブル次は魚料理、何番テーブルは肉料理、という確認をとると、料理人全員がクロワゼット通りに出て行きました。クライマックスの花火観賞のためにです。日本では到底あり得ないことです。これぞフランスならではの風習であり、「みんなで楽しもう」という文化なのだと肌で感じました。
 結局はフランス料理はフランスで生れたもの、料理を語る前に、文化を知らなければならないということを感じました。しかし、文化は違えども、『esprit』精神は受け継げるものだと考えます。そしてこれからもフランスで修業したことを最大限に生かして、すべてのお客様から『パルムドール賞』を頂けることが〝最高の栄誉〟だと信じて、頑張っていきたいと思います。
後 藤   雅 司(ラ・パルム・ドールオーナーシェフ)

 高齢化社会になりました。私も今年3月の誕生日をむかえて77歳で喜寿です。私が子供時代は、人生50年とよく耳にしたことを覚えています。 
 未熟児で生まれ、幾つもの大病をくりかえし、死線をさまよった私でした。義務教育時代に病弱のために留年もしました。この私が今は元気で老いの生活を楽しんでいるのは、私にとってはまさに奇跡的です。これまで無数の人たちの慈愛とか、支援による結果です。感謝しています。
 仏教徒の末席にいる私です。毎日、朝夕に仏前で合掌し読経し、親、祖先はじめ無数の人たちに感謝しています。早朝に約1時間、妻と愛犬2頭と近くの仏閣の山門から合掌しながら、世の人たちの幸せを念じています。私流の感謝の祈願をしめすミニお遍路です。
 私は子供時代、喜寿まで生き続けられるとは想定できない健康状態でした。ありがたいことに今も元気で生活できています。
 この「いのち」を善用しなくては申し訳ありません。善用の心が強まっています。私なりに可能なことで、社会貢献したく思っています。自己実現は同時に社会貢献につながります。  自己実現と社会貢献の夢路を楽しく地道にあゆみ続けたく念じています。この夢路は過去の生活においてあゆみ続けた延長線上にあります。夢路の具体的内容はいくつもあり楽しいものばかりです。
 1.社会奉仕に関するもの…
 ①全国展開の無料による  教育と幸福についての  電話相談
 ②刑務所での篤志面接員
 ③各種のボランティア活動
 2.執筆・出版・講演に関するもの…
 ①教育や幸福についての執筆と出版
 ②教育全般・幸福実現に関する講演活動
 3.自己の修練と修養に関するもの… 
 ①仏法をより深く学ぶ
 ②自己の幸福度を向上させる
 ③仏法により幸せになった体験を少しでも世の  ために伝えられたら幸  せ
 この世に肉体が元気であるうち特に次の夢路を力強くあゆみたいと念じています。
 約半世紀にわたり続けている無料電話相談、受刑者の皆さまの更生と社会復帰のお手伝い、過去に23点の全国出版を続けており、新しい出版をする。仏法の素晴らしさを体得し、少しでも広く世に伝えて、一人でも多くの人がより幸せになってもらいたいと念じています。
 老化するのは当然のなりゆきです。動植物は老化します。人間の肉体もいつか消滅します。 
 私は老いて今あることを余生とは考えていません。「与生」です。余りものではないのです。与えられた、ありがたい、感謝すべき、この世での人生です。どの年齢でもバリバリの現役人生です。老いるにつれて体力は弱くなります。それでも喜寿の年齢なりの力強い現役です。
 社会や多くの人たちに「報恩感謝」の心を大切にして「和顔愛語」の姿勢で生きたいと思っています。さらに、利己の我欲を弱めて利他の気持ちを強めたいと考えています。
 今朝も、老いの楽しい夢路をあじわいたくて、さわやかに目覚めました。
   (宇佐美 覚了 作家・社会教育家)

 先日、友人からメールがありました。「松姫ってどんな人なんや」。私はすぐに思い出した分だけメールで送りました。松姫は戦国乱世の女性の一人。政略結婚の犠牲者で果たせなかった恋の人です。少しして私は机の前に座ると松姫の生きざまをもう少し垣間見たくなりました。
 松姫は永禄4年(1561)に武田信玄の第六女。母は油川氏として生まれました。まさに、武田家の最盛期に誕生しています。甲州の虎と呼ばれた信玄は、何をするか目の離せない信長を…。信長はなにがなんでも味方にしておきたい信玄…。両家の絆を結ぼうと 高価な結納品が取り交わされました。織田信長の嫡子奇妙丸(後の信忠)11歳、松姫7歳の時のことです。
 幼い松姫は届けられる贈り物や手紙にまだ見ぬ「夫」に胸をときめかせて美しい夢を育みながら成長しました。信玄はその婿が来た時にと新しい館も整えていたと云われています。奇妙丸は父信長に命ぜられることなく、まだ会えぬ「妻」に便りを送っていました。  二人の恋が本物になった頃に、その夢ははかなく破れた。二人の父の仲は決裂していたのです。父信玄は元亀3年(1572)に西を攻めようと徳川家康と対戦(三方ヶ原戦)し破ったが、密かに信長は徳川方に援軍を送っていたのです。 信玄は娘の心を不憫に思いはかり、二人の文通は続いていました。その父が翌年4月12日に野田城攻囲中に病死してしまい、二人のかすかな糸はぷっつりと絶えました。
 18歳になった松姫はまだ「夫」に会えずにいました。同母兄の仁科盛信は彼女を庇護しており、他家に嫁ぐ事を勧めるが頑として松姫は応じません。この頃になると武田家は目に見えて衰退していきます。
 天正10年(1582)3月11日に武田家を継いだ異母兄勝頼は田野の戦いで敗れ、盛信は信濃の高遠城で討ち死にし、武田家は滅びました。
 松姫は妹や姪を連れて武蔵国八王子心源院に逃げました。時に松姫22歳の事で、彼女はまだまだ信忠に会う夢は捨てていません。同年6月2日に本能寺の変があり信忠は父信長と共に命を落としたのです。
 のちに徳川家康の家臣となった武田家の旧臣の大久保長安の援助を受けて八王子信松院を建立して、武田家一門及び本能寺の変で亡くなった婚約者忠信の菩提を弔っています。
 畑を耕し、糸を紡いで懸命に働きました。八王子の里人には蚕を飼い糸を紡ぐことを教え、八王子銘仙の基礎を作った人です。妹や姪たちを養育し、行く末を見届けて56歳元和2年(1616)に目を閉じました。信松尼と号します。会うことのなかった恋しい「夫」に操を立てたのでしょうね。松姫は武田家の滅亡を見て、更に新しく訪れた元和偃武(刀を終って平和に暮らす)をみたのです。男たちの戦いの時代が済んで、刀を収めた元和の年号をむかえたのです。
 ちなみに、「夫」となった忠信の家からは三法師(のちの秀信)が跡を継いで小大名となり、信長の七男信高の子孫からはフィギュアスケートで活躍した織田信成選手が現れています。また、「妻」となった松姫の実姉菊姫は上杉景勝の室(大儀院・甲斐御前)になって歴史を彩ってくれています。
 生と死を考える時、戦国乱世の時代に女性が生き延びるためには自分の生命を預けられる相手さえ選べない。生と死の紙一重のところに多くの女性は生きたのです。
 今、私たち女性は輝きを持って生きています。この平和な世の中に生まれ育って良かったとつくづく有り難く思います。
(椋本 千江 全国歴史研究会、三重歴史研究会及びときめき高虎会会員)

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