随想倶楽部
市役所が用意する住民参加の一つとして、市民会議、市民懇談会のたぐいがある。福祉のまちづくりとか、ゴミゼロといった特定のテーマで設けられることもあるし、メンバーが自由にテーマを決めてよい場合もある。
私は長年勤務した国土交通省を辞め…自由な立場になったのを期に、今までとは違う視点から「住民参加」を実践してみようと考えた。ふるさと津市では難しかったので、現在、住んでいる川崎市の「麻生区区民会議」に公募委員として参加することにした。2年前のことである。
任期が始まり、二つの部会に分かれて活動することになったが、私は自分がやりたかったテーマに近い「安全・安心のまちづくり部会」に所属し、思うところあって部会長を買って出た。
この部会では、「大地震から助かる命を守る」というテーマで検討することになった。阪神・淡路大震災では、地震発生直後に亡くなった犠牲者約5500人の95パーセント以上が建物の影響で亡くなっている。 主な原因は、火災と家屋の倒壊と家具の転倒である。その中で、区民会議の性格を考え、区民(市民)の立場でできることとして、あえて「家具の転倒防止」に焦点を当てることになった。
役所と同じような議論をしていても意味がないので、区民会議らしい活動として、地域に出てモデル事業をやろうと提案し、個人宅にモデルになってもらい、実際に家具固定工事を行い、その成果を普及しようということになった。
市民自ら市民に呼び掛けるのだから、顔の見える関係で簡単に協力世帯が集まるかと思ったが、実際にはかなり苦労した。家具の転倒は心配だという声はよく聞くのだが、ではやってくれるのかというとそうでもなくて、他人が家の中に入ること、家の中を見られることへの抵抗が大きいようで、「家の中が散らかっているから」という断り文句を何度も聞かされた。それでも、なんとかマンション6戸、戸建て13戸の協力世帯を確保することができた。
このモデル工事を行うためにはプロの協力が不可欠だった。幸い、地元の明治大学建築学科の先生を知っていたので、いい建設会社を紹介してもらうことができた。また、個人で家具転倒防止の普及に取り組んでいる奇特な方と以前に会ったことがあったので、思い切って連絡を取ってみたら快く協力してくれることになった。
こんな経緯で、19軒のお宅に専門技術者とともに伺い、家の中のすべての家具や電化製品を固定して差し上げた。ご家族は納得・安心できる家具固定を、しかも無料でやってもらえたということで、心から喜んでくれた。私たちも、家具転倒防止対策の専門知識や技術がたくさん得られたし、今後普及していくためのノウハウもいろいろと得ることができた。モデル事業として実際に現場に入って手を動かしたからこそ分かったことがたくさんあったのである。現在、その成果を「普及啓発パンフレット」として取りまとめている。
たまたま私の専門は建築なので、これらの取り組みをリードできた面もあるが、あくまで「市民による取り組み」を基本線とし、メンバー同士のチームワークを尊重することを貫き、今までの、そして他区の区民会議よりもはるかに素晴らしい成果を挙げることができたと思っている。
事務局を務めてくれた麻生区役所も、最初は前例のない活動にブレーキを踏むこともあったが、成果が出てくるに従って協力的になり、よくサポートしてくれた。専門技術者の献身的な協力も区民会議メンバーの熱心な取り組みも有り難かった。まさに様々な関係者が一丸となって連携協力することで素晴らしい成果を上げることができるという典型例になったと思う。 一方で、委員の中には、欠席が目立ったり、ろくに発言しなかったり、自分の主張に固執し和を乱す委員もいたが、あえて批判せず、粘り強く話し合いに努めた。このあたりの効率の悪さや体制の不確定さが住民参加の難しい一面だろう。それを承知で取り組むことで、「住民参加」も一歩一歩進化し、広がっていくのではないだろうか。
今回は川崎市での経験をご披露したが、どの街にも住民が主体的に取り組むまちづくりの可能性は大いにあるので、今度は津市あたりでお役に立ちたいものだと思っている。
村主 英明(津市出身。川崎市在住。㈱日本建築住宅センター研究開発部長)
2014年5月15日 AM 4:55
レストランという舞台で、もちろん主役はスポットライトを浴びたお客様。演じるのは華麗なるサーヴィススタッフと、シェフの織りなす料理の数々。プロヴァンス地方で最も華のある街、カンヌ。映画祭の舞台にもなる「オテル・マルティネス」のレストラン「LA PALME D’OR」で自らが修業した際、その自然と素材のマリアージュに感銘を受け、今も思いを寄せる場所である。
私が渡仏したのは、1990年秋、長男が生れて、1才に満たない時でした。なぜ、そのような状況の中で渡仏を決心したか、そこから話を始めましょう。
そもそも私が、フランス料理に魅了されたのは、この世界に入って3年が過ぎた頃でした。ホテルのメインダイニングで仕事が出来るチャンスを頂いたのですが、そこには、フレッシュのフォアグラや、オマール海老、トリュフやキャビア…憬れの食材ばかりで、見るのも、手にするものすべてが新鮮でした。
そんな環境の中、子供の頃から負けず嫌いだった私は、同世代の料理人には、負けるもんかと、寝る時間も惜しんで仕事に没頭しました。しばらくすると、フランスへ食べ歩きに行った先輩たちが、「あの三ツ星レストランの鴨料理が最高だった!」とか、「やっぱりフランスのキノコは違うよな」という話で盛り上がっているのを聞き、もう居ても立ってもいられなくなり、普段の生活を切り詰めて、ついには1年後、後輩を誘って食べ歩きに行ったのです。
夢にまで見たフランス、パリの風景、そしておいしい料理の数々…昼に夜にと惜しみなく食べ歩き、フランスの空気に酔いしれ、フランスを満喫できた旅となりました。しかし、まだその時点ではフランスで働きたいとかは全く思いませんでした。
大変充実した旅でしたが、日本に帰って日々仕事をしているうちに、今度はフランスに料理の修業に行く先輩が現れました。
1年後、その先輩が帰国すると「フランスは、パリもいいけど、地方がいいぞ。有名な三ツ星レストランを食べ歩くよりも、実際にフランスの厨房で働いて、フランス人と同じ賄いを食べてこそ、フランスの生活や文化に触れられる」とか言う訳です。
負けず嫌い、しかも好奇心旺盛な私にとってはもう、この先、料理人を続けていく上で、「フランスでの修業」は「必要不可欠なもの」となってしまったわけです。
その頃の私は、結婚をしていた上に、幼い子供も産まれたばかり。それでも、と一大決心をして、フランスへ修業に行ったのです。 そこから2年間、フランスでの生活は、料理人としてだけではなく、一人の人間として、様々な経験が出来ました。
ある程度、日本で経験を積んで行ったのが後になって良かったと感じました。あまり早く行き過ぎると、いいも悪いもすべてがフランス流になってしまいがちです。フランス人相手にフランスで勝負するならそれも良いことだと思います。しかし帰国して日本でやるのなら、それはまた、別だと今でも思っています。なぜなら、風土も違えば、食べる人も日本人だからです。それでもフランスに行かなくては感じられなかったことも多くありました。
たとえば、フランスでは、お昼になると、銀行や郵便局、美容室なども一時的に閉まってしまいます。お昼の時間をみんなと共有するわけです。それも驚きましたが、カンヌの「ラ・パルム・ドール」で働いた時、フランス人の気質を象徴するような出来事がありました。
ホテルの前のメインストリート(クロワゼット通り)の前に海岸があり、日本の夏と同じように、花火大会があるのです。
その日、もちろんレストランは満席、言うまでもなく、厨房は戦場となります。花火大会のラスト30分、今からクライマックス!という時、シェフが「arretez service!」(サーヴィスストップ!)と言い、何番テーブル次は魚料理、何番テーブルは肉料理、という確認をとると、料理人全員がクロワゼット通りに出て行きました。クライマックスの花火観賞のためにです。日本では到底あり得ないことです。これぞフランスならではの風習であり、「みんなで楽しもう」という文化なのだと肌で感じました。
結局はフランス料理はフランスで生れたもの、料理を語る前に、文化を知らなければならないということを感じました。しかし、文化は違えども、『esprit』精神は受け継げるものだと考えます。そしてこれからもフランスで修業したことを最大限に生かして、すべてのお客様から『パルムドール賞』を頂けることが〝最高の栄誉〟だと信じて、頑張っていきたいと思います。
後 藤 雅 司(ラ・パルム・ドールオーナーシェフ)
2014年5月1日 AM 4:55
高齢化社会になりました。私も今年3月の誕生日をむかえて77歳で喜寿です。私が子供時代は、人生50年とよく耳にしたことを覚えています。
未熟児で生まれ、幾つもの大病をくりかえし、死線をさまよった私でした。義務教育時代に病弱のために留年もしました。この私が今は元気で老いの生活を楽しんでいるのは、私にとってはまさに奇跡的です。これまで無数の人たちの慈愛とか、支援による結果です。感謝しています。
仏教徒の末席にいる私です。毎日、朝夕に仏前で合掌し読経し、親、祖先はじめ無数の人たちに感謝しています。早朝に約1時間、妻と愛犬2頭と近くの仏閣の山門から合掌しながら、世の人たちの幸せを念じています。私流の感謝の祈願をしめすミニお遍路です。
私は子供時代、喜寿まで生き続けられるとは想定できない健康状態でした。ありがたいことに今も元気で生活できています。
この「いのち」を善用しなくては申し訳ありません。善用の心が強まっています。私なりに可能なことで、社会貢献したく思っています。自己実現は同時に社会貢献につながります。 自己実現と社会貢献の夢路を楽しく地道にあゆみ続けたく念じています。この夢路は過去の生活においてあゆみ続けた延長線上にあります。夢路の具体的内容はいくつもあり楽しいものばかりです。
1.社会奉仕に関するもの…
①全国展開の無料による 教育と幸福についての 電話相談
②刑務所での篤志面接員
③各種のボランティア活動
2.執筆・出版・講演に関するもの…
①教育や幸福についての執筆と出版
②教育全般・幸福実現に関する講演活動
3.自己の修練と修養に関するもの…
①仏法をより深く学ぶ
②自己の幸福度を向上させる
③仏法により幸せになった体験を少しでも世の ために伝えられたら幸 せ
この世に肉体が元気であるうち特に次の夢路を力強くあゆみたいと念じています。
約半世紀にわたり続けている無料電話相談、受刑者の皆さまの更生と社会復帰のお手伝い、過去に23点の全国出版を続けており、新しい出版をする。仏法の素晴らしさを体得し、少しでも広く世に伝えて、一人でも多くの人がより幸せになってもらいたいと念じています。
老化するのは当然のなりゆきです。動植物は老化します。人間の肉体もいつか消滅します。
私は老いて今あることを余生とは考えていません。「与生」です。余りものではないのです。与えられた、ありがたい、感謝すべき、この世での人生です。どの年齢でもバリバリの現役人生です。老いるにつれて体力は弱くなります。それでも喜寿の年齢なりの力強い現役です。
社会や多くの人たちに「報恩感謝」の心を大切にして「和顔愛語」の姿勢で生きたいと思っています。さらに、利己の我欲を弱めて利他の気持ちを強めたいと考えています。
今朝も、老いの楽しい夢路をあじわいたくて、さわやかに目覚めました。
(宇佐美 覚了 作家・社会教育家)
2014年2月27日 AM 4:55