随想倶楽部

ゆとり教育についてです。今さら何だと思われる方もいらっしゃるかも知れません。けれど、年齢的には、現在、だいたい十四歳から三十歳になる人たちが、その政策に基づいて学校で学びました。社会人としては既に十年ほどの経験者になっています。一方では、この春に中学三年になる生徒たちは、まだ、ゆとり教育の世代ということになります。ということは、ゆとり教育による影響は、まだまだこれからも続くということです。
ゆとり教育で学校で学んだ子どもたちや保護者を苦しめているのは、「学力低下」というレッテルを貼られて、その「埋め合わせ」を高校受験や大学受験、就職試験のために、あたかもそれが「親切」でもあるかのように、押し付けられるということです。
この数年の中学生や高校生の購入させられるワークブックや参考書などの教材の量は、見ただけでことばを失うほどの量です。身近にそういう生徒がいない方は想像してみてください。一つの教科だけで、小学生のランドセルがいっぱいになるぐらいあるのです。それを購入させられる保護者の経済的な負担、それをこなそうとする教師のストレス、何より、それを課題として毎日させられる子どもたちの人間性を破壊してしまう危険の高い苦役。
そこへ、「学力の補てん」としての学習塾が、金銭と時間と労力を必要とします。過去の話をしているのではありません。今の中学生や高校生とその保護者が、そのような「現実」を受けているのです。大学生やその保護者ですら、大学の学費以外に、大学が契約する就職に関する勉強会に参加させられ、金銭と時間を費やしています。
私が大学教員だった時、外部の講師が来て、教育心理や教育制度などを学生に教える半ば強制的な学習会があり、学生にまぎれて受けてみたことがあります。
教員採用試験の準備のための学習会では、要領よく簡潔に要点をまとめて、過不足なく講師が学生たちに教えていたので、これは役に立つ、と素直に思いました。ただし、同じような名前の授業が大学のカリキュラムにもあって、その専門の先生もちゃんといますし、その単位を取らなければ卒業できません。
大学が就職予備校になるのなら、その学習会の講師のような人を教員にして授業をすれば、学生は経済的にも時間的にももっと有意義な使い方ができるはずです。教育学士という専門家を養成するのが大学の目的であるならば、その学びの成果の一つが採用試験の対策になるのは、当然のことと思われます。
私立の大学では、かなり以前からそのような外部委託と大学教員による補習を充実させて、教員採用試験の合格者を多く出しているところがあります。その合格者の数に圧倒されて公立大学系でもそのような「対策」をするのも定着してきてしまいました。
もうお気づきの方もいらっしゃるかも知れません。ゆとり教育は、そのものが「失敗」なのではなく、そこに新しい教育成果を見る目が定着する前に、旧来の知識と技能を中心とした「学力」を持ち込んで「判定基準」にし、保護者や子どもたちを不安に追い込んだ人たちによって、見事に「食い物」にされたのです。責任は政策にもありました。ゆとり教育で社会人を育てるまでの一貫性を、制度上で保証しませんでした。
戦後の教育でもっとも悲惨な事態がこうして作られました。大変まずいことは、ゆとり教育の子どもたちや、それにかかわった教師や教育委員会の役人、教育学者などが、ゆとり教育を否定する側の「学力」での「勝ち組」となって、今の学校教育を進めているという事実です。旧来型の「学力」の低下を自己責任と思い込まされて、それを懸命に補った人たちが、新人や中堅やベテランの教師となって子どもたちの前に立っています。
だから学校や塾でやっていることが、自分たちがしてきたことと同じ、一つの教科だけでランドセルがいっぱいなるぐらいの、問題集や参考書の押し付けなのです。
そこへ、今度は制度からの抜本的な教育改革が始まりました。学校現場や教育委員会、学習塾や学習教材会社などから、改革を「骨抜き」にしようという抵抗が起こるのも無理はありません。そんな改革をされたら、自分たちの明日がなくなるからです。しかし、その方法で教育を「食い物」にしてきた人たちの明日よりも大切なものは他にあります。
このように書けば、聡明な方はお気づきいただけたと思います。この春に中学校を卒業する子どもたちは、ゆとり教育のおかげで、始まった教育改革で活躍できる力を持っているのです。多量のワークブックで苦しめられた中学時代が間違いで、のびのびとしていた小学校時代が正しかった、と意識転換をし、自分のやりたいことをとことん追究する。大学進学や就職を考えるなら、科学、芸術、スポーツなどで、客観的評価を受けるまで成果を出す。また、たくさん本を読んで自分の感性と思考力を磨き教養を身に着ける。
そのための、ゆとり、を持てる進路を選択する。そうやって、日本の未来のために自分の教育を創造できる時代になったのです。

(伊東教育研究所)

走り方がわからなくなり、文武両道であった希望の神戸高校へ進学しながら高一で陸上競技を断念し目標を見失っていた私に、高二の春「陸上部主将のKさんから聞いた…」と声を掛ける人がいた。
後の菅瀬先輩だった。「俺について来いではなく、一緒に神戸に重量挙げ部をつくってくれないか?」という話だった。
この人との出会いが人生を大きく変えた。私は正直重量挙げは、まだピンと来ていなかったが、新しい部をゼロから創る所に惹かれた。器具は菅瀬先輩が、私は部員を10名程集めた。
志半ばで先輩は卒業し、大学へ進学したが、我々は熱き情熱を引き継ぎ一年足らずで先輩の夢でもあった県で総合優勝を果たし、部昇格や、その年5階級制覇するなど、最強軍団をつくった。
その後、私は体育教師、選手として大成することを夢見て体育大学へ進学するも、伸び悩んでいた。
中学・高校と活躍するが、大学へ入ると消えていく選手は陸上などにもいるが、私もそのような一人になりかけていた。
強い大学の部活では毎年、急性アルコール中毒や暴力による内蔵破裂などで、未来ある若者が潰されていた時代。私自身も一滴も飲めなかった酒をいきなり一升酒一気に飲まされたり、ビンタは無論のこと連帯責任で土間で万歳したまま正座を4時間近くつき合ったこともあった。
食事も米とインスタントラーメンしかなく、入学して半年で私の体重は15㎏落ちていた。ある日、大学の講義が午後からだったので午前中寝込んでしまった私は、三日後に心配した後輩がドアを叩くまで眠りこけていたこともあった。午前中から剣道や水泳、午後は陸上など、放課後は延々とトレーニングが続き、限界に達すると「後10回行け!」の声を信じて練習では音をあげなかった自分の心身は疲れ切っていた。
ただ、「先輩は神様、一回生は地獄」の時代。最近、駅伝で有名な青山学院のように、監督以下、和気あいあいとは違い、毎日、刃を突き付けられたような時代であり、期待していた科学的トレーニングも今のようにスマホで簡単に動画を撮り、フォーム解析やコアトレーニング等ができる時代ではなかった。
しかし、一歩部活を離れると優しい先輩達であったこと、大学の後輩であるメジャーリーガーの上原投手を観ていると、長く一線で継続出来る力は、時にはスクワット100セット(170㎏1000回)等、あの時代についたかなと感じている。
同じ誕生日でも元東京オリンピック金メダリストの三宅選手のように若くして世界の頂点まで駆け上り引退した選手もいれば、私のように還暦を過ぎても天下布武は成らずとも真田丸のようにまだ先頭で走り続けている選手もいる。色々である。
中一で、走りにブレと迷いが生じていたように、その頃の私は、技術的な収穫や名コーチと出会えず迷いながら走っていた。それでも主将として、どうにか大阪選手権で三連覇したり、卒業後も三重県選手権や国体予選等で優勝していた。
大学を卒業して7~8年が過ぎていた最後の年、当時の協会のトップに直訴し、「私はどうして国体に行けないのですか?」と聞くと「お前は実力者だからいつでも行ける。若い者に道を譲れ」という回答だった。
その一言で、ここに生涯を賭ける居場所はないと感じ、重量挙げを離れて弟子の藤井氏(後に全日本実業団優勝)達と共にパワーリフティングへ全力を傾け、以降20年以上、無敵のコンビでアベック優勝を重ねることになった。
その後、10年以上のブランクがありながら、先日のN─1大会で県記録を上回る記録で優勝することが出来た。
野球の工藤投手がリリースポイント一つでボールの高低を調整していたように、また陸上選手が体幹を立てた場合と前傾、かかと重心とつま先重心では全く違う走りになるように、ハイクリーンやベンチも、シャフト一本分だけのコースの違いや握りで成否が変わることも分かるようになってきた。余談ですが寝たきりの繰り返しの母親の回復にも今は筋トレの知識が役立っています。
体育教師を辞め、シングルパパになった時は、娘達の為に強いパパでいようと心に誓い、今は日本一強い「ジイジ」でいられたらと思っている。35年間、私の戦いにつき合い、今も支えてくれている会員さん達にも感謝。
パワーだけでなく、バトミントンや陸上など何百名もチャンピオンを育て、一般の方のシェイプアップ等のお手伝いもして来た私が、本当に一番指導を受けたかったのは、若かりし頃の自分自身だったのかも知れない。
(津トレーニングセンター代表)

「一度はあきらめていた東京行き。先の大戦により南方で惨禍した父親をはじめ、英霊の御霊に哀悼の誠をささげたい」。
そんな相談を昨年秋、ある家族からいただいた。志を同じくする人達が全国から集うため、今回も参加の意欲があったが、歩行状況から新幹線を乗り継いで行くには危険。
ましてや女性の一人旅。本人も、あまりに勇気がいるため躊躇していたらしい。しかし言葉の端々からこの方の前向きな気持ちが、こちらにも伝わった。
外出は、高齢者や身体の不自由な方、介護を頑張っている家族、交通弱者にとってその時々の、外の景色や風、音、会話と味覚、どれも最高の生きがいになる。
私は、あらかじめ「顔の見える関係」を大切にしたいと思い、自宅に伺い現地での計画や、身体の状況などを詳しく聞いた。
課題のバリアフリーは、鉄道車輌や駅なども整備が進んではいるが、朝夕の雑踏を切り抜けて時間通りに到着するには、車椅子での移動が必要と判断した。
普段お客様自身は使用しないらしいが、長時間の移動には欠かせない。家族の応援もあり、話は前向きに進んだ。
県内の移動は当社の福祉タクシーで乗降ができるし、東京では日本福祉タクシー協会メンバーによって駅から集合地点までの送迎が可能。コラボレーションができるのは地方にいても最大の強み。
各所への連絡や手配も済み、出発当日はそれまでの雨も止んで絶好のお出かけ日和。早朝にもかかわらず準備を整え、今や遅しと迎えを待っておられた。緊張を和らげ、リラックスしていただくのも私の大切な役目。
名古屋駅の新幹線乗り継ぎは予想通り、ラッシュ時の人混みが激しく、車椅子の通行を容赦なく妨げた。 介助していても、危険を避けるのに大きな注意を要する。改札から駅員によるプラットホームへの誘導でようやく乗車。車椅子対応車輌は、近鉄同様、介助員の労力を減らし、何より車椅子本人も安全に乗車できる。
車内はレール音と車窓の景色が相乗効果を生み、話も弾んでホッと一息。戦没者の慰霊がこの日の最大の目的なので、食事やトイレ介助を行い、指定時間のある服薬を促して、余分な体力の消耗を防ぐ。
おしゃべりに花が咲き、ほどなくして着いた東京。会場には待ちに待った、志を同じくする人達が全国から集まっていた。
知った顔が目に入るや否や、「よく、ここまで来られたね」、「また会えるなんて、すごいね」。
目頭を熱くして互いの再会を喜び会い、華やかな会話が飛びかった。それまでの緊張が、一瞬にして解きほぐされていく。
当日のスケジュールを一つずつクリアできるのは、本人にとっても最良の幸せだ。靖国神社では、紅葉に染まった境内を散策し、昇殿も車椅子で参拝させていただいた。
夕方のライトアップは、より厳かな気分にさせる。追悼の感慨は深く、出席した人達と一緒に記念写真に納まるなど、ようやく目的を果たすことができた。
人と人、人と物を結びつける「おでかけ」は、本人にエネルギーを与えて目的の完遂に結びつけることができるのではないかと、これまでの経験から思う。
それに連動する福祉タクシーも、交通弱者の視点で、送迎以外に外出支援や院内の付き添いなどもする。
あるいは民間救急として看護師が同乗し、目的地へ搬送する。バリアフリーは障害を持つ人やお年寄り、交通弱者のみが特別に利用するものでなく、健常者も共に利用してこそ価値がある。
「こんどは、ゆっくり美味しいものを食べに行きたいね」。互いに思いをめぐらせて、帰宅したのは夜10時を過ぎていた。
ロングスケジュールだったが、お客様の「ありがとう」の一言が、何よりのお土産になった。
(日本福祉タクシー協会、
民間救急、はあと福祉タクシー代表)

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