随想倶楽部

今も世界のどこかで戦いや暗殺が起こっています。主義主張を論じて命の果てるまで戦っています。戦いは古代から天皇、貴族、武士、天皇と繰り返し繰り返し時代を経て今に繋がっています。
日本の歴史には「乱」「変」「役」「陣」があります。「乱」は時代の権力者に対して反乱を起すが、権力者が勝利した戦い(例えば、島原の乱・壬申の乱等)。「変」は反乱を起した結果、成功して歴史的変動のある戦い(本能寺の変・桜田門外の変等)。「役」は他国の侵略や、対外戦争(元寇の役・文禄の役・慶長の役等)。「陣」は本人の考えとは関係なく権力者の命令によって人々が集められて起された戦い(大坂冬の陣・夏の陣等)があります
来年のNHKの大河ドラマは「西郷隆盛」に決定しましたね。明治維新を導いた「維新の三傑」(西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通)の一人、西郷の生き方と西南戦争の事が気になりました。
西郷隆盛は薩摩藩の下級武士の出身です。彼は郷中教育(学びのシステム=判断力・決断力・政治力を養う)を受けて育っています。そして彼を見出したのが第十一代薩摩藩主島津斉彬です。
斉彬は日本の近代化の為に改革を進めており、その人材を登用したのが西郷隆盛です。西郷のたび重なる意見書に注目し、彼を呼び出して言いました。
「薩摩藩は井の中の蛙ではダメだ!井から出て日本の蛙になれ、視野を広げよ」と。
西郷が必ず大物になるだろうと斉彬は見抜いていました。この斉彬のカウンターパンチがよく効いたのでしょう。西郷は期待に応じています。日本の政事状勢(薩長同盟・王政復古・江戸開城・廃藩断行)に尽力し、そして諸国の事情に心を配り、努力しています。
江戸開城は斉彬の計らいで元治元年(1864)九月に大坂城で非公式な「勝海舟・西郷隆盛の会談」で西郷は勝海舟の人となりを見て、お互いに幕府の事よりも日本国を守ろうとする客観的な視野を持つ者同士と思いました。その結果、江戸は無血開城となりました。
また明治天皇は股肱の臣として西郷を信頼されました。当時、外交面では欧米の不平等条約は改正されず、また朝鮮とは絶交状態になっていたので 西郷は明治六年(1873)に征韓論(朝鮮に全権使節を派遣して平和的、友好的に国交を維持しようとする意見書)を提出しますが却下された。
政事に敗れ(明治六年の政変)、下野して薩摩に戻ります。しかし、政府にすべての特権を奪われたと不満を持つ士族に推されて西南戦争を決起し、激しく戦いますがついに破れ、鹿児島の城山で妻の糸子が縫った絹の単衣に白い兵児帯を締めて「もう、ここらでよか」と言い残して自刃します。享年五一歳。
西郷の性格は口数少ないが思いやりがあり、懐の大きな人物でした。存在感はいるだけで相手を説得させるだけの力量の持ち主。
だからこの士族の反乱(西南戦争)では人の為に生き、彼を慕う多くの士族の気持ちを受けいれたのです。
彼は維新の英雄であり、又、逆賊の汚名をすべて背負って幕を引きました。
この明治維新と西南戦争で武士はいなくなりました。しかしながら、礼節、品格、価値観の精神は日本人の心の中に深く繋がれています。
ちなみに西郷と共に活躍した勝海舟は後に西郷の名誉回復と功績をたたえる運動をし、西郷の子供達の面倒を見ています。明治天皇は歌会で「西郷隆盛には罪はない。維新の大功者だ。」と明治二二年に賊名を除き、正三位を追贈しています。
戦争は悲しみの集合です。常に人を慈しむ心を持っていたいですね。
鹿児島をこよなく愛し、誠実で心大きな西郷さんの銅像が東京上野公園に建てられています。彼の目は未来のすばらしい日本の幸せを願ってくれているように感じました。

(全国歴史研究会、三重歴史研究会及びときめき高虎会会員)

ようやく転院が決まり、家族も同乗して早朝に出発した搬送車輌は、順調に走っていた。
この日の患者は高齢者。出庫から目的地、帰路を合わせると丸一日の予定。距離は往復で1000㌔になる。阪神方面へ人工呼吸器装着の患者さんの搬送を終えて間もなく、今回の搬送が決まった。そのため、運行者の体調を戻すのも容易ではない。距離も長く、交代で運転するため2種免許を持つ当社応援の看護師と家族、機器、荷物等で満車。事前の打ち合わせを行い、患者さんの負担が少ない今回の陸上搬送になった。
最近、高速道路の事故も頻繁に発生しているので、渋滞時の患者さんの体調も心配される。そのため、万一の時を考え休憩箇所もポイントを絞った。出発時、搬送元病院の看護師達と挨拶できたのが幸いしたのか、患者さんは車窓を眺める余裕もみられ、車内は比較的落ち着いている。
7月に参加したDMAT(巨大地震等を想定した災害派遣医療チーム)による広域医療搬送の実働訓練では、緊迫した中で医師、看護師、ドライバーが呼吸を合わせて機能を発揮し勉強できたことが今回の搬送にも役立っている。
幸い、出発時刻が早いこともあり、高速道路の車数は少ない。逆に、各車のスピードが速い。我々の後方へ接近してくる者さえいる。これにペースを合わせてしまうと、搬送運転にも力を入れ過ぎて、抜きつ抜かれつの危険な状態になるので、平素の運転以上に慎重さが要求される。
患者さんを「安全」に送り届けるのは、一口で言えば簡単だが、その時々に応じた判断が求められる。
距離が長ければ尚さらで、搬送元病院のカンファレンスが必須。添乗する看護師からも色々な質問があったので綿密に打ち合わせし、提供された医療情報などに基づいて車を進めた。
万一のことがあった時に備えてはいたものの、車内の我々に意外なことがあった。「車の窓は広いのう。外の景色も、横の車もどんどん追い越していく。気持ちがええのう」。概ね体を横にしているとは言え、このような言葉が出るとは、誰もが思っていなかった。ドライバー、看護師も一様に安堵の表情。このまま目的地へ、微笑ましい表情が続くことを願った。
概ね半分の時間が過ぎた頃、光景もようやく家屋の出で立ちが変わってきた。「もうちょっとやで。頑張れ」。家族が励ます。看護師もバイタルのチェックをするが、それも必要ないほど眼差しがはっきりしている様子が車内のミラーからも見て取れる。
ようやくインターチェンジを降りる頃には、車内では会話に花が咲いていた。「もう少しだ、よかった」。正直そう思った。車の揺れや気温も、病院内とは比較にならないが、患者さんも努力したに違いない。
今まで運転したことのない地を走り、搬送先病院へ着いたのは、西日が強くなってきた頃だった。まずは、患者さんを先行して下車させ、院内で看護師から状況を報告して終了した。
毎日行き先、搬送患者の状態は異なるし、長距離や緊迫する時など様々だが、常に安全はもとより「勉強させていただく」の気持ちを忘れずのぞみたい。
到着した時にいつももらう「ありがとう」の言葉が、明日への原動力につながっている。
(日本福祉タクシー協会 ・民間救急はあと福祉タクシー)

今年度の「親子洞津谷川塾」は、去る七月二十二日、津市内各地より保護者九名、子供十二名の参加により催行された。この塾は、津市が生んだ偉大な国学者、谷川士清翁について知り学ぶ事を目的に平成十一年より津市教育委員会主催、「谷川士清の会」のサポートにより継続されているものである。
「日本書紀通証」三十五巻を著した他、日本で初めての本格的な五十音順の国語辞典「倭訓栞」を著した谷川士清翁は、二十一歳年下の本居宣長翁とも交流があり、宣長翁をして、「国語学の猿田彦(導きの神)」とまで称さしめた偉人であったが、「倭訓の栞」の刊行を待たずに逝去したことや、著作「読大日本史私記」に対し江戸幕府の誤解等があった事で、本格的な評価がなされず、名誉回復が遅れ、残念ながら現在でも、津市に於いてさえも、谷川士清翁の名を知らない市民も多く、また知ってはいても「ことすが」と正しく発音してもらえないのが現実である。
その現実を打破すべく、私達「谷川士清の会」のメンバーは、「親子洞津谷川塾」に協働し、毎年二月には、自ら、「谷川ことすが書道コンクール」を主催し、他にも小学校へ出帳講座に出向いて、紙芝居やビデオで学んでもらったり、最近では、津まつりのみならず、
三重テラスまで出向いて顕彰活動に勤しんでいる所である。そうするうちに少しずつ、テレビや全国版の雑誌でも取り上げられるところとなり、外からの映像や文章で市民の方々に郷土の「宝」を認知して頂ける深みが増している事は望外の喜びであります。
視座を変えますと、谷川士清翁は教育者であり、京都へ遊学して二十六歳で津市八町三丁目へ戻った後は、家業の医業を行い、また、教授しつつ、神学、儒学、国学を藤堂藩の若き藩士や士清を師と仰ぐ多くの弟子に教え導きました。
「洞津谷川塾」の門弟の総数は、記録が無いため不詳ですが、著名人としては、頼又十郎惟清(頼山陽の祖父)、飯田元親(橘守部の父)、宇佐公吉(宇佐八幡宮の大宮司)、中川蔵人(津藩士一五〇〇石)、松本主禮(外宮一禰宜)、藤原安廣(厳島神社祠官)蓬莱尚賢等が門弟として記録されています。
医家であり、神道家、国学者、国語学者に加えて、教育者であった谷川士清先生。
「日本で初めての本格的な五十音順国語辞典を創った」と云う意味においては偉大な文理両道のジーニアス(天才)でありイノベーターであると私は考え尊敬致します。また、本居宣長翁をして敬愛を集めたご人格は谷川士清先生のふくよかなご風貌に表れている慈しみに満ちたご品性から醸し出されるものであると考えます。
偶々、谷川士清先生のお生まれになったのは宝永六年で、その二年前に富士山の噴火がありました。昨今の天災、人災を見るまでもなく、私は如何なる天災、人災も起こって欲しくはありません。が、しかし、谷川士清先生と云うマグマ、エネルギーの表出、〝休火山〟の噴火は望みたいのです。
表現が拙かったかも知れませんが、地域間競争の時代に於いて、医学、宗教、国語、教育と云う谷川士清先生が導いて下さったフィールドに於いて郷土津市の将来を考えます。
津に来たら、住んだら賢くなる、これは偏差値のアップも含めての話にしましょう。
津に来たら、住んだら、病気が治る、元気になる、長生き出来る。良い温泉もあるし、森林セラピーも良い。良い漢方のお医者様も居るそうだ。
私が大学を出た後に学んだ私塾の塾長からは「成功の要諦は成功するまで続けるところにある」と諭されました。
谷川士清先生の研究、顕彰活動に更に衆知を集め、多くの方々に絶えず感謝の気持ちを忘れないで勤しみ、郷土の生成発展を期します。
(谷川士清の会代表)

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