随想倶楽部
総務省によると、現在65歳以上の人口は過去最高で、男性の高齢者がはじめて1千万人を越え、平成27年には総人口の26%、4人に1人が60歳以上。団塊の世代も60歳を超えはじめ、高齢化社会が急激に加速している。
高齢者の中には介護を要しないか、自立した状態の人も多いが、歩行などに何らかのハンディを抱えている人もいる。このため、これからの人達は通院をはじめ所用などに、公共交通機関や自家用車、送迎の車が使えない場合、移動サービスを使用することも多い。 その中の福祉・介護タクシーは、単なる輸送としてだけでなく、介護や搬送技術という点でも密接につながっている。ベッドから車イス、ストレッチャーなどへ移乗の際には「楽に、安全に、最も適した方法」で行わねばならない。また、福祉タクシー利用者には、車イスの時もあるので、乗降に比較的時間を要する。 ある日、ホテルの前で車イスのお客様を乗降させるのに、他の方に迷惑があってはならないと、あらかじめフロント係に、「福祉タクシーですが、ここに一時車を停めてもいいですか。お客様の希望で、ホテル内で少し時間がかかるので」と断わりを申し出た。
にもかかわらず、ホテルの中で用事の最中、「すぐに、移動してもらわねば困る」と、係員からそっけない連絡。先ほど対応したフロント係も、福祉タクシーの意味もわからずに返答していたのかもしれない。恐らく、係間の連携も取れてないのだろう。
福祉タクシーは〝人生の先輩〟と直接話す機会も多い。ある日の病院への送迎途上、80歳を超える女性が「少しでも元気なうちに、今までできなかったことにも挑戦して、食事や買い物も楽しみたい。畑で、野菜をつくるのも健康的でいいですね」と、話す。
運転しながら、その女性に「お客様が希望されることは、一生懸命お手伝いします。だから、もし体に不調が起きても、心配せずにいつでも呼んでください」と、伝えた。
超高齢化社会に備えた社会づくり、高齢者福祉に新たな試みが模索される中、高齢者も土いじりや野菜の収穫、台所での食事づくりなど、積極的に参加することが喜びにつながる。
ところで、この仕事(福祉タクシー)をなぜ始めることになったのですか?と時々聞かれる。
私の場合は、会社員をしていた時期、ある怪我が元で体に不調が出て入院していたのだが、その時、医師や看護師達の昼夜を問わない勤務を見て、50歳を過ぎる自分でも何か人の役にたてることがあれば…と思ったのが最初。
だから、福祉、輸送というものに仕事が変わる時に不安もあった。基本を覚え、はじめて営業で訪問した介護施設の人に営業用のチラシを心よく受け取っていただき、さらに他の方を紹介してもらった時は、新入社員のような新たな気分だった。今でも毎日、自らが直面する現実から勉強させていただくことが多い。
福祉タクシーの利用客の中には入退院や転院、救急車で運ばれたのだが入院するほどでもなく、自宅に帰れないから来て欲しいという連絡もある。
福祉タクシーは救急車のように、赤色灯を点け、サイレンを鳴らして走行することは許されていない。今後、患者等搬送の資格を得た介護・福祉タクシーが代わりに走るケースも多くなろう。
実際、救急車の出動も津市内(29万人)では、一台につき市民2万2千人をカバーしているのが現状で、出動件数は10年で37%の増加とのこと。一日の出動は平均38件。しかし、昨年の救急出動のうち55%は軽症。つまり、救急車を呼ばなくてもよい状態の人だという。このため、消防では救急車の適正利用を呼びかけている。
介護・福祉タクシーは一般のタクシーのように、駅等で客待ちができない。駅構内や病院などの公共施設に、タクシーなどの待機場所はあっても、福祉タクシーが一時駐停車、待機する場所がないのが現状だ。
正面玄関の一般乗降スペースや障害者専用駐車場が満車の場合、構内の空きスペースを求めて移動しなければならない場合もある。私達の先輩は、様々な課題と闘いながら今日の福祉タクシー認可への道程をつくり上げてきたが、今後5年先、10年先を見据えた時、まちづくりの一環として、国や自治体、企業ももっと積極的に関わり、福祉タクシーが直面している課題に立ち向かうべきだ。
景気が上方修正されているこれからが、より新たな戦略の時期と言えよう。地方都市こそ、喫緊の課題として取り組んでいく必要がある。
三重県は、立地環境など好位置にあるが、まだ福祉という面については、行政のみならず企業も、あと一歩の努力が必要なように思う。地域と共に歩むというのならば、高齢者と障害者の視点に立ち、福祉サービスの充実、福祉交流をもっと尊重して、まちおこしの原点となるべき「住民と共に共生する」という点を重要な位置に据えること。そして、観光や福祉、医療などを一体化した、「住都市型」を早急に整備してほしいものである。
(大森 成人 日本福祉タクシー協会会員はあと福祉タクシー)
2013年8月1日 AM 4:55
入院することになりました。病院長は昔からの友人なので心強いです。病院内の合言葉は「ありがとう」と笑顔で満ちています。なんとなくパワーをもらった気持ちになりました。
宿命は生まれもっての天から授けられたもので、運はその人が作っていくものだと云われています。
運といえば、来年のNHK大河ドラマは「軍師黒田官兵衛」です。もう一人の軍師、竹中半兵衛と共に豊臣秀吉に仕えて〝両兵衛〟といわれた一人です。
竹中半兵衛は病弱で若くして才能を惜しまれながら軍配・軍扇を黒田官兵衛に形見として残してこの世を36歳で去っています。そのあと、日の出の勢いをもった秀吉の後押しをしたのが黒田官兵衛です。彼は戦国時代の多くの戦いの采配を振り、秀吉を勝利者へと導いていったのです。
そして初代津藩主、藤堂高虎は豊臣秀吉の弟秀長の家臣となり多くの戦いに参加しています。ただこの二人の違うところは、官兵衛は天下を見すえていたが、秀吉に才気をすべて吸いとられた軍師であるといえよう。知略が冴えすぎて、それ故にのちに秀吉に疎まれて九州の一国(筑前)に追いやられたのです。
運は秀吉に、家康に味方しました。官兵衛はのちに心おだやかに「人生は風の如し、水の如し」の言葉から如水と号して59歳でこの世を去りました。
これとは逆に、高虎は常に二番手に控える気持ちの持ち主で、徳川幕府の家康、秀忠、家光三代の将軍に信頼され「わからない事あれば高虎に聞け」とまで云わしめています。
官兵衛より10歳年下の高虎は彼を信奉する一人で戦い方や築城術を倣っています。宇和島の牛鬼祭は官兵衛考案の亀甲車が基になっていると云われています。 生まれ持った性格がその人を形成していくものなのでしょう。官兵衛の先祖は近江国を追われて彼の三代前の高政の時に備前国邑久郡福岡(現・岡山県瀬戸内海市長船町福岡)に住み、更に姫路に移り重隆(高政の子、官兵衛の祖父)の時に、目薬「玲珠膏」を売って財をなしました。
小豪族となり、更に姫路城の守将となります。官兵衛は姫路城に天文15年(1546)11月29日に生まれています。幼い時から姫路城下の賑わいや世の中の情勢を身をもって知り生きる術を学んでいます。
高虎は近江国犬上郡在士村(現・滋賀県甲良町)に弘治2年(1556)1月6日に生まれています。一郷士(自分の力で生きていく一さむらい)として良き主君をもとめて(この時代は武士が主君を捜し求めるのが当たり前)7回程替えています。常に二番手として主君には誠意を持って仕えています。
戦い(関ヶ原戦など)済んで、共に一国の城主になり、藩ではよい政治をしています。官兵衛は人の意見を広く聞こうと異見会を行ったり、領民との会話に出かけたりしています。物事への心構え等がいろんな伝記に書き残されています。又、高虎の考え方、生き方は家訓や「高虎公遺訓二百ヶ条」にもうかがい知る事ができます。
さて、私の乗った車椅子の後ろで声がしました。退院される患者さんが「いろいろとありがとうね」と笑顔で看護師さんに礼を言って挨拶をされていました。その看護師さんは、嬉しそうな顔で「お礼を言って下さった時、お世話させてもらって本当によかったわ」と私に言ってほほ笑みをわけて下さいました。
運は人それぞれに心の持ち方で開けて行くのでしょう。天の采配やその人の心のあり方でいかようにもなります。自分を信じて明るく生きよう!
「寛ちゃん(病院長)によろしくお伝え下さいね」と病院を後にしました。私は車の中で空を見上げて「ありがとう」とつぶやきました。
(椋本 千江 全国歴史研究会・三重歴史研究会及びときめき高虎会会員)
2013年7月25日 AM 4:55
西田半峰、本名「武雄」は、明治27年(1894)
一志郡七栗村字森(現・津市久居森町)に生れた。
6歳の時、横浜に住む母の従兄弟から養子に迎えられ、幸福な少年時代を過ごす。小学校を卒業後、横浜商業高校に入学、在学中から好きだった絵の勉強を始め、第8回文部省美術展覧会(文展)に水彩画「倉入れ」が入選する。
当時の文展はかなり高い権威があり、西田本人は当然、美術学校への進学を希望する。しかし卒業後、父の強い反対に遭い、しかたなく、本郷洋画研究所に入り、自活しながら絵の勉強に励んでいくことになる。
この頃、西田はエッチング(銅板画技法の一つで、ろう引きの銅板に針で描いた線画を酸で腐食させて原版とする凹版印刷。また、その技法で印刷した絵画。腐食銅版画)の魅力に取り付かれ、研究に没頭してゆく。当時、エッチングは知る人も少なく、道具類も外国から取り寄せなければならなかった時代で、彼は様々な苦労をしながらエッチングの作品を試みるのである。
かくして、大正12年(1
923)の関東大震災後、西田はエッチング普及のため「室内社画堂」を開店、画家の個展を積極的に開催し、現在の画商が持つ要素となる写生旅行や、展覧会準備のために必要な資金を貸す一種の質屋のような金融機関をつくるなどの活動を行ったのである。まさに、西田が洋画商の草分けといわれる所以である。
また、エッチングに芸術家としてのあり方を見い出した西田は、画商の仕事と平行してエッチングの普及に奔走、全国各地を巡回してエッチング講習会を開催し、さらに、「エッチングの描き方」を出版、昭和7年(1932)には、雑誌「エッチング」を創刊、最盛期には2500部、その後、11年間で125冊を発行している。
こうした西田のエッチング普及拡大の活動に刺激され、彼の門下から多くの若い銅版画作家が育っていった。
しかし、時代は戦争へと移り、大政翼賛会の指導で日本版画奉公会が結成され、雑誌「エッチング」も「日本版画」に改題される。そしてそれもやがて廃刊となり、室内版画堂も空襲を受け焼失してしまう(半峰という名は、日本版画奉公会の略称で「版奉」をもじったものである)。
戦災で何もかも失った西田は郷里の久居に疎開。昭和20年(1945)、終戦となり以後、友人知人らによる帰京への招きも断わり続け、半ば隠遁生活を送りながら、昭和27年(1952)1月1日から5万枚の葉書絵に挑戦する。昭和36年(1961)7月病に仆れ、亡くなる直前まで書かれた絵や狂歌の葉書絵は2万6744枚に達したという。
ここに、「思い出の西田半峰のハガキ絵より」その一部を紹介する。
▼「日本負けたを知らずに、死んだ墓に詣でる人もなし」
▼「敗れても骨だけ残る日本かな」(うちわの絵とともに)
▼「鬼にふた色ありときくが、近頃出るのは赤ばかり」(これがほんとのオニモツ)
▼「講和になったらどうしょう、せんそうほうきではきだして、神や仏のすすはらい、燈明あげてもう一度、高天ヶ原の鈴の音や、諸業無税の鐘の音や、永世かけた中立を、祈る理想の旅姿。講和になったらどうしょう、赤と青とでそめわけた、武装国家の板ばさみ、敵と味方のへだてなく、大和なでしこさくらばな、パンパンガールに不二の山、観光ホテルに真珠貝、文化国家の粗製品。講和になったらどうしょう、独立自損の勘定は、土地を失い人が増え、もらい米して金を借り、デモクラシーの早変わり、民権金権ところ天、骨のないのが自慢なり、ああ火のもとにご用心」
▼「行水のたらいが浮かぶ青田かな(老人が裸でたらいに入っている絵)」
▼「終点の間近に迫る汽車の窓どの風景も身にしみて見ゆ」
▼「戦争を忌避する学生ストライキ頭の瘤は禁死勲章」
▼「雨はふるふる半峰は曇る谷の出水で酒足らぬ」
▼旅は身軽に荷物は手軽る気軽る足軽るうれしがる」
西田半峰、昭和36年(1961)7月26日没、享年67。西田没後、百ヶ日に東京で開かれた追悼会で、武者小路実篤が「気持ちのいい人柄、何しろ珍しい男で、もっと長生きして益々奇人ぶりを発揮してほしかった」と述べている。
少し風変わりで、しかし魅力的な人物であったことが伺える。 (新津 太郎)
2013年7月25日 AM 4:55