随想倶楽部

 「伊勢新聞社」の創業者松本宗一は天保13年(1841)2月25日、一志郡矢野村(現・香良洲町)で父恒久の次男として生を受けた。名は久成、後に松蔭と号す。
 祖父・安親は三重郡松本村(現・四日市)の出身で水利の専門家として藤堂藩に仕え、荒れていた岩田、塔世の川を治め、さらに、塔世川(現・安濃川)の砂州を干拓して良田とし、廃田を復したなどの功により松本崎(現・島崎町)の庄屋を命じられた人物で、度胸があり、いかなる困難にも立ち向かう人であった。
 また、父・恒久も水利に詳しく、矢野村大庄屋を預かっている。
 宗一は幼年より頭脳明晰で勇気と知恵に優れ、父は常に「祖父・安親によく似ている」と語っていた。学業、武道共に抜きん出ていた宗一は、16歳の時に藩より兵80人を指揮する歩兵小隊長に任じられた。元治元年(1864)、京都で蛤御門の変が起こり、宗一は部下を率いて、この戦いに参加、ひき続き敦賀の天狗党、十津川に天誅組の戦いにも参戦して手柄を立てている。
 かくして、20歳で島貫町(現・雲出島貫町)の庄屋を拝命する。
 明治元年(1868)戊辰戦争後、世の中が変動し藤堂藩も藩内の産物を集め開港場に送って貿易を始める。ところが、間もなく失敗し多額の借金を背負ってしまう。しかも、責任者の二人が相次いで死亡、その後の処理が宗一に回って来る。仕方なくその損失を宗一は私財を投げ売って穴埋めしたのである。
 明治11年(1878)7月、府県会が布告され、三重県では翌12年4月に第1回の選挙が行われ、宗一も多くの人たちから推薦を受けて当選する。 
 宗一は自前の正論を堂々と述べ、支持者も多かったが、持論が県会の場に合わないことを察知して辞めることになる。ここでは自分の所信が実現できないことを悟ったのである。
 これに先立つこと2年、明治10年10月27日、自由民権思想と国会開設要求の世論を受けて、宗一は佐賀の人・安永弘行と「伊勢新聞社」を立ち上げる。伊勢の国という伝統的地名が由来であった。
 かくて、待望の第1号が明治11年1月17日、1部1銭で発行された。発行場所は、安濃郡乙部村(現・寿町)、当時論説文を書けるのは侍だけで不平士族が中心であった。当初の伊勢新聞は手書きで読者は18名、改進党系の論陣を張り、その後活字印刷となり98号から日刊となっている。
 社の精神は論説、活字1本に至るまで〝公〟のためのものであり、新聞の性格については、「ローカルに徹し、県民の声の代表」であることを明言している。 1号から3面に子ども欄を設け、2号は50日後の3月6日に発行されたが、この間に有力なパートナーであった安永が急死、この後宗一に次々と苦難がのしかかる。
 言論をもって時代の耳目になろうとした宗一であったが、あまりにも激しい情熱が時勢への厳しい批判となり、時には主張が中正を欠き、紙面の盛り上がりが時の法規に触れ、10年余りの間に発行停止12回、社員が獄につながれることは数え切れなかった。
 この間、社の財政は何度もピンチに陥り、苦難は宗一を責め続けた。しかし、意志の強い宗一はひるまなかった。ひたすら自分の信念を信じ、逆境をバネとしてそれに立ち向かい事業を拡張、遂に津市の中心地、津城のそばに新社屋を建てるに至ったのである。発行部数は3000を数え、今日の基礎を固めたのであった。
 幕末に藤堂藩のために身命を投げうって尽くしたその勇気と前向きな行動は、自ずと人を引きつけ、その謙虚で思いやりに富んだ士気は、人々の信頼と共感を得るに至ったのである。
 松本宗一、明治22年(1889)10月24日永眠、享年48。夫人や6男3女の子どもたちに見送られ、会葬者は1000人を越えたという。後に、多くの人の善意によって津偕楽公園の高台中央に碑が建てられた。
 翌、明治23年、奇くも宗一の遺志を受け継ぐように同じ新聞記者から身を起こし、後に寛政の父といわれる尾崎行雄(咢堂)が、日本最初の総選挙で三重県から改進党で立候補、初当選を果たしている。
 今も同じタイトルで続いている日刊新聞では日本最古となる「伊勢新聞社」は現在、社員100名、地方紙の中で規模が小さいが、全国紙に比べると一風変わった記事の書き方で、宗一の遺志を受け継ぎ生き生きと活躍している。 (新津 太郎)
(この物語は、史実をもとにした一部フィクションです)

 森村竹軒が山のような蔵書を持って突然郡山の家へ帰って来たのは大正12(1
923年)8月末のことであった。何事かと驚いた森村家の人々を更に驚かせたのは、帰省して1週間後の9月1日正午に起こった関東大震災である。
 竹軒は前年の大正11年の冬至にこれを予知していたのである。冬至の日に、国家の大事や吉凶を占うことを例としている竹軒の卦に、「天と地が一つとなり、自分はそれにはさまれ、身動きがとれなくなる」と、天地の変動、大勢の人の死、大きな災いなど、ただならぬ卦が出たので、早速、関係団体や知人友人に連絡、当時易学で最高の権威があった「陰陽新聞」に発表したのである。
 この関東大震災予知は、易者として森村竹軒の名を全国に知らしめることになる。
 森村竹軒、本名は小田二郎、明治2年(1869)年5月3日、一志町大字井生の小田覚之丞の二男として生まれた。名は順、字は敬直、一志の大井小学校、県立津中学校を卒業後、奈良県庁に就職する。
 郡山市の下宿が縁で人柄を見込まれ、同市の森村平七氏の養子となり雪と結婚、二男一女にも恵まれる。夫人の雪は雪蘭と号し、後に「和州遠山流盆石」の家元となった人である。
 竹軒が易と初めて係わったのは、休暇で故郷の一志に帰るため、国鉄津駅から歩いて岩田橋に差しかかった時であった。「兄さん兄さん、あんたに女難の相が出てるよ」と、一人の大道易者に呼び止められる。「えっ、私に…」、そんなことがある筈がないと腹を立て、一志への道を急ぐのであった。
 ところが、実家へ帰ってみると妹が結婚のことで悩んでおり、ぜひ、兄の竹軒に何とかしてくれという。休養のため帰った実家であったが、竹軒は東奔西走して何とか話を丸く収め、妹は無事嫁ぐことになる。そこで、易者の言った女難は自分自身のことでなく、妹のことであったのかと、彼はその後、易道に魅かれてゆく。
 明治30(1897)年、易道への思いが強くなり、森村家の許可を得て単身上京、慶応大学に入学し易学を専攻する。しかし、大学のそれは竹軒の求める易とは乖離したもので、間もなく大学を中退、頼れる師のないまま独学で学理と事象の関係などを判断、苦学し努力して、その道を極めてゆく。
 そもそも易とは、中国古代におこった占の一種で、亀甲獣骨を火で焼いてできた裂け目の形によって吉凶を判断する方法を卜といい、卜法の口述・記録を占とよんで、判断の根拠となる原則がつくられたが、これが次第に理論づけられて易がうまれその根本原理を八卦と称した。易の字義はトカゲの象形といわれ、トカゲの体色が周囲の状況に応じて変化する意味を転用し、宇宙の万障が変化する自然の理法にのっとって人事諸般の対応策を説こうとするものである(参・小学館・百科辞典)。
 そして、易学は一年の計を冬至にはかるので、竹軒は毎年冬至の早朝に国の吉凶、政治の変遷や経済の動向などを占い、その出た卦を親しかった後藤新平や斉藤実、千葉胤月など、時の大臣や多くの名士、文化人、経済人といわれる人たちに伝えてきた。
 そして、大正12年におこった関東大震災予知の的中は、さらに竹軒の易者としての地位を不動のものにしたのである。
 大震災のあった9月下旬、東京より陰陽新聞社社長の松浦東洋が大和郡山に竹軒を訪れ、上京をひたすら懇願する。また、在京の友人知人からも上京を促す手紙が多く寄せられ、ついに竹軒も重かった腰を上げ、東京駒込に居を移し篇額に「洗心学堂」と揮毫する。
 その後、斉藤内閣に関係し、「二・二六事件」発生の予告をしたり、時勢を憂い「易経専攻書院」を設立、国家社会に役立とうと日夜奮闘努力するが、志し半ばの昭和9年(1934)、病死、郡山市の三松寺に葬られる。享年66。
 三松寺境内に頌徳碑があり、建碑者の一人、宮中御歌所寄人・千葉胤月が歌を刻している。
〝身をわすれ すめらみ国の道をとく 人は君よりなかりしものよ〟 
 竹軒の清廉潔白な性格と高い品性の人となりは、精緻な占いと共に多くの人に惜しまれたのであった。
 もし、彼が今の世にあれば、3・11東日本大震災や尖閣列島・日中問題なども的確に予知し得たであろうか。(新津 太郎 参考・一志町史)

   わたしたちの会は、今年設立15周年という節目を迎えました。会の活動はボランティアだと思いますが、わたしは、このボランティアということばを今日までずうーっと自問自答してきました。
 ボランティアの定義は、「無償奉仕」ということでしょうが、そこには無償だから、多少ゆき届かなくても許されるという、あまえのようなフシがあります。わたしは、しばりのないボランティアだからこそ、心を引き締めてとりかかる必要があるのだと思います。 15年という節目の年に会名を改め、それに沿って、定款の活動目的も、より分かりやすく表現することにしました。
 会名ですが、里山のことを考え、見つめ続けてきましたが、かつて地域の人々がやってきたように里山という自然にとけこみ、ふれあっていこう、人間も自然も所詮おなじ地球の仲間じゃないか、この里山という自然を利用させてもらって共に子どもたちを育んで、地域の人々が支えあおうというのが根底にあります。 優美な大型の鳥ばかりが大切な鳥というわけではありませんが、わたしたちの拘わっている里山の周辺には、10数種の猛禽類が集まってきており、ピラミッドの頂点に君臨する彼らは、その場所が如何に生態ゆたかな森であるかという証左となっているのです。
 周辺には、いくつもの池が点在し、小川が流れ、里山の外周に畑や田んぼがあり、町を縦断する大きな川がたくさんの生き物の餌を提供しているからです。
 わたしたちは、まもなくオープンされる県立博物館の附属生態園=エコミュージアムとして、広く県民に愛される里山にできないかと模索しています。
 梅雨が訪れる6月のはじめ、ササユリがにおい、夏には、カブトムシやクワガタムシが現れ、秋には、アケビが熟する町のまん中に位置する里山、これこそ子どもたちが、体験学習をする場所としてふさわしい舞台であると思っています。 おこがましいことですが子どもたちを含め、青少年や大人も共々、人間形成への創造に取り組み、深めていきたいと願っています。
 里山の生態を守り、その奥深さにふれて、次代の夢を育てていくのがわたしたちの究極の願いです。
 《NPO法人 みえ里山自然ふれあいの会》 
 この新名称は、三重県の認証後に正式に表示されます。
(NPO法人 三重の里山を考える会事務局長)

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