随想倶楽部

ある会社の方とお話ししていて、たまたま「部下の態度を持て余しているが、どうしたらよいか」と尋ねられました。仕事のよくできる二〇代半ばの社員なのだそうですが、例えば、取引先と電話で話している最中に立ち上がって椅子を机の下に蹴り込んだのだそうです。それでその人は、近づいてわざと電話の相手に聞こえる声でそれをたしなめてしまったというのです。普段から、自由奔放な態度が目立ち、このままではいけない、と上司として苦慮していたのでそんなことをしてしまったと、本当に困っている様子です。
私なら、と前置きして、実際に具体的な方法をその人に演じてから、「たしなめるときに、相手のプライドまで傷つけたりしてしまえば逆効果でしょう。できれば自分で気づいてくれるように、そのヒントを示せばいいのではないでしょうか」と言いました。
営業マンとして第一線で活躍しているその人は、そろそろ会社の後輩を育てたいと考えているそうで、「自分は後輩の指導のために引き出しの多い人間になりたいのです」と言います。それを聞いて私は「引き出し、とはよく学校の教師どうしでも使う言葉ですが、私ももちろん若いころから、引き出しをたくさん持ちたいと努力しましたけれど、結局それでは、自分の指導力を磨いてひけらかす、ということだけなので、教育はそれでよいのか、と疑問に思いました。そして、私は引き出しをたくさん持つ努力をしながら、私からではなく、子どもが引き出しを開けに来てくれる存在になりたいと考え、実践できるように努力しました。あなたの場合なら、あなたの背中に引き出しをいっぱいつけて、後輩のみなさんがあなたの背中から学ぶようにすればいいのではないですか」と言いました。
人材教育は、いろんな会社での課題の一つのようです。特に、「ゆとり世代」と呼ばれる二〇代の若者たちについては、上の世代から「常識がない」「何を考えているかわからない」などと見えることもあるようです。機会があれば、双方にとってよい人材教育の方法をお伝えします。
この連載の②では、探究を自分の例を挙げて書きましたので、今回はアクティブ・ラーニングのもう一つの柱である協働を成立させるための見逃されやすい要件は何かを書いています。
大学にいたころ、学生から、ボランティアの放課後教室で、高学年が低学年のことを考えずに遊んでいたので、高学年を厳しく叱ってしまったが、それを苦にしている、どうすればよかったのか、と尋ねられたことがありました。私は「みんなの前で、もしも君が同じことをされたら、反感を持つだけだろう。そして、周囲の目があるときだけ、低学年のことを考えているふりをするだけだろう」と言いました。既にそうなっている、というのでその具体亭な解決策を、私ならこうすると伝えると、しばらくして、その学生が、私の解決策を試してみたら、その後は高学年と学生の関係がよくなり、低学年も含めてみんなで楽しめる遊びを高学年が工夫するようになった、と報告に来てくれました。柔軟な思考と判断、そして表現ができたからこその結果でしょう。
協働の実現は、立場の自覚と関与の仕方にかかっています。学校の場合は、これまでにも書きましたように、教師の資質がアクティブ・ラーニングには大きく係ります。「できた人は周りで困っている人を助けてやってね」と言う人がいます。その言葉で、本当に困っている人は、できない自分が悲しい上に、「助ける」人の優越感を満足させる立場のみじめさをさらに味わうことにしかなりません。ほかにもプリントの配り方、黒板の使い方、掃除用具の整頓の仕方などなど、教師として配慮や工夫できることがたくさんあり、努力が必要です。
出会う教師はさまざまです。学校現場もさまざまです。それなのに、子どもやその家族たちが、学校や先生とは、みんなどこでもこんなもんだ、と思い込んでしまうことが多くあります。そして、勉強がわからないのは、自分のせいだ、我が子のせいだ、我が家のせいだ、と、子どもや家族が教育の課題を一身に背負うのは、本末転倒です。
このたびの教育改革について、その概略と要点を書いてきました。具体的にどうなるのかは、それぞれの学校現場の担当者にかかっていることも書きました。しかしこの改革は、これまでとは違って、保護者も地域も、もちろん子どもたちも、遠慮せずに、「これで五年後はどうなるのか」と学校や塾の先生たちに問いかけて協働しなければ実現しません。
十年後には、人工知能を持ったロボットが家庭にいて、自動に走る車がある可能性はかなり高いです。そんな社会を、子どもたちは生きていくのです。
未来を生きていくための教育になっているのか、これからは受け身ではなく、主体的になって、近未来の創造を目指した能動的な教育の実現を、探究と協働を念頭に入れて、みんなで進めましょう。(伊東教育研究所)

二〇二〇年に再び日本でオリンピックが開催されます。前回は一九六四年でしたから、半世紀余りの間をおいての開催ということになります。
一九六四年を振り返ると、今ではおなじみになっているお菓子や雑誌が登場し、「明日があるさ」「幸せなら手をたたこう」「アンコ椿は恋の花」「柔」などの歌がヒットし、ビートルズやボブ・ディランが世界的に活躍しています。
そして、戦後の混乱の中から新しく生まれた日本の教育が、今のような学校制度や内容にようやく落ち着いたのもそのころでした。
前回の東京オリンピックのあと、間もなくして当時のソビエト連邦が人間の乗った宇宙船を飛ばして世界に衝撃を与え、アメリカなどと同じように、日本も教育改革を行いました。
その改革は、知識や技能の重視で、学ぶべきことがぎっしりと詰め込まれました。今の年齢で四十歳から六十歳を中心とした人たちが、いわゆる「詰め込み教育」時代に学校に通っていたことになります。
その後、文部科学省は、過度の知識偏重からの転換を少しずつ始めます。そして生まれたのが「ゆとり教育」時代となります。今の年齢で言えば、二十歳から三十歳の人たちが中心でしょうか。土曜日が休み、「総合的な学習の時間」、「生活科」などを実際に児童や生徒として経験してきた人たちの世代です。
この「ゆとり教育」は、賛否両論がずっとあった上に、実際には大学や高校への進学にはそれまでと変わらない知識偏重の学力が必要とされていたために、学校で「ゆとり」を持たされた分だけ学校外で受験勉強などをしなければならない、という皮肉な負担を子どもや保護者たちに強いるものとなりました。
さらに追い打ちをかけるように、ピサ(PISA)と呼ばれる国際的な学力調査で、日本が相当に順位を落としたことが決定的なものとなり、ふたたび知識や技能を学校で身に着けさせる方向で教育改革が行われました。
そのために、気の毒なことに「ゆとり教育」世代の人たちは、国の政策によってそのような学習内容で成長したにもかかわらず、「自己責任」という言葉を押し付けられて、子どもも保護者も相当に大変な想いや不当な評価に苦しむことになってしまいました。
二〇一一年から、小学校でも英語を授業で取り上げることが話題となった新しい教育改革が本格的に始まり、教育内容は増えるけれども全体の授業時間はそれほど増えないという、子どもたちにも教員にも負担の多い学校の状態になってしまいました。
こうなってくると、これまでは問題点をなんとか修正してきた教育制度も、いよいよ根本的に見直さなければ、きちんとその役割を果たせなくなり、そのことに対してのいろんな立場からの心配もはっきりと出されるようになりました。
戦後の歴史的な移り変わりをバランスよく盛り込みながら、教育制度を根本的に見直さなければならない、というのが、これから目に見えてくる文部科学省の強い考えによる教育改革です。
そこで改革される主なものは、大学入試制度、大学の授業、高校の授業、地域と学校の関係などです。
そのほとんどが、既に基本的な改革の目標と道筋が定められていて、早いものはもう今年にも多くの人が何かを感じ始める、というところまで来ています。
そして、この改革が、誰の目にもはっきりするのが、次の東京オリンピック、つまり二〇二〇年のころ、ということになります。
今回の改革が直接に大きく関係するのは、今年中学校に入学した生徒から下の学年、今の小学生の子どもたちということになります。
もちろん、大学の授業改革は既に本格的な取り組みが始まっていますから、今の大学生も、来年に大学に進学する人たちも、この改革と無縁ではありません。また、高校の授業改革もこれから具体的になりますから、今の高校生や中学生もすぐに何かを感じることになるでしょう。ところが、「詰め込み教育」の世代を祖父母に持ち、「ゆとり教育」世代が保護者になる今の小学生たちは、どうなのでしょうか。本人たちはまだ小学生ですし、ご家族の方々も、大学や高校の進学などはまだまだ先のことだからと、関心や興味を持っている方は多くはないのではないでしょうか。
ひょっとすると、これから教育制度が改革されることさえまだ知らない方も多くいるかも知れません。
それでも、これからの教育改革が、もっとも直接に身の上に降りかかるのは、今の小学生たちなのです。保育園や幼稚園の子どもたちが、高校や大学へ進学するころには、今までとはかなり違った入学テストが行われていると想像する方が、「自己責任」という言葉で子どもたちや保護者のみなさんが苦しまなくてもすむと私は思います。
子どもたちは未来を背負い創造する大切な存在です。次回から具体的なお話をします。
(伊東教育研究所)

(次号からの続き)
北緯31度47分、東経135度5分に位置する空母「ベニントン」から午後12時20分に7機のVBF─1、第1爆撃飛行隊所属の「コルセア FG─1D」がJ・W・ロウリー大尉に率いられて発進した。
「尾鷲湾の日本軍艦艇を攻撃せよ」という命令を受けていた。それぞれの「コルセア」は1発の500ポンド汎用爆弾AN─M67A1と4発のロケット弾を搭載。それと同時に「VF─1、第1戦闘機隊のグラマンF6F─5ヘルキャト戦闘機」4機も出撃した。 両飛行隊はロウリー大尉が率いた。この作戦は元々「戦闘機による掃討作戦」だったが、尾鷲湾に停泊する日本軍の艦艇の攻撃に変更されたものである。
この攻撃は最初に艦艇を発見した「ハンコック」の7機の「グラマン F6F─5 ヘルキャット戦闘機」と予め決められていた空域でランデブー(合流)し、攻撃をうまく調整するようにとの指示が出された。尾鷲湾では午後1時30分から2時30分、1時間に亘り、波状攻撃を日本軍艦艇に繰り返した。

尾鷲湾では「第45号海防艦」が古里海岸に午前8時15分頃に坐洲していた。また、「第14号駆潜艇」は尾鷲港内の北川河口近くに位置していた。小型輸送船が湾の北西部に停泊していた。
攻撃調整官は南部の「第45号海防艦」に対して6機の「コルセア」に攻撃せよと命じた。「コルセア」は1万フィート上空から60~70度の角度で急降下して、3500フィートで爆弾を投下。5発のうち、2発が艦艇の20フィート以内に投下された。
確かな損害を与えたようだ。2発はロウリー大尉とモックスリー中尉が投下したものである。1万フィートを飛行していた「ヘルキャト」のパイロット達は1発の爆弾は「直撃弾」だったと証言している

それから「コルセア」は北方の「第14号駆潜艇」に対して「ロケット弾で攻撃せよ」と指示された。3回に分けられて24発のロケット弾が撃ち込まれた。また1発の500キロ爆弾が投下され、爆弾1発が直撃した。全攻撃は8000フィート~1万フィート、攻撃角度40~60度、投下高度2000~3000フィートであった。
バリック少尉による2発のロケット弾がこの第14号駆潜艇の船体中央部に命中した。直ちに火災が発生、炎上し、自ら北川河口付近に午後3時頃に座礁した。 攻撃調査官は「VBF─1」第1爆撃戦闘機隊のパイロットに「第14号駆潜艇」を航行不能にしたことで、そのパイロットに手柄を与えた。

日本軍艦艇からの対空砲火は貧弱乃至まずまずだったが正確だった。攻撃中にO・F・フイシャー少尉の戦闘機のエンジンが被弾した。最後の急降下攻撃をかけた時のことだった。
すぐにオイルが漏れ出した。彼の小隊の隊長であるL・テリー中尉が悪天候の中、「ベニントン」まで引き返す飛行に随伴した。
「ベニントン」に帰艦するまでに、フイシャー少尉機の風防ガラスがオイルで覆われてしまった。彼は「あと5分くらいしか飛行できない」と無線で連絡してきた。母艦は「今直ちには彼を着艦できない」というシグナルを送ってきた。
彼は着艦指示官に手旗信号により「今すぐには着艦できない」というシグナルを送られたのだ。風下の中、彼は300フィートで旋回し、それから2度目の着艦を試みた。彼の戦闘機は背を下にして、ひっくりかえり海の中へ墜落していった。フイシャー少尉機は発見されなかった。この日の戦闘での米英側における唯一の戦死者である。「第45号海防艦」の第6番25ミリ単装機銃は無傷であった。それで砲手は果敢に敵機を撃ち続けていた。フイシャー機は恐らくこの6番機銃の砲弾に被弾したのであろう。

テリー中尉とフイシャー少尉が尾鷲湾を離れた後、残りの戦闘機は名古屋方面に向かい、鳥羽近くで北に向かって走行中の列車を見つけた。そして先頭列車に対して機銃掃射し、エンジン部分に命中した。
列車はトンネルに半分入り、半分トンネルから車両を出した状態で止まった。午後4時40分に帰艦。攻撃滞空時間は4時間であった。この攻撃をもって、尾鷲湾の日本軍艦艇に対する攻撃は全て終了した。

この日の戦闘で、即死者72名(総戦死者147名)重軽傷者はおよそ250名に達した。負傷者は尾鷲国民学校(現在の尾鷲小学校)の講堂や教室に収容され、医師、看護婦、在郷軍人会、国防婦人会および海軍将兵及び市民総出で応急手当にあたった。
止血のために包帯、三角巾、昇こうガーゼ、手拭がかき集められた。この時代にはエアコン設備など無い。真夏の蒸しかえる暑さの中での手当てで、全員汗だくだった。
負傷者は木製の床の上に寝かされていた。床の上にはあちこち血痕が点々とあった。手当てする者も手や衣服が鮮血に染まった。あちこちで苦痛、断末魔のうめき声が聞こえた。手当ての甲斐なく多くの兵士が絶命していった。尾鷲市史始まって以来の大惨事となった。
それから1~2日すると尾鷲港、尾鷲湾、引本、須賀利湾に戦死者の遺体が次々に浮かんだ。発見のたび通船を出して遺体収容にあたった。損傷がはげしく、ほとんどの氏名が判らなかった。そこに「戦争の実相」を目の当たりにした。
将兵の着る軍服には通常、氏名が墨書きで書き込まれた「記名布」があるのだが、氏名不明の将兵は軍服を着用していなかったのであろうか。それとも爆風で吹き飛ばされたのか、火炎で焼けてしまっていたのだろうか。
(次号に続く)

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