伊勢の津七福神

布袋尊像

 (先週号からの続き)上稲葉へ入ると、まっすぐ西へ進む。やがてグリーンロードをまっすぐ横切り、いなば園の前から榊原町へ。ここまでくると一歩進むたびに、この七福神めぐりの終わりが近づいているという実感が湧いてくる。
 木立に覆われた道を抜けると、そこに広がるのは清少納言の枕草子に称えられた温泉郷。暖かい日とはいえ、冷え切った体を温泉で温めたいという誘惑に駆られたが、とりあえず我慢。榊原のメインストリートをまっすぐ白山方面へと進み榊原車庫を過ぎて2分ほどで布袋尊霊場・榊原地蔵寺へ到着する。この時、時計の針は14時半過ぎをさしていた。我が社を出発したのが10時前だったので途中の休憩を交えると、約4時間半かかった計算になる。
 この榊原地蔵寺は聖徳太子が彫ったとされる地蔵菩薩を本尊として開創した古刹。その後、時代の流れと共に盛衰を繰り返しており元文3年(1739年)に放光山・地蔵寺と号し、今に至るという歴史を持っている。この寺の前の道は車で幾度となく通ったことがあるがこの伊勢の津七福神のぼりが立つまでは、恥ずかしながらここにあったことに気づかなかった。
 山門をくぐって境内に入ると、本堂は古く境内にも目立った物は置いていないが、隅々まで丁寧に手入れされていることが一目見ただけでも感じられる。外からでは人の気配が感じられなかったため、恐る恐る本堂の扉を開けると、この日は所用で寺を離れていたご住職に代わり、近所の女性たちが迎えてくれた。更に年の頃だと私と同じくらいの男性が先客として訪れていた。彼は私と入れ替わるように去っていったので言葉を交わすことはなかったが、色紙の袋を持っていたので七福神めぐりに間違いなさそうだ。さっそく色紙に最後の朱印を捺してもらうため、女性に預け布袋尊像をお参りする。
 満面の笑みに太鼓腹というユーモラスな姿で親しまれる布袋は中国唐代の伝説的な僧侶がモデルの神。禅との関わりが深いこともあり、曹洞宗のこの寺に祀られているのも納得である。ご利益は子孫繁栄。「その前に相手探しからやなぁ」と密かに心の中でつぶやきながら合掌。全霊場をめぐり終え、無事に満願成就を迎えた喜びを噛み締める。その後、色紙を受け取ると満願成就を迎えた人専用の帳面へ記帳を求められたので快諾。すぐ上に書かれていた名前は先ほど入れ違いになった人だそうだが、名前と共に添えられた住所はなんと愛知県の日進市。どのような経緯で彼が、この七福神めぐりと出会ったかは分からないが、思わぬ広がりに喜びを感じる。
 参拝後にお茶やお菓子のおもてなしも受けながら少し暖をとらせていただいたので寺を後にしたのが15時過ぎ。帰りも歩きでとも考えたが、この時間からでは途中で日が暮れてしまう。
 榊原車庫前でバスの時刻表を確かめると、しばらく時間があったので、少し歩いて、湯元榊原舘の日帰り温泉施設・湯の庄に立ち寄る。榊原温泉にいくつも温泉施設はあるが、施設内に源泉を持つのはここのみ。アルカリ性単純泉で少しぬめりのある泉質はまさに天下一品。ゆっくりと湯船に浸かり、疲れを癒す。
 湯上りの少し火照った体でバス停へ行くと、間もなくバスが到着。あと一時間余りでこの伊勢の津七福神めぐりは終わる。振り返ると、各寺社のご利益だけでなく、その道程でも数多の未知なる〝津〟と出会えたことは大きな収穫だった。これこそが私にとっての『満願成就』だったのかもしれない。降りるバス停が近づく頃、ふとそんなことが頭に浮かんだ。おわり(本紙報道部長・麻生純矢)

高砂区民会館で前葉市長を交えて行われた練習

 この七福神めぐりの最後を飾るのは布袋尊霊場・榊原地蔵寺=津市榊原町=。今までの霊場は最初に行った辯才天霊場・円光寺=津市河芸町上野=を除けば、各々の間の距離はほんの数㎞。なるべく旅の風情を楽しもうと、基本は徒歩で回っていた。だが、残す地蔵寺までは津市東丸之内の我が社から、ざっと見積もっても20㎞強。バスであれば榊原車庫行きの終点から霊場は目と鼻の先だが、それではいささか勿体無い気がする。では近鉄電車で榊原温泉口駅まで行って、そこから徒歩はどうか等々…。時刻表とにらめっこしながら悩みぬいたが結論は『案ずるより生むが易し』。この七福神めぐりを2回踏破した本紙・西田久光会長に倣い、潔く徒歩で行くことにする。
 そのような前段を経て、1月30日10時に我が社を出発。松菱の裏通りを南に抜け国道23号を西へ横断。国道163号に入る。この道の一部の旧名は伊賀街道。伊勢・伊賀両国にまたがる藤堂藩の津城と伊賀上野城を結ぶ大動脈。その入口は現在『新町通り』の愛称で御馴染みだろう。
 中部電力三重支店の前から新町商店街、津新町駅の踏切、津高校、津ドライビングスクールを順々に通りすぎ、中勢バイパスとの合流地点を通過。本来の伊賀街道は江戸時代に商業地域として栄えた八町から川沿いの道を走っているが、この日は時間の都合もあり、国道を直進。津市水道局のT字路を伊賀方面に折れてしばらく進むと昨年の大河ドラマの主役だった平清盛の父・忠盛の出生地と伝わる忠盛塚が右手に見える。
 ここまで1時間半弱で片田志袋町のミニストップへ到着。日頃のジム通いの成果かここまで疲れは余りない。20分ほど休憩し、再び歩き始める。そこから5分ほど進んだ先にある片田郵便局を過ぎた辺りである種の職業病が出る。一言で表現するなら『津の全ての道を通ってみたい』という抑え難い欲求だろうか。
 この国道は車でよく行き来しているが、これより北側に一本入った集落を走る道は車で通れるか少々心配だったので今まで通ったことがなかったが、今日ははばかるものは何もない。
 片田町から片田久保町を経て、片田薬王寺町までを国道と裏道を行き来しながら進む。のどかな集落の何気ない風景だが〝知らない津〟はとても新鮮。白地図をどんどん書き加えていくような心地良さを感じる。
 集落を抜けると、山裾に沿う形で田園地帯が広がるが今は農閑期。乾いた田んぼでは土が豊かな恵みを育むべく力を蓄えている。しかし、それらをぐるりと覆う形で獣害対策の電気柵が張り巡らされており、所々に見られる耕作放棄地がヒトとケモノの戦いの壮絶さを伺わせる。何度も見聞きして記事にしたこともある問題だが、こうやって自分の足と目を使って、じっくり向き合うことで地域が抱える痛みや苦しみをより鮮明に捉えられる。
 田園地帯にある津市水道資料館前の農道から国道に戻ると、目の前に立ちはだかるのが伊賀街道の難所の一つと言われた吹上坂。ここを上がるといにしえの皇女の名を冠する美里町五百野。この集落の途中で旧奈良街道への分岐点に入り、上稲葉方面へ西進。めざす榊原地蔵寺までもう一息だ。下へつづく。(本紙報道部長・麻生純矢)

福禄寿霊場「結城神社」

北村西望作の狛犬

 1月23日12時半、福禄寿霊場・結城神社=津市藤方=へ。いよいよ伊勢の津七福神をめぐる旅も残すところあと2つ。
 この日は寒さも和らぎ、心地よい気候に恵まれたこともあり、我が社=津市東丸之内=から徒歩で出発。フェニックス通りをなぎさまち方面へ進み、途中で近鉄道路を松阪方面に向かって折れる。津市内の大動脈である国道23号の補助的な役割を果たしているこの道路はその名の通り昭和36年に廃線となった近鉄伊勢線の跡を再利用したもの。岩田川の河口にかかる鉄橋はその名残である。
 平日の昼下がりを、ゆっくりとしたペースで歩くと約40分ほどで結城神社に到着。しだれ梅の名所として誰もが知っているこの神社の御祭神は南北朝時代に後醍醐天皇を頂点とする南朝方の武将として北畠親房・顕家親子と共に足利尊氏と戦った結城宗広公。劣勢からの捲土重来を狙い、海路で領地である陸奥国に渡ろうとしたが船が難破したため、この伊勢の国に留まることとなり、失意の内に命を落としている。
 神社としては宗広公の墓所があるこの場所に津藩第10代・藤堂高兌公が文政6年(1824年)に社殿を造営したのが起源。後醍醐天皇による親政「建武の中興(新政)」の実現に貢献した南朝側の皇族や武将を祀っている「建武中興十五社」にも数えられている。
 境内で、まず目を引くのが社殿を守る青銅の狛犬たち。精悍な顔つきに、はちきれんばかりの筋肉の鎧を身にまとったたくましい体躯…。今にも動き出しそうな錯覚を覚えるほどの生命力に満ち溢れた姿は明らかに一般的なそれと一線を画している。像の横の立札によると作者は長崎県の平和公園にある平和祈念像でも有名な彫刻家・北村西望。なるほど納得である。
 その後、参道をまっすぐ進み社殿を参拝。社務所で朱印を捺してもらう際に福禄寿はどこに祀られているか尋ねると社殿の奥ということで再び社殿に戻り、中を覗き込む。よく見ると向かって正面より少し右に福禄寿の像が祀られている。ご利益は無病息災。季節柄なにかと体調を崩しやすいこともあるので、じっくりと手を合わせる。
 参拝を終えると、毎年しだれ梅まつりの際には大勢の人でにぎわう梅園の方に回り、梅の枝を観察。まだつぼみは固く結ばれており美しい花を楽しむまでにはもうしばらく時間が必要だろう。また梅園の奥には、宗広公の墓所や結城医王大明神の社がある。後者は病気平癒にご利益があるためこの日も女性が長い時間手を合わせながら、懸命に祈る姿を見かけた。家族や友人が大病を患ったのだろうかなど、想像は膨らむばかりだが、あのそぶりではとても大切な人に違いない。見知らぬ誰かの無事を陰ながら祈りつつ結城神社を後にする。
 さて、次は最後となる布袋尊霊場・榊原地蔵寺。霊場までの距離は我が社から約20㎞。徒歩・バス等々…どういう交通手段で向かうか思案中である。(本紙報道部長・麻生純矢)
 お知らせ=伊勢の津七福神の各霊場の参拝時間は9時~16時。

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