歴史の散歩道

 伊勢の安濃津城は天下の名城であった。平安時代には、伊勢平氏の平正衡が拠り、鎌倉時代には細野藤敦が治めた。
 戦国時代には織田信包が五層の天守閣を築き、藤堂高虎が新築した。
 高虎は江戸城・大坂城など全国に20余城を普請、「日本一の築城の名手」であった。だか、津城は昭和20年の戦災で焼失、今や模造の櫓を残すのみ。近頃、NHK大河ドラマで城と人のドラマを展開するが、高虎を敬幕する津市民は「大河ドラマに高虎を」と熱望するが、城無くして高虎のイメージは薄い。
 高虎は慶長13年(1608)、伊予今治から伊勢伊賀22万石、のち32万石の太守として入国、明治維新まで津城は藤堂家13代が統治、「津は高虎の城」として栄えた。
 高虎は津に入城すると同時に地域を大改修し、本丸に櫓、多聞を捉え、北に京口門、西に伊賀口門、南に中島口門を構え、外堀の北、西には七つの木戸を固め、武家屋敷を設け、周囲に城下町を造り、津の町を繁栄させた。
 その一方で、近江の膳所城をはじめ大坂城・江戸城・熊本城・高槻城を普請、高虎は世に20余城を手がけ、日本に城を残した。
 特に津の町には、参宮街道を中心に取り入れ、東は百里の東海道を経て江戸、西は伊賀上野、奈良を越えて京都、大坂を結び、日本有数の城下町を造った。まさに小京都である。
 そのシンボルは津・藤堂家32万石の賑わいの津の町、津の城であった。
 高虎の津城は、本丸の北部を拡張して三層櫓二棟と二層櫓三棟を建て、天守台を造り直した。
 高虎は築城にあたり「津のお城は隠居所」、「伊賀上野の城は攻守に役立つ堅城」とした。
 だから天守閣はあえて建てず、しかし壮麗な城郭を築いた。世はすでに天下泰平がスタート、徳川幕府の思惑も考え、攻城では無く、平和の城とし、しかし近江彦根藩と共に、徳川家康の「彦根は第一の先手、津は第二の先手」の方針を守った。
 しかし守城の性格から、東の丸・西の丸の小曲輪を「鉄砲の銃弾が届かぬよう」に大きく、広い外堀を設けて水堀で囲み、内堀と外堀の間に〝大本営〟とも云うべき評定所や米蔵、藤堂家の屋敷を配置した。
 江戸城・大坂城を築いた経験から「低くとも広大な城づくり」を目指した。がゆえに堀は広く、石垣の長い城になったようだ。
 明治維新になって本丸の櫓や多聞櫓が競売され、堀もひどく埋め立てられ天守台と石垣を残すのみとなった。淋しい限りだ。
 そして昭和の戦災、終戦を経て、堀もかなり埋め立ててしまった。松風騒ぐ廃城だ。
 NHK大河ドラマを見ていると、最近でも京都の二条城・江戸城・会津若松の鶴が城・姫路城が美しくそびえる。来年の大河ドラマは「黒田官兵衛」。また姫路城がはばたく。
 津市や市民の有志がNHK大河ドラマに高虎を誘致しようとがんばっておられる。高虎や、高虎のゆかりの地を舞台にした大河ドラマの実現のためにも、また、津市の歴史と観光を盛り上げるためにも、ぜひ津城の再建を考えて頂きたいものである。
(横山 高治 津市出身、歴史作家、「藤堂高虎」「蒲生氏郷」「伊勢平氏の系譜─伝説とロマン」など、多数の著作がある)

 ◆大河ドラマのヒーロー
 来年のNHK大河ドラマの主人公は、豊臣秀吉や徳川家康に天下を取らせた智謀の名将黒田官兵衛(1546─1604)。会津若松を舞台にした「八重の桜」がようやく佳境に入った所。
 いささか早い気もするが筑前黒田家52万3千石ゆかりの福岡、官兵衛の出身地、姫路、それに黒田家発祥地の滋賀県が観行ブームにあやかり、大河ドラマ旋風である。
 大河ドラマのヒロインは幕末の篤姫、徳川秀忠の妻、お江与が脚光を浴びたので、今度は戦国武将、やはり藤堂高虎、明智光秀、石田三成と地元の人気は満点だが、津城の無いのが玉に瑕…。やはり官兵衛さんだ。
 ◆近江源氏の流れ、正義派
 官兵衛は天文15年、姫路生まれ、父は播州の豪族、小寺政職の筆頭家老、黒田職隆だ。幼名は万吉、長じて孝高、キリスト教の洗礼を受け、ドン=シメオンと名乗るが、秀吉に怒られ、隠居して如水と号した。
 ルーツは、近江源氏の佐々木一族。戦乱で播州に移り、目薬を商売にして利財を稼ぎ、小寺一族に接近、ついで織田信長に仕えた。戦略、智謀で秀吉に注目された。
 秀吉が近臣を集めて冗談めかしに「わしが死んだあと誰が天下を保つか」と云ったので、みな家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家と笑ったが、秀吉は「たったひとり天下を得る人物がいる、それは官兵衛だ」ときっぱり断言した、という。
 当時は、まだ12万石の城主で、官兵衛は秀吉の才気を痛感、隠居した。しかし関ヶ原合戦の際、伜の長政を家康の元に送り、自分は九州の諸城を攻めとった、凄い人物だ。
 ◆愛すべき智恵者
 智謀の将。しかし陰謀の謀略家では無い。キリシタン信仰をもつ正義派だ。
 若い頃、盟友の荒木村重が信長に反逆したので単身、説得に赴き、牢獄に閉じ込められ、足腰を痛めた。
 しかし、村重を助け、秀吉を感服させた。が、信長に激怒を買い、長政が首を落とされるところを秀吉に救われた。などエピソードも多い。
 そういうところに外様大名なのに、福岡城を築き、九州に大大名の地位を保った点は余人に真似の出来ない、智恵者でもある。
 また、福岡という地名も官兵衛が大名としてスタートを切った備前国邑久郡福岡村から大切にして来た〝第三の故郷〟。戦国武将にしては誰からも好かれ、愛される人物であったとも云われている。
(横山 高治 津市出身。津工業・明治大学卒・歴史作家。「藤堂高虎」「伊勢平氏の系譜」「戦国於奈津の方」「平家伝説と隠れ里」など著書多数)

一、 伊勢の三国守
 南北朝時代から戦国時代にかけて、伊勢・伊賀の国境、安濃郡長野村(津市美里町)に豪族の工藤長野氏が国守として栄えた。
 「日本三大仇討」のひとつ、「曽我兄弟の仇討」で有名な鎌倉幕府の侍大将、工藤左衛門尉祐経の三男、駿河守祐長が安濃郡地頭に入国。第16代藤敦(具藤の子)まで約三百年存続。北の伊勢平氏の名流、関氏、南の南朝の名流、北畠氏と共に「伊勢の三国守」であった。
 美里町桂畑の通称、城の台(標高540m)に長野氏城(国指定史跡)、伊賀街道を跨いだ北に東の城(196m)、中の城(200m)、西の城(234m)を本拠に北伊勢を支配。 室町時代には室町幕府の奉公衆(将軍に近く仕える御家人)をつとめ、一族には「長野衆」として雲林院・細野・家所・分部・草生の五家が中核、分家に川北・中尾・乙部・家所の四家、それに城は美里町の経ヶ峰・細野・井面・家所の四支城、芸濃町の椋本・雲林院・林・忍田・岡本・萩野・前山の七支城、安濃町の今徳・草生・安濃・連部・浄土寺の五支城、河芸町の上野・御幸・黒田の三支城計十九の城と安濃津港を中心に総勢五千(馬上五百騎)の兵で君臨した。
二、長野氏族と高い城
 長野氏城は伊勢・伊賀の分水嶺にそびえる伊勢国で最も高い所にある城だ。
 文永11年(1274)、祐長の嫡男、祐藤が豪古襲来の文永の役に築いた。工藤長野氏は鎌倉幕府の前線トリデとして支配統治した。
 正長元年(1428)には北畠氏三代の国司、満稚が南朝の君主を奉じて挙兵。室町幕府を開いた際、工藤長野氏は幕府側に参加して北畠氏と激戦、満稚を津の岩田川畔で戦死させた。
 また、戦国には永禄10年(1567)、岐阜から伊勢に侵攻した織田信長軍に抗戦し、翌々年には信長の弟、三十六信包を工藤長野氏第15代具藤の養子に入れ長野次郎と名乗らせる謀略に応じた。信包は津城を築く。
 その後、天正4年(1576)、具藤は信長の手先に暗殺され、名門、工藤長野氏は遂に滅亡した。
三、工藤長野氏の残影
 光芒揺れて幾星霜─。名門、工藤長野氏は滅び、本拠の長野村も市町村大合併で津市に吸収され、安濃郡も版図が塗り替えられ、消滅した。昔の光、今いずこだ。
 伊勢の戦史をふりかえると伊勢平氏は西海長門の海に全滅し、北から織田氏の侵攻で名流の北畠氏も工藤長野氏も滅んだ。国盗り物語では無く国盗られ物語である。
 そこで、工藤長野氏の残党を探してみると、「長野衆」の分部家が河芸町上野から江戸時代に近江に転封され、大名に残った一家がある。
 高島市の大溝藩分部家二万石だ。河芸町の上野城にいた分部左京亮光嘉が、関ヶ原合戦の余波とも云える津城攻防戦で闘って高野山に逃れたのち、徳川家康に認められ、上野城二万石城主に任ぜられた。
 光嘉は、関ヶ原合戦の翌年、慶長6年(1601)に上野城に入って間も無く病死するが光嘉の姉の子、雲林院家の光信が後継者となる。
 光信は大坂冬夏の陣に大坂城外で、徳川方の武将、本田忠勝の幕下で勇戦。敵方の首六十もあげた戦功の人物だった。
 光信は、慶長七年(1602)、滋賀県高島市の大溝藩二万石城主に転封、城郭に天守閣は建てなかったが、陣屋と美しい城下町を建設し、明治4年(1871)の廃藩置県まで16代二百七十余年生き残った。
 高島平野と琵琶湖を支配し、子孫は有力な海軍を擁して水陸の交通を守り、また明治・大正天皇の乗馬の先生もつとめた。
 他に長野衆随一の勇将、安濃城主、細野壱岐守藤敦(分部光嘉の実兄)は信長に抗戦し続けたのち、伊勢松坂城主、蒲生飛騨守氏郷に仕え、氏郷が会津若松に転封になると同行。
 氏郷の死後、徳川家康に迎えられたのち、加賀の前田家に仕えた。
 従って北陸路には細野氏の子孫がいる。
 因みに、大坂冬夏の陣では、豊臣方、関ヶ原合戦では西軍に参戦した長野衆の家臣も多く、家所帶刀・中尾新左衛門・川北勝左衛門・雲林院兵衛らが破れて戦死、浪々の者も多い。
 埼玉県・熊本県など浪々の子孫がいる。
 とくに一族の旧臣では、慶長13年(1607)、伊予宇和島から津に入国した藤堂高虎に拾われ、のち無足人に取り立てられ、また紀州藩和歌山家の地士にもかなり多くの者が取り立てられている。
 その数、約一千二百人、平素は農村で居住し、庄屋や山役人、鳥見役などを勤め、年に何度かは津城に呼ばれ、藩主のお目見えに接した。
 いずれも大半が北畠・工藤長野両氏の子孫の末裔である。
 いわば長野衆の遺産だ。明治維新の戊辰戦争で藩軍の中核となって活躍した者も多く、旧陸軍時代、久居三三連隊や和歌山二四連隊は勇敢で戦歴を刻んでいるが、戦国武史の名ごりと云うべきか。
 なお蒲生家滅亡後、伊勢に帰国した武士が多く、長野村の名主の岡家、津市一身田窪田の国府尚直家(石水会館事務長)、津市北丸之内、桜水楼、岡昭家など名家が多い。
 また、徳川家康は側室、清雲林院於奈津に津の町復興、伊勢商人の援助をさせているが、叔父に浪人から長野九郎右衛門に取り立てその長野氏の子孫は東京に住み、津市、松阪市にはその他の工藤氏、長野氏がいる。
(横山 高治 津市出身。「藤堂高虎」「伊勢平氏の系譜」「戦国於奈津の方」など著書多数)