津ぅるどふるさと

尾前神社の鳥居

尾前神社の鳥居

伊勢湾の風景(取材した5月8日当時)

伊勢湾の風景(取材した5月8日当時)

円光寺からは、再び国道23号。すぐに国道を海側に渡り、東千里の集落へと入っていく。ここは旧伊勢街道に沿って広がっているのだが道幅が狭い。車だと土地勘の無い人間は走りにくい場所だが自転車だとそんな気兼ねもいらない。
少しの散策の後、集落の中に鎮座する尾前神社に立ち寄る。この神社に伝わる津市無形民俗文化財指定の「獅子舞神楽」は承安3年(1173年)の創始と言われ、地元の方々が今も伝統を受け継いでいる。私はヘルメットを脱ぎ、神前でここまで無事に来られたことに、深い感謝を捧げる。更に目前に迫ったゴールまでの残りわずかな道中の無事を祈願する。
この旅は、一昨年の11月5日にスタートした。コースは、行き当たりばったりのいわゆる〝出たとこ勝負〟。緻密な計画や準備とは無縁だったが、最初からゴールは海と決めていた。特に深い理由はないがかのアレクサンドロス大王も、世界の果てにあるといわれた大海・オケアノスをめざし、遠征を続けたというではないか。余りに壮大な例え話で申し訳ないが、とかく男はロマンにかこつけて行動したがる生き物なのだ。そして、そのロマンの象徴と言えば、海と昔から相場が決まっている。
尾前神社からは、すぐ近くのマリーナ河芸へ。そこから堤防道路へ出ると、五月晴れの空の下、伊勢湾が広がっていた。ここが旅の終着点。きっとアレクサンドロス大王が焦がれた大海はもっと雄々しきものであったに違いない。それに対して伊勢湾の美しさは母性そのもである。おだやかな波をたたえた海面からは慈しみすら感じる。
私は自転車を停め、砂浜に腰をかけながら、ゆっくりと海を眺める。砂浜に波が打ち寄せる度に旅路での出来事が蘇ってくる。芸濃町からこの河芸町まで津市内10地域。色々な場所に行った。今でも、それらの場所を通るたびに頭の中で鮮明な記憶が再生される。この旅を通じて、津市の新たな一面を知ることができ、ますます好きになれたことが最大の収穫といえるかもしれない。私にとっての〝オケアノス〟は世界の果てではなく、ごく身近に存在することに気づけた。
2年余りかかったこの連載を続ける中で、読者の皆様から何通もの励ましのお手紙を頂いたことも、ここまで来られた大きな原動力になった。この連載をきっかけに、再び自転車に乗り始めた方や、自転車を愛する家族の話などと共に私たちに対する温かいねぎらいの言葉が綴られていて、とても有り難かった。
海を眺めてしばらく、記憶が一つ蘇る度に、寂しさが募っていく。理由はもちろん、ここまで一緒に走ってくれた相方のM君がいないからだ。無事に大団円を迎えられたのも、彼が居てくれたおかげだから。
砂浜から立ち上がった私は、汗で貼り付いた砂を手早く払うと、再び自転車にまたがる。そして、一路、M君の自宅へ向かう。まだ16時前だったが、3交代勤務の彼の睡眠を妨げては申し訳ないため、家の前から彼の部屋に向って一礼。心から感謝する。「また、一緒に未知を探しに行こう」。私はこれまでにないほど、軽快にペダルを回しながら家路についた。(了)(本紙報道部長・麻生純矢)

本城山公園の展望台(取材した5月8日の様子)

本城山公園の展望台(取材した5月8日の様子)

沙羅双樹や紅葉でも知られる「円光寺」

沙羅双樹や紅葉でも知られる「円光寺」

八雲神社からは、再び赤部の集落を経て、のどかな農道を河芸総合支所の方へとのんびりと走る。「この道は、ここに繋がっていたのか」と一人で頷きながら笑みを浮かべる。本当にささいなことだが、未知が既知へと変わる瞬間の快感は何ものにも代え難い。読者の皆様方に、未知をお届けするためにも、こういった積み重ねを日頃から心がけている。
河芸総合支所の前を通り再び伊勢鉄道の線路をくぐる。しばらく々に覆われた坂道を登ると、本城山青少年公園に到着。兄・織田信長との戦いで夫・浅井長政を失ったお市の方と、3人の娘である茶々、初、江が過ごしたと言われている伊勢上野城跡にある。そのおかげで、2011年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の放映時には、数多くの観光客が訪れた。
公園の中の小高い丘の上には展望台。早速登って四方を見渡してみると、なぜこの場所に城を建てたのかが自然と理解できる。近隣の集落のみならず、遠くは伊勢湾の向こうの知多半島までを容易に見通すことができるからだ。戦国武将が高いところに居城を構えたのは、何も城の周囲に居を構えた領民を見下すためではない。いち早く他国の侵略を察知して、大切な領民を守るためである。自分が武将だったらと考えると、眼下の集落からたち上がる炊事の煙など、領民の営みを目にするたびに、気が引き締まる思いで統治に励んだはずだ。まして、弱肉強食や下剋上がまかり通った時代である。砂上の楼閣という言葉に集約されるほどに儚い権力構造を盤石なものにするためにも領民との良好な関係は不可欠なはずである。
公園の後は、すぐ隣にある円光寺へ移動。この寺は伊勢上野城の城主・分部氏の菩提寺。後に大溝藩(現在の滋賀県高島市)を幕末まで治めた同氏の礎を築いた分部光嘉は、富田信高らと共に関ヶ原の戦いの前哨戦である安濃津城攻防戦において活躍。わずか1700の寡兵で3万にも及ぶ西軍相手に勇戦し、敗北こそしたものの、東軍の勝利に貢献している。
この円光寺は、同氏の移封に伴い、大溝へと移されたが後に当地を治めた紀州藩が寺領を認めたので旧伽藍が存続したもの。本堂はこじんまりとしているが、古風な禅寺の風格を漂わせている。覗いてみると、住職がいらっしゃったので、挨拶し、少し休憩をさせて頂く。平家物語でもおなじみの沙羅双樹や紅葉でも知られており、それぞれの季節になると、多くの参拝者が訪れる。
さて、いよいよこの旅の締めくくり。海に向かって自転車を飛ばす。(本紙報道部長・麻生純矢)

北黒田の田園風景(取材した5月8日当時

北黒田の田園風景(取材した5月8日当時

八雲神社の鳥居

八雲神社の鳥居

伊勢鉄道の線路をくぐると河芸町高佐。河芸という言葉を聞くと、大抵の人がイメージするのは海だと思う。無論、私自身もそうだ。だから、あえて海から離れれたところから回ってみようと思った次第である。
辺り一面に広がる田園地帯を進む道路。住宅の脇に「高佐遺跡・石斧出土跡」と書かれた木製の碑が立っている。帰ってから、目を通した河芸町史によると、ここは弥生時代中期の遺跡で石斧や土師器、陶器が発見されているそうだ。また、すぐ近くにも遺跡があるらしいが、今では見渡す限りの農地。そんなことも知らず、気持ちよく走っている時は何も感じなかったが、知らず知らずの内に太古との邂逅を果たしていたようだ。
田植えが終わったばかりの水田に囲まれた道を北へ走っていく。まだ幼い稲葉は柔らかい日差しを浴びながら、この瞬間も成長を続けている。この周辺の黒田地域で採れる米は、その品質の高さから古くから黒田米として知られている。毎年2月には500年以上前から続くと言われる伝統行事である津市民俗無形文化財「世だめし粥占い」が行われ、その年の稲作の豊凶を仏に問うと共に、住民の無病息災などを祈っている。大地と水の恵みで生命を育み、感謝の気持ちを持って自らの命を繋ぐ糧とする。昨今忘れさられようとしている日本人本来のライフサイクルがここでは生きていることを実感する。
その後、田園を抜け、河芸町赤部の集落に入る。この辺りには取材でも余りお邪魔をしたことがなく、道幅も余り広くないため、土地勘のない人間が車で動き回るのは得策でない。前々から散策してみたいと思っていたので非常に楽しみにしていた。何事もない地域の日常をインプットしておくことで、できる。
やがて、集落の外れへ抜ける道に沿って走っていくと、古びた鳥居が見えていくる。恥ずかしながら、こんなところに神社があるのは知らなかった。鳥居の前にある石柱は、すっかり風化しており、神社の名前が分からない。そこで、リュックサックからスマートフォンを取り出し、地図サイトを開いたところ、八雲神社という名前であることが分かった。白塚町や河芸町一色にも同名の神社がありそれぞれが裸の男たちが勇壮に練り歩く「やぶねり」と「ざるやぶり」という神事で知られる。
八雲という名が意味するのは神仏習合中で同一視されていた素戔嗚命と牛頭天王を祀る京都の八坂神社を筆頭とする祇園信仰の神社だということ。明治の神仏分離で両神は切り離されたものの、この神社がある場所の字は天王前であることからもそのことが分かる。
前述した二つの同じ名前の神社と比べると、知名度は劣るかもしれないが、地域で生まれた人たちを見守り続けてきた立派な産土神である。
鳥居の前に自転車を停め、境内に歩みいると古びた小さな社が見えてきた。神前まで進み、目を閉じて道中の安全を祈願する。訪れる人が少なければ、神様への願いも届き易かろうと少しばかりの邪念を抱いていたことは、神様には容易く看破されていたに違いない。(本紙報道部長・麻生純矢)

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