163号をゆく

新長野トンネルを抜け、伊賀市へ

新長野トンネルを抜け、伊賀市へ

伊賀市上阿波の集落

伊賀市上阿波の集落

新長野トンネルを抜けると、いよいよ伊賀市。時刻は11時過ぎ。日没時刻は17時前なので今日の目的地の上野市駅まで残り20㎞以上あることを考えると余裕はない。
少し進むと現在の国道と昭和のトンネルから続く道とが交差する場所に出る。ここから登った少し先には伊賀越えの道がある。江戸時代には多くの人々がこの道を行き来しながら旅をした。
その近くには松尾芭蕉の句碑「猿蓑塚」。碑に刻まれている「初しぐれ 猿も小みのを ほしげ也」は芭蕉がこの峠道を歩いていた際、時雨に打たれて震える猿の様子を見て詠んだものである。この辺りを歩くのは初めてなこともあり、雨にこそたたられていないが、近い経験をした今は、よりこの句の世界を鮮明に思い描くことができるようになった気がする。個人的に大学生の頃に指導を受けた教授が芭蕉の研究をしており、この句には馴染みもあったので、感慨もひとしおである。
そこからは、どんどん坂道を下っていくと上阿波の集落。伊賀市に合併した旧大山田村の前に、この一帯の集落で形成していた阿波村は、明治の長野トンネルの着工を発案し、大きな負担を担った。伊賀街道沿いの宿場町で、難所を克服するという強い決意や特産品の木炭を生み出す豊かな緑がその原動力となったことだろう。
そこから130年以上過ぎた現在、地域経済を支えた農林業を取り巻く環境も厳しくなり、この辺りにも高齢化と人口減少の波が容赦なく押し寄せていることは、国道沿いに連なる家々を見ただけでもわかる。軒先の様子や干されている洗濯物などから高齢者のみで生活しているのであろう家も散見される。
この地域に限ったことではないので、少し話はそれるが、昨今の都会への人口集中と、それに伴う地方の衰退にどう取り組めば良いのかということは常に頭をよぎる課題である。明確な答えというものはないが、そのヒントとなる言葉に最近出会った。その方は県内で林業に携わり、生まれ育った地域の活性化に取り組まれているが「田舎の人は夜の闇を明るくしようと考えるが、私の暮らす地域ではその闇のおかげで世界的に見てもトップクラスの数の星を観測することができる。闇を魅力的と気付けるかどうかが大切」と力強く語っていた。また、別の方だが「人口が少なくなった分、土地や資源などのリソースを都会に比べると一人頭換算で何倍も費やすことができる」という話も聞いたことがある。つまり、地元の人たちが何もないと思っているところには必ず何かがあるということだ。一度は消えかかったレコードやカセットテープが近年、若者に人気なように、魅力に気付けるかが非常に重要といえる。
この大山田地域でも豊かな自然と農林業という地域の魅力をより多くの人に伝えながら、地域活性化に向けた取り組みが行わているようだ。
国道に沿って流れる服部川。木津川に注ぐ清流は古より地域や街道をゆく人々の姿を見守り続けている。悠久の時の中で移ろい続ける人々の営みは変幻自在の水のようである。未来がどんな形になるかは今を生きる私たち次第なのかもしれない。(三重ふるさと新聞報道部長・麻生純矢)

一日目の終着点の美里総合支所下

一日目の終着点の美里総合支所下

五百野皇女の碑を過ぎたところで17時過ぎ。タイムリミットの日没まで1時間ある。だが、肝心の両足が悲鳴を上げている。今日中に長野峠へと到着するのは難しいと判断し、美里総合支所下のバス停にゴールを変更。なんとかそこまで向かうことにする。
五百野の集落を越えると、すぐに国道163号とグリーンロードとの交差点。この道は津市と松阪市を結ぶ広域農道。その名の通り、収穫物を運ぶ通作道や農作物の流通のために活用しているだけでなく、生活道路、産業道路的など、多面的な役割を果たしている。  更に国道を進むと、北側に旧津市立高宮小学校の校舎がみえる。高宮小は今年4月に辰水小、長野小、美里中学校と統合し、三重県初の義務教育学校「みさとの丘学園」へと再編されている。学び舎というものは、不思議な存在で、長い人生のうちで、これほど、一日一日の出来事が鮮烈に刻まれている場所はない。ここに何度か取材でお邪魔した程度の私ですら、その時の記憶が蘇るほどだ。それだけに地域の人たちにとって特別であり、義務教育学校という全く新しい形での統合に至るまでに様々な意見が交わされたに違いない。校舎は地域の人々によって利活用が模索されており、新たな形でまた人々の記憶に刻まれる存在になるだろう。
小学校を越え、今にも自身の体重と重力に屈しそうな体にムチを打ち、なんとか目的の津市美里総合支所下のバス停に到着。疲労はピークに達しており、バス停付近のアスファルトに身を投げ出し、大の字で天を仰ぐ。少し落ち着いてところで、〝一服〟する。といっても煙草ではない。好きな音楽を聴いて、疲れを癒すことを私は一服と称しているのだ。
スマートフォンを取り出し、スウィング・アウト・シスターのブレイクアウトを再生する。私にとっては特別な一曲で、辛い時や、落ち込んだ時に、何度勇気をもらったか分からない。
バスがくるまで40分ほど。次のルートについて試案を重ねる。目標の長野峠まで行けなかったのが少々痛い。というのもこの旅は、前回中断した場所まで公共交通機関で移動した上で再開というルールがあるからだ。長野峠付近には平木のバス停があるため、移動は比較的用意だが、トンネルの向こうの旧大山田村からはそうはいかない。鉄道が通っている旧上野市街までは一気に歩いてしまわないと辛い。距離的に今回と比較にならないが、出来ない理由を並べても仕方がない。
際限なく広がるネガティブな思考を〝ブレイクアウト〟するために音楽のボリュームを上げ、聴き入っているとちょうど帰りのバスが到着。「旅はまだまだこれから」。心の中でそう呟いて、私はバスに乗り込み帰路についた。(本紙報道部長・麻生純矢)

吹上の坂の道路改良を祝う開鑿記念碑

吹上の坂の道路改良を祝う開鑿記念碑

さて、ここからはいよいよ美里町。すぐ近くに吹上の坂の道路改良を祝う開鑿記念碑が立っている。碑には明治15年7月建之とある。この当時、既存の道路改良や新道の設置の機運が全国的にも高まっていた。四方を山に囲まれた伊賀地域にとって旧伊賀街道は商業的にも、生活インフラとしても非常に重要で改良工事は悲願。長野隧道(トンネル)含めた街道全体の改良工事が行われた。当時の道路工事の原資は、公費よりも沿線の村々から集めた民費の割合が大きいのが一般的。吹上の坂の改良工事は五百野村の人々の負担によって賄われており、碑には「五百野人民一同」という名義と共に発起人の名前などが刻まれている。難所の改良を自分たちの代で成し遂げたことは、後世にも語り継ぎたいほど誇らしい出来事だったのだ。事実、その思いが生き続けているからこそ、我々も難なくこの道を通ることができる。現在の道路は行政によって設置・管理されているので、自分のものという愛着は薄いかもしれないが、この碑はかつて道路がどういう存在であったかを教えてくれる。
更に国道を進むと、旧伊賀街道と旧伊勢街道を結んだ旧奈良街道との分岐点。その少し先にあるコンビニで休憩をとる。すぐに冷たい炭酸飲料を購入すると、駐車場の端に腰を下ろす。
スマートフォンの時間は17時。地図アプリで、目標の長野峠までの道程を改めて確認すると、中心市街地からここまでの距離とほぼ同じ10㎞。日没までしばらく時間はあるが、体力的に辿り着ける自信がないので、キリの良いところで引き上げを決断。幸い国道には津駅方面へ向かう路線バスが走っているので、コンビニを出発し、近くのバス停で時刻表を確認。帰りのバスは確保できそうなので迷わず進む。
五百野の集落の北側を通る国道沿いに「五百野皇女」の伝説が残る地であることを記した大きな碑がある。彼女は景行天皇の第7皇女で、伊勢神宮の斎王としての任を終え、都に戻る旅路で病に倒れたといわれている。以前は国道の北側に鎮座する高宮神社の方にあったが圃場整備でここに移動したという。赤く染まり傾いていく太陽。皇女の郷愁に思いを重ねながら西へ進む。(本紙報道部長・麻生純矢)

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