163号をゆく

 

伊賀盆地を洪水から守る「小田遊水地」

伊賀盆地を洪水から守る「小田遊水地」

桜に彩られた「射手神社」の赤鳥居

桜に彩られた「射手神社」の赤鳥居

伊賀市の中心市街地から国道163号で、郊外へと進んでいく。
島ケ原方面に向かう国道沿いには、のどかな田園風景が広がっているように見えるが、この一帯が「小田遊水地」。遊水地とは、洪水が発生した際に水を貯めて市街地への被害を最小限にとどめる設備。この小田遊水地を含め、周囲にある4つの遊水地で「上野遊水地」を形成している。
旧上野市の市街地を含む上野盆地は、淀川に注ぐ木津川と柘植川、服部川の合流地点があるが、三河川の合流地点からほど近い岩倉峡で一気に川幅が狭くなり、溢れた水が洪水を引き起こす。歴史的にも幾度も水害が発生しており、この遊水地は多くの人たちの生活を守る非常に重要な存在となっている。一見すると単なる農地にしか見えないが、自然と人のせめぎあいの最前線なのだ。
遊水地を見ながらしばらく国道を進むと、木津川にかかる橋にさしかかる。前回の行程で、大山田に入った際、東海と関西の境目を超えた感覚はあったが、この川を渡ると更にそれが強いものとなった。「賽は投げられた」。さながら大軍を率いてルビコン川を越え、ローマへ迫るカエサルのようだといえば大袈裟だが、昂る気持ちを抑えられない。
時刻は、ちょうど11時半。天高く上った太陽からは、3月末と思えないしたたかな日差しが降り注いでいる。実のところ、今日の目的地は未だ定まっていない。木津川に沿って走るJR関西本線で帰ることとなるので、自ずと目的地は、その駅となる。候補は近いところから笠置、加茂、木津の3駅。一気に木津駅まで行くのは私の体力と、日没までの時間を考慮すると難しい。実質は笠置と加茂の二択ということになるだろう。
急ぐ旅でもないので、足の赴くままにといったところ。長田の集落に差し掛かった私は、「射手神社」を参拝。この神社は、源義経が木曽義仲を討つために宇治へと向かう道中に立ち寄り、戦勝祈願をしたり、西行法師も訪れ、歌を残したという。いずれもこの道が、京都や奈良へと続く重要な道路であり、今も国道である所以を示すエピソードである。
風に揺らめく無数の桜花に彩られた赤鳥居。その近くにある石造十三塔は国と市の文化財指定を受けている。私は石段を登り、拝殿の賽銭箱に白銅貨を投じ、二礼二拍手一礼の作法で、日々の感謝と道中の安全を祈る。
参拝を終え、石段下の社務所の方を見ると、桜の大木が晴れ姿を誇るように境内を薄紅色に染め上げている。この景色に無条件の美しさを感じるのは人の性であろう。
晴れやかな気持ちで神社を後にした私は、未だ定まらぬ目的地に向かって歩き始めた。(本紙報道部長・麻生純矢

国道に沿って流れる服部川

国道に沿って流れる服部川

歩道らしき場所もあるが落ち葉に埋もれ歩行は厳しい

歩道らしき場所もあるが落ち葉に埋もれ歩行は厳しい

14時前。昼食で元気を取り戻した私は、下阿波から伊賀市駅に向かって、ゆっくりと歩いていく。国道にぴったり沿う形で流れる服部川。清流と呼ぶにふさわしい澄んだ水と山里が織りなす景色がなんとも美しい。山水という言葉には自然そのものを指す意味があることもうなずける。
しかし、私はこの川の流れを眺めながら、微かな違和感を感じていた。最初は気のせいかと思ったが、川に沿って歩き続けるうちに、その理由がはっきりと理解できた。水が〝逆〟に流れているのだ。
津市を含め、伊勢湾に面する地域やその周辺に暮らす人々が日常的に見かける川は、多少の違いこそあれど、概ね西から東に流れ、最終的には伊勢湾へと流れ込む。一方この服部川は東から西へと流れ、伊賀市の北部で木津川に合流。更に琵琶湖から流れる淀川と一つになり、大阪湾へと辿り着く。地域の特色を水に例え、それになじめないことを「水が合わない」とよく表現するが、実際に水が違うのである。  確かに伊勢湾に面する津やその周辺地域と、鈴鹿伊賀地域とは、文化圏の違いを感じることも多い。山に隔てられ、より大阪に近いという地理的な特性も大きく影響しているのだろうが、話し言葉も関西弁に近い。
また、アナログ放送時代は電波の都合で在阪局のテレビ番組が視聴できていたので、地デジ放送へ移行する際、県内の他の市町と同じように東海地方へと分類されたことで名古屋のテレビ番組しか視聴できなくなり、慣れ親しんできた番組が見られなくなることに多くの伊賀地域の人々が困惑したという。その結果、ケーブルテレビで在阪局の番組が視聴できるようになったというエピソードにも水の違いが表れている。
それははっきりと人々の気質にも表れているように思う。私も親しくしている伊賀の友人は何人かいるが、皆に共通するのは情に篤く、何事にも物怖じせずに立ち向かうところだ。良くも悪くも泥臭いことが持ち味で、津市など周辺市に比べると人口は少ないが一人ひとりが抜群の存在感を放っている。もちろん、一元論で語るつもりはないが彼らにはある種の憧れのような思いを抱いていたので、この川の流れにその一因を感じたような気持になった。
今日、上野市駅まで歩くことを、彼らには全く伝えていないが、どこかで偶然出会えないかなと心の中で思っている。川の流れに身を任せるように西へ西へと進む私の足取りと心は軽い。
ただ油断はできない。ここまで散々語ってきたことだが、モータリゼーションのしわ寄せで国道は徒歩に厳しい環境となっている。歩道も所々にしかなく、スピードの乗った大型車の往来を車道の端でやりすごすしかない。また歩道があっても落ち葉や湧水で機能していない箇所もあった。昼食で立ち寄った食堂でも国道を通行していた子供が交通事故の犠牲になった話や基本はバス通学であることなど、地域の交通事情を聞いた。高齢化が進み凄惨な交通事故が増える中、高齢者の免許返納も常識となりつつあるが、不意に国道で見かけた路線バスの時刻表を覗くと隙間が多く、普段の足としてはやや頼りない。美しい山里を取り巻く道路環境は想像以上に過酷なのである。
下阿波からは、川北、中村を経て、大山田支所前に到着。時刻は16時前。日没前に上野市駅に着くのは厳しそうだが、焦らず慎重に行くことにしよう。(本紙報道部長・麻生純矢)

新長野トンネルを抜け、伊賀市へ

新長野トンネルを抜け、伊賀市へ

伊賀市上阿波の集落

伊賀市上阿波の集落

新長野トンネルを抜けると、いよいよ伊賀市。時刻は11時過ぎ。日没時刻は17時前なので今日の目的地の上野市駅まで残り20㎞以上あることを考えると余裕はない。
少し進むと現在の国道と昭和のトンネルから続く道とが交差する場所に出る。ここから登った少し先には伊賀越えの道がある。江戸時代には多くの人々がこの道を行き来しながら旅をした。
その近くには松尾芭蕉の句碑「猿蓑塚」。碑に刻まれている「初しぐれ 猿も小みのを ほしげ也」は芭蕉がこの峠道を歩いていた際、時雨に打たれて震える猿の様子を見て詠んだものである。この辺りを歩くのは初めてなこともあり、雨にこそたたられていないが、近い経験をした今は、よりこの句の世界を鮮明に思い描くことができるようになった気がする。個人的に大学生の頃に指導を受けた教授が芭蕉の研究をしており、この句には馴染みもあったので、感慨もひとしおである。
そこからは、どんどん坂道を下っていくと上阿波の集落。伊賀市に合併した旧大山田村の前に、この一帯の集落で形成していた阿波村は、明治の長野トンネルの着工を発案し、大きな負担を担った。伊賀街道沿いの宿場町で、難所を克服するという強い決意や特産品の木炭を生み出す豊かな緑がその原動力となったことだろう。
そこから130年以上過ぎた現在、地域経済を支えた農林業を取り巻く環境も厳しくなり、この辺りにも高齢化と人口減少の波が容赦なく押し寄せていることは、国道沿いに連なる家々を見ただけでもわかる。軒先の様子や干されている洗濯物などから高齢者のみで生活しているのであろう家も散見される。
この地域に限ったことではないので、少し話はそれるが、昨今の都会への人口集中と、それに伴う地方の衰退にどう取り組めば良いのかということは常に頭をよぎる課題である。明確な答えというものはないが、そのヒントとなる言葉に最近出会った。その方は県内で林業に携わり、生まれ育った地域の活性化に取り組まれているが「田舎の人は夜の闇を明るくしようと考えるが、私の暮らす地域ではその闇のおかげで世界的に見てもトップクラスの数の星を観測することができる。闇を魅力的と気付けるかどうかが大切」と力強く語っていた。また、別の方だが「人口が少なくなった分、土地や資源などのリソースを都会に比べると一人頭換算で何倍も費やすことができる」という話も聞いたことがある。つまり、地元の人たちが何もないと思っているところには必ず何かがあるということだ。一度は消えかかったレコードやカセットテープが近年、若者に人気なように、魅力に気付けるかが非常に重要といえる。
この大山田地域でも豊かな自然と農林業という地域の魅力をより多くの人に伝えながら、地域活性化に向けた取り組みが行わているようだ。
国道に沿って流れる服部川。木津川に注ぐ清流は古より地域や街道をゆく人々の姿を見守り続けている。悠久の時の中で移ろい続ける人々の営みは変幻自在の水のようである。未来がどんな形になるかは今を生きる私たち次第なのかもしれない。(三重ふるさと新聞報道部長・麻生純矢)

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