社会

石水博物館の桐田さんが講演会で内容を紐解く

 2月17日、津センターパレスで行われた津藩祖・藤堂高虎を顕彰する「ときめき高虎会」の歴史講演会で、(公財)石水博物館学芸員の桐田貴史さんが登壇。「『藤堂家覚書』最古の高虎伝を読み解く」と題し、資料の記述から伺える高虎やその家臣たちの姿に迫った。

 石水博物館所蔵の藤堂家覚書は津藩祖・藤堂高虎の最古の伝記資料。寛永18年(1641)2月、江戸幕府3代将軍・徳川家光の命で、諸大名の系譜をまとめた『寛永諸家系図伝』の編纂が開始された。それに当たって、幕府からは諸大名の徳川家への忠節や事績、関係など記載すべき事柄をまとめるよう指示があった。津藩でも同年7月3日を期限に数種の覚書が作成され、藤堂家覚書もその一つに当たる。
 講演会で桐田さんは、最初に藤堂家覚書の特徴を紹介。幕府がまとめた『寛永諸家系図伝』に記載されている高虎伝が家康・秀忠への忠誠のみが強調されているのに対し、藤堂家覚書には豊臣家との関係や家臣らの活躍など多彩なエピソードを収録。生前の高虎と共に戦った武士たちからの聴き取りが元となっているため、公文書に使う漢文ではなく、漢字かな交じりの文体で記されており、戦国時代を知る最後の世代の肉声を記録している。長さ約8mに及ぶ覚書の巻末には藤堂仁右衛門家の藤堂高広ら一門、西嶋八兵衛ら重臣計8名の花押(サイン)が据えられていることからも、当時記された原本であると判断できる。寛永諸家系図伝のために作成された藩祖の伝記資料の中で原本が残る唯一の事例で日本史的にも極めて価値が高く、高虎の死後11年後に編纂された信憑性の高い資料とした。
 内容としては、現在の滋賀県犬上郡甲良町在士に生まれた高虎が父・虎高と共に参戦した元亀元年(1570)の姉川合戦から江戸上野に東照宮を建立する寛永3年(1626)の56年間を記述。構成は①豊臣秀長への奉公②慶長の役③関ヶ原合戦④大坂の陣。それぞれの要旨は以下。
 ①は浅井長政から点々と主人を変えてきた若き高虎が秀長の下で武将として活躍する姿を強調。織田信長に謀反した別所氏が立てこもる三木城の攻城戦で一番槍を挙げたことなど高虎の記録という側面に加え、最古参の家臣である居相孫作の但馬国一揆での活躍も語られるなど家臣団の記憶としての側面がある。
 ②は分量の約4分の1を占めており、徳川家への忠誠を強調すべき寛永諸家系図伝の性質を考えると異例。本来は豊臣家への忠義を示した慶長の役の描写はもっと簡素であるべきだが、朝鮮水軍との戦闘で高虎が負傷する様や家臣の苦闘などが生々しく描かれている。これは聞き取りをした古参の家臣の記憶に、異国での戦いの光景が焼きついていたことに由来しており、高虎の記録と家臣団の記憶という二つの要素を結びつけるために作成された資料といえる。
 ③は最も多くの記述があることから、家中では徳川家に対する最高の奉公と認識されていることが推測できる。高虎と家康の親密な関係が秀長に仕えていた頃に遡ると紹介され、石田三成と家康の対立が明らかになった際、動揺する諸大名に先駆けていち早く家康へ奉公したことなど、他の外様大名との差別化を意図した記述がある。関ヶ原合戦では井伊直政や本田忠勝と共に家康が到着する前に西軍と戦端を開こうとする諸将を制止し、小川祐忠・脇坂安治を調略で寝返らせるなど抜群の戦功を記録。藤堂新七郎(良勝)の一番首、藤堂仁右衛門(高刑)が大谷吉継の母衣衆(親衛隊)の湯浅五助を討ち取ったこと、藤堂玄蕃(良政)の討ち死になど、家臣の功績も記されている。
 ④は編纂時から直近かつ最後の合戦である夏の陣で、津藩は諸大名で最大級の戦死者を出し、論功行賞の最後の機会に関わらず、記述は簡素。幕末に関連資料を基にまとめられた高虎の伝記である高山公実録は全50巻のうち23巻が大坂の陣関連が占めているのとは対照的。同時代に大坂の陣に参加した武士たちの記憶をまとめた文書などが多く作られているため、藤堂家覚書の他にも資料があった可能性がある。
 まとめとして、桐田さんは「藤堂家覚書は高虎最古の伝記だが、ここに書かれているのが本来の姿とは思わない。あくまで死後11年後に一緒に戦った家臣から見た高虎ということを忘れてはならない」とした。一方で「高虎の記録と家臣団の記憶という二つの要素が交錯しており、津藩は高虎の力だけでなく、優秀な家臣の活躍と犠牲の上に成り立っていたという共通認識があった」とし「藤堂家覚書は高虎伝であると同時に藩史」と締めた。
 藤堂家覚書で、草創期より高虎を支えた家臣たちが口々に功績を語る姿は、家格が高い大名のように代々仕える家臣を持たない高虎が非常に近い距離感で家臣と接し、団結してきた証拠ともいえる。高虎と家臣の強い絆を改めて垣間見られるのは非常に興味深い。

再び申請の急増が予想   早めの対応が安心

 津市のマイナンバーカードの人口に対する保有枚数率は70・8%。昨年のマイナポイント効果で申請する人が殺到していた昨年のこの時期と比べると市の窓口は落ち着いているが、政府が今年12月に現行の保険証を廃止し、マイナンバーカードと一体化した「マイナ保険証」へと移行する方針を示している。12月が近づくにつれ、申請する人の急増が予想されるため、津市でも早めの行動を呼びかけている。

 マイナンバーカードは長らく保有する人の数が低迷していたが、国が昨年まで普及策として、新規取得申請、保険証利用登録、公金受取口座登録を行った人を対象にポイント付与を行っていたこともあり、全人口に対する保有枚数率は昨年末で約73%と大幅に増加。
 津市の保有枚数率も70・8%で昨年のピーク時には、相談・申請などサポートをしている本庁舎1階ロビーのマイナコーナーは常に順番待ちが生じ、カードの交付(受取)窓口も平日・休日ともにフル回転で一日300枚ペースで行っていた。現在はその時と比べると、マイナコーナーや交付を受ける窓口は落ち着いている。
 元々、保有枚数が伸び悩んでいた理由は、取得する明確なメリットが薄かったことが挙げられるが、津市でもマイナンバーカードを利用して、コンビニエンスストアで住民票の写しなどを取得でき、サービスを利用する人も日々増加している。   
 その他にも、マイナンバーカードの読み取り可能なスマートフォンを使ったポータルサイトを介したふるさと納税の手続き、国税電子申告・納税システムe─Tax、キャッシュレス決済の本人確認など、日常生活の中でも少しずつ使う場面が増えている。
 そんな中で、政府が今年12月に現行の健康保険証を廃止し、マイナンバーカードと一体化する「マイナ保険証」へ移行する方針を示していることもあり、申請が徐々に増え始めている状況だ。ただし、健康保険証との紐付けトラブルなど個人情報の取り扱いへの不安から、取得をためらう人がいるのも事実。政府も昨年末に個人情報とマイナンバーの紐づけの正確性を確認し、マイナポータルで閲覧できる29項目の総点検を行うなど信頼回復に注力している。
 津市でも、現状人口約27万人のうちの約8万人がマイナンバーカードを保有していない状態であり、12月が近づくにつれて取得する人の増加が予想されている。
 マイナンバーカードの申請はスマートフォンの操作がある程度できれば、それほど難しくはないが、苦手であればマイナコーナーで申請の支援をしてもらえる。また、イオンタウン津城山で2月16日~29日10時~17時、出張申請サポートを実施(顔写真撮影無料、予約不要、申請の所要時間約10分)。QRコード付き申請書があるとよりスムーズに申請ができる。先月はイオン津ショッピングセンターで実施したところ、買い物ついでに申請できるだけでなく政府の総点検実施後という安心感も手伝い、盛況だった。
 申請を行った後は、一カ月ほどで交付通知の葉書が市から届くため、受け取る場所を予約した後に交付を受ける。健康保険証の利用登録はカードの交付を受けた後に行えるが、インターネットを介した設定などが必要なため、苦手な人は、カードの交付を受ける際に、窓口で支援を受けた方が良いだろう。また、申請する人が5人以上揃う津市内の企業の事業者や、自治体など市内で活動する団体を対象とした出張申請も実施している。 
 前述の通り昨年はポイント付与の締切近くで申請と交付が殺到したことを踏まえると、今年も12月が迫れば同様の状況になる可能性は高い。津市では落ち着いている今のうちに申請することを勧めている。健康保険証の廃止は国が最長1年の猶予期間などを設けるとしているとはいえ、早めの対応が確実だろう。
 マイナンバーカードについての問い合わせや交付手続きの予約などは市民課マイナンバー担当☎059・229・3198、または国のコールセンター 0120・95・0178へ。

  バスタや東西自由通路 時代に即した形を模索

前葉泰幸津市長

前葉泰幸津市長新春インタビュー。三重県の玄関口である津駅前の新たな動きを踏まえた将来展望、復元や都市公園としての整備等様々な観点から将来像を描くための議論を始めた津城跡の整備についてを聞いた。全2回の第2回。(聞き手・本紙報道部長・麻生純矢)

 ─津駅周辺でも、東西自由通路やバスタの建設に向けた議論が進むなどインフラ面でも発展していく兆しがありますが、今後の展望について教えてください。
 市長 津駅は昭和48年にステーションビルのチャムができ、西口のロータリーも今の姿になり50年が経っています。新しい姿に変えていくために東口は更に賑やかに出来ればという意見が出ています。一方、西口は更に使いやすくして欲しいという声が多い。お店を増やすよりは通学時間帯に人が溢れる歩道を何とかできないかとか、送迎の車からの乗り降りがしづらいといったニーズがあったところにバスタの話が来ました。バスターミナルは調査によって必要性が見えてきました。
 東口では路線バスはロータリーで何とかしているが、観光バスや長距離バス、津ボートなどの臨時運行のバスなどが出る場所がありません。送迎者もタクシー乗り場の手前で非常に窮屈な状態で渋滞する可能性がある。車椅子の人が乗り降りするような思いやりスペースがない。こういった事情を踏まえると、必要性があり、実際にどういうものを作るのかを考える事業調査に入ると思っています。
 市として、どこから手掛けるかというと西口。東口のバスターミナルは調査が進んでいき最終的に国の事業となる。もうすでに道路管理者である津市、地元自治会、交通事業者であるバスとタクシー、荷下ろしをするトラック事業者、地元のビルのオーナーなど関係する方々が入ったエリアマネージメント会議が始まっています。何を話し合ってるのかと言うと、どういう形が欲しいかというニーズをぶつけあう場。これである程度姿が見えてくる。ただ一つだけ問題がある。それが東西自由通路。バスターミナルが駅の南側にできれば通路は今の地下道の上の歩道橋の場所辺りをエリアとして、ある程度太くすれば、お店や座る場所など賑わいの場所にもできます。エキナカまではいかなくても、自由通路ビジネスが展開できるようなものが作れる。一方、駅の北にバスターミナルが出来た場合は、自由通路も駅の北側になるかもしれない。そうすると西口から遠くなる。西口は自由通路の着地点がどのようになるのかと関係があるので、最後の姿まで一気に作り上げて行くのは難しい。しかし、その手前までは早目にやりたいので来年度、会議をやりながら、それを受け止めて絵にする調査をしていく。その次に設計し、更に3年後には工事に入るイメージをしています。
 もう一つの課題は駅の空間活用で、ポイントとなるのは東口。歩行者と車を分離すれば、上が歩行者によって賑わい、下がバスやタクシーや送迎の車という形があり得ると思います。

津城跡の未来を描く どのような姿を目指すか

 ─津城跡が続日本100名城に選ばれて以来、観光客が増えました。市民団体の募金活動やふるさと納税の浸透で、津城跡整備(復元)のために積み立てられた浄財は7000万円を超えています。津市も市民から多様な意見を募るためにシンポジウムを開きましたが、整備へのお考えをお聞かせください。
 市長 シンポジウムでも津城の変遷などが語られましたが、昭和42年にお城公園を作る事となり、昭和40年代に都市公園という大きな決断をしている。日本庭園にしても噴水にしても、旧社会福祉センターも史実と関係ない。それが50年経った今、史実に基づく城の櫓の復元に向けた市民運動が起っているなど、お城に対する価値観が大きく変わってきた。お城の歴史をどう守って行くのかを50年後に向かって引き継ぐ転換点に来ている。しかし、昭和40年代の都市公園を全否定するのではなく、維持しながら歴史的なものに手を加えることは出来ると思っています。
 史実に基づいた復元がなされようとしているのは北の堀沿いの部分。天守台の石垣などを傷めずに高山神社を守りながら、旧社会福祉センターも取り壊わさなければならない。石垣を傷めつつある樹木をどうするのかというのは、広い城跡の一角の話ですが、多くの意見が出ています。
 松などが石垣を傷めているのは事実。樹木医の診断で29本が石垣に影響があると認定されました。それを令和2年度から伐木しており、今年度に終わります。石垣を内側から押していた根は枯れて徐々に無くなり、元の状態に戻って行くというのが専門家の見解。それをやれば一番厳しい石垣は守れます。次は復元したいエリアに残る松や北側以外の石垣や天守台にも木があるので議論が必要。旧社会福祉センターの撤去については、来年度は解体設計、再来年には工事ができます。天守台を見える形で保存していくことになります。
 津広報に津城の歴史の連載をしていますが、なぜ始めたかというと、城のことを知って頂くことが大事だと感じたからです。皆さんに少しでも関心を持って頂き、復元することになれば、ふるさと納税で集まっているお金がベースとなります。ただ行政が一緒にお城を復元するとなると税金を使うので相当多くの賛成がないと難しい。津城をどう未来へ繋いでいくのか、その姿を考える市民的な議論の盛り上がりが必要。シンポジウムや教育でもっとお城に触れる機会が必要です。
─ありがとうございました。

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