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鈴鹿峠の様子
鈴鹿山の鏡岩

 「ここが鈴鹿峠か」。鈴鹿御前とも同一視される女盗賊の立烏帽子、坂上田村麻呂に退治された鬼神・大嶽丸など数々の伝説や伝承でも彩られた地。標高357mで鈴鹿山脈で最も低い峠であることから、古くから交通の要衝とされ、都のあった畿内と東国の境目となっていた。ここを境に、三重県の大部分を占める伊勢国と、現滋賀県に当たる近江国に分かれる。無数の木々に包まれた峠道は閑寂だがしばし瞳を閉じて、やんごとなき人から貧しき人まで数えきれない人が行き来をしていた往時の光景を思い浮かべる。きっと誰もが知る歴史上の有名人が何人もこの場所を通っている。道は人々の思いによって踏み固められており、無数の人生が束ねられた歴史が描いた軌跡そのものでもある。自動車で国道を走って、滋賀県に入った経験は何度もあるが、自らの足で来ると感動もひとしおである。片山神社から峠は想像以上に近かったのも嬉しい誤算だった。
 このまま、滋賀方面に進むのは勿体ないので、峠からほど近い三重県指定の天然記念物の「鈴鹿山の鏡岩」に立ち寄る。明治時代に片山神社に合祀された田村神社の跡地を示す石碑などを越えて進むと、ほど無く巨岩が姿を現す。岩肌の一部が光沢を帯びており、これが名前の由来で、山賊がこの岩を磨き、姿が映った旅人を襲ったという伝説も残る。その正体は、断層が生じる際の強力な摩擦力により研磨され、鏡のような光沢を帯びる鏡肌(スリッケンサイド)である。現在は、全体的にくすんでいて鏡というイメージからは少し遠い印象を受けるものの、活発に人々が峠を行き来していた時代には、難所にそびえ立つ神秘的な姿が畏敬の対象であったことは想像に難くない。
 再び峠道まで戻り、少し歩くと三重と滋賀の県境は目前。人は、どんな境を超える時にも高揚感がこみあげてくるものである。それが市境、県境と大きな区切りとなればなるほど、気持ちが昂る、まして、ここは昔の国境でもある。未知への扉を開けるような気持ちで道を進んでいく。(本紙報道部長・麻生純矢)

 

大きな節目を祝す卒業生たち

10月21日、津市羽所町のホテルグリーンパーク津で学校法人・高田学苑の高田中学校・高校(6年制)の創立60周年記念同窓会が開かれた。
 同校は、真宗高田派による学校で、仏教を基とした教育で豊かな人間性を育みつつ、政財界など様々な分野で活躍する優秀な人材を多数輩出している。
 卒業生ら230名が出席。卒業生の一見勝之三重県知事、竹上真人松阪市長が挨拶を行い、大きな節目を祝福した。
 出席した卒業生たちは、学生時代や近況といった話に花を咲かせながら、世代を超えたつながりを深め、親睦を深めていた。

 

檀家や僧侶と練り歩く覚誉裕文上人(中央)

4日、津市本町の浄土宗の岩田山浄安寺で、第30世覚誉裕文上人の晋山式が挙行された。
 同寺は永禄3年(1560)に創建。慶長13年(1608)年に入府した津藩祖・藤堂高虎公と3世が問答を行うなど、古くから津の人々の信仰を集めてきた。
 2019年に先代の父が逝去し、30世覚誉裕文上人こと片岡裕文さんが住職を引き継いでいたが、コロナ禍によって晋山式を延期していた。晴天に恵まれたこの日は、僧侶や檀家、稚児行列など、合わせて約120人が参列。きらびやかな水冠や袈裟などの法衣をまとった片岡さんらは寺の付近1㎞程を練り歩き、本堂に入って儀式を執り行った。
 無事に4年越しの晋山式を終えた片岡さんは「より一層身を引き締めて、檀家の皆様のために務めていきたい」と長い歴史を持つ寺を受け継ぐ意気込みを語った。

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