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  撃墜されたB─29には11名の搭乗員がいた。尾部機関銃手のシェルタース2等軍曹のみが機外脱出に成功した。シェルタース2等軍曹は榊原陸軍病院で怪我の治療を受けた。その後、津憲兵隊を経て名古屋市の東海軍司令部へ送致された。
 この日は津市久居地区にも空襲警報が鳴り響いていた。久居森町にある七栗村国民学校では朝会の後、生徒を防空壕に避難させていた。すると間もなく、北方よりP─51の編隊が飛来した。たちまち日本軍戦闘機と激しい空中戦となった。庄田地区に沢山の機銃の空薬きょうが降り注いだ。七栗国民学校の校庭には機銃弾が何発も突き刺さり炸裂した。ミチェル大佐が操縦するP─51、第15戦闘機大隊隊長は1機の「零戦」を捕捉した。
 P─51は「零戦」の後方に上昇して照準器の中に前下方の「零戦」を捉え主翼左右それぞれ三門の「ブローニング機銃、12・7ミリ」を連射した。曵光弾が白煙を発しながら「零戦」に吸い込まれていった。燃料タンクに命中したのであろう、「零戦」はたちまち火炎を吐き出した。機体の日の丸が鮮やかに見える。
 「零戦」の操縦士はまずスライド式の風防を開けた。「一刻も早く脱出せねばならぬ」。座席のベルトをはずし、曳索環をかけ、上半身を機外に出した。ものすごい風圧が体を襲う。眼下の田園風景が加速度を増して迫ってくる。「早く脱出せねば」。注意しなければならないのは、機外に飛び出した時、水平、垂直尾翼に落下傘を開かせる開傘索を切られるか、自分の体をぶつけることである。
 開傘索が切られたら、落下傘は自動的には開かない。尾翼に体をぶつければ当たり具合によっては、致命傷になる。10人中2~3名は失敗する。機外緊急脱出の危険性は十分に知っている。機はますます高度を下げる。火炎は激しくなる。頭を下にして、機外に己の身を放った。補助傘が開いた。しかし主傘が十分に開くには高度が低すぎた。白い布きれのようなものを引きながら、すぅーとそのまま、通称「観音山」の西の谷に吸い込まれるように落下していった。
 木々の折れる音がした。この空中戦の一部始終を見ていた七栗村国民学校に駐屯していた海軍兵らが「観音山」に一斉に走った。「急げ、友軍だ」。谷の中の一際大きな楠に落下傘が見える。現場に着くと操縦士は地面に横たわっていた。操縦士を七栗村国民学校の理科室に収容し、地内の医師が急きょ駆けつけた。しかし操縦士はすでに事切れていた。
 「零戦」を操縦していたのは、町田次男・海軍大尉、海軍予備学生13期、長野県長野市出身、早稲田大学卒業。享年23。
 大尉は航空決戦が日ごとに熾烈化する中、不惜身命の思いで馳せ参じ、津市香良州にある三重空の営門をくぐった。ここで飛行技術を学んだ後、兵庫県鳴尾基地の332空の零戦搭乗員として、防空任務に就いていた。
 町田大尉は大正11年8月14日に生をうけた。3人兄弟2人姉妹の次男。昭和18年に兄と弟が相次いで戦死。そして町田大尉の戦死である。父母姉妹の慟哭はいかばかりか。
 P─51戦闘機隊は9時10分から10時5分まで任務飛行をして、10時15分に集合空域に集まり、B─29に先導されて、午後12時55分に硫黄島に戻った。戦闘機の被害なし。
 「零戦」の機体は庄田地内塚にあった軽便の線路際に墜落した。大きな穴が開き、機体はその中に突きさっていた。昭和24年頃、掘り起こそうとしたが、機体は取り出せたものの、エンジンとプロペラは土中深く埋まり取り出せなかった。
 その後、国道165号の建設が始まった。エンジンとプロペラは今でも国道の下に埋まったままになっている。
 東海軍司令部に送致されたシェルタースに2等軍曹は「軍律」により死罰の刑を言いわたされ、同年7月24日頃、同庁舎浦庭で斬首処刑された。岡田資中将は東海軍管区に降下した38名のB─29搭乗員を「軍律」に基づいて、全員処刑したという責任を問われ、BC級戦犯を裁いた横浜の連合軍軍事法廷で「法戦」を展開するも、絞首刑の判決を受け、昭和24年9月17日、スガモ・プリズンの露と消えた。
 戦後、中川機が墜落した白山町大三地区に「平和の礎」が、そして元町の真光寺境内に御院主様により「空華院殿着陸地」の立派な石碑が建立された。今も心ある人の供花が絶えない。
 自らの命を賭して戦い、大空に散った前途有為な若者がいたことが、心ある人に末永く語り継がれることを願って止まない。
 また、あの戦争さえ無かったなら、中川少尉、町田大尉も多くの孫やひ孫に囲まれて、平和で幸せな日々を送っておられたことであろう。このことは、津市で戦死されたB─29の搭乗員にも同じことが言える。平和であることのありがたさを今一度、かみしめたい。
         合掌
   (三重県津市在住)

美しく咲く花を描いた出品作品

美しく咲く花を描いた出品作品

 津市美里町北長野の美里ふるさと資料館で、4月25日までの9時~16時、同町の高宮公民館で油絵などの制作に取り組んでいる『美里アートクラブ』=代表・今瀬永利子さん=の作品展が催されている。月曜休館。
 同クラブは25年程前に発足。現在は、4名の会員が、講師の倉岡雅さんの個性を大切にする指導のもと、洋画を中心に制作活動に励んでいる。
 今回は、この2年間に描いた力作19点を出品。海外の風景や、花などを描いた美しい作品が揃い、訪れる人の目を楽しませている。
 同クラブでは「描いていることが楽しいし、仲間が楽しいです」と話している。

庖丁式で鯉を捌く世古柏世氏

庖丁式で鯉を捌く世古柏世氏

 13日、津市大門の津都ホテル5階で、学校法人大川学園が運営する三重調理専門学校=津市大谷町、大川吉崇校長=の卒業式と「庖丁式」が行われた。
 この日、巣立ちを迎えたのは第53期生に当たる1・2年制コースの計34名。式典では卒業証書に加え、調理師免許、ふぐ取扱者認定証など各種の認定書が授与され、卒業生たちを心から祝福した。
 学力優秀で知事賞を受賞し、大阪シトラン都ホテルに就職が決まっている北村卓也さん(20)は「受賞は嬉しい。長いようで短い、楽しい学校生活でした」と喜びもひとしおの様子。
 式終了後には、在学中に調理実習などで使った食材への感謝を込めて、古式に則った日本料理の技法を今に伝える庖丁式の奉納が執り行われた。
 日本王朝時代の宮中行事で、厳粛な儀式である庖丁式の披露は毎年恒例だが、今年は古来より1300年間、一度も途絶えることなく奥義を受け継いでいる四條流の16代家元・入口柏修氏の直弟子で、四條流庖丁儀式保存会三重県支部門人で同校の和食の先生でもある世古柏世氏が執行。
 雅楽が流れる中、祝いの席に相応しい式題「三刀之鯉」という切型を披露。金属の箸と庖丁を使って鯉に全く触れず見事に捌き切っていた。

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