歩きへんろ夫婦旅

海照らす…横浪スカイラインより

 自然は、そこに行けばいつでも見られる絶景もあれば、ほんの一瞬だけ鳥肌が立つほど神々しい貌を見せてくれることもある。
  18日目、今日の行程は中土佐町の大谷旅館まで29キロ。7時出立。女将に横浪スカイラインまで車で送ってもらう。左足の付け根の痛みは消えたものの血マメはやはり痛いし、今朝も寒い。空は薄曇り。波はなく穏やかな海原は全体に暗く沈んでいた。
 歩きはじめて15分ほど。不意に水平線の辺りだけが金色に輝き始める。次の瞬間、岬の岩礁の周りをはじめ海面のあちこちがそこだけスポットライトを浴びたかのように銀色に輝く。雲の切れ目からレンブラント光線のように光が射し込んでいるに違いないが、条光は見えずまるで海そのものがその深い水底から光を放っているかのようだ。
  それぞれの銀色の水面は見る間に広がったり縮んだり、音もなく移動したり、あるいは輝きを失って消滅したかと思うとまた近くに忽然とあらわれ光を放つ。その間、金色の水平線は微動もせず幾つもの銀色の水面だけが揺れ踊っている。
 慌ててカメラを取り出しシャッターを切る間にも、刻々と変わってゆく光の交響楽……。共に手をたずさえ国づくりに励んできた少名毘古那の突然の死を嘆き途方に暮れる大己貴(後の大国主)の前にあらわれた『海照らし依り来る神』とはこのような神ではなかったか──出雲神話が脳裏をよぎった。しばし陶然とその場に立ちつくす。「すごいなぁ」と言いつつも先をせかす女房の声で、我に返った。
 2時間で内回りルートと合流。更に小一時間、須崎の遍路小屋で休憩していると遠くからお鈴の音が近づいてくる。女房と顔を見合せ、表に出て確認するとやっぱり作務衣姿のミスター53。大きく手を振ると向こうも手を挙げて応える。一緒に休憩。思い切って他の遍路から聞いた情報をぶつけてみた。「鳥取のお寺の方?」「そうです」。女房がチョコレートをお接待するとお礼の納札を頂いた。初心者の白札ではなく金色である。『伯耆国(鳥取)無量寿庵主〇〇〇〇』と名前が書かれていた。
 霊峰大山の中腹に庵があり、毎年11月から翌年4月まで雪に閉ざされるため、その間、四国遍路に来ている。かつて日本一周、西国三十三霊場、熊野奧駈、果てはシルクロードまで歩いた。四国は若いころ27日の猛スピードで回ったことがあるが、今はゆっくり回っている。時速は平地も峠道も同じ4キロ。そして4キロごとに煙草1本の休憩、このペースが一番よい。お寺の通夜堂や集落の辻堂、善根宿に泊まりながらお遍路を続けている。
 ミスター53の勤行は全編声明か御詠歌のように悠揚とした節をつけ朗々と歌い上げる。隣で勤行していても思わず聞き惚れてしまうほどだ。師匠の天台僧から『お経は本来読み上げるものではなく歌うものだ』と教えられた。「この方が聴いてても気持ち良いでしょう」と話す。
 「何日で回る予定?」
  「女房と二人連れなのでゆっくりめの平均25キロペースで49日。50日目に高野山にお礼参りに行って家に戻る予定」と答えると「それは素晴らしい。人間は死後49日でこの世に別れを告げ、50日目に浄土に渡る。50日目に高野山に行って清い体でこの世に蘇る……いいプランだ」と喜ぶ。意図したわけではないが、これもまたお大師さんのお計らいかと嬉しくなった。
 15分ほど休憩して三人で歩く。女房も右足中指に異変が起こり痛み出す。ぼくの血マメは右足は痛みがほとんど消えた反面、左足は一層ひどくなっていたが、ミスター53からいろんなアドバイスを受けたり、道の駅の名物に一緒に舌鼓を打ったり、何かとしゃべることで気がまぎれ助かった。
  今夜泊まるというお堂の近くまで来て別れ際に、その足では焼坂峠遍路道より国道56号を歩いたらとアドバイスを頂き、これが大正解。旅館そばで会った男性遍路が遍路道は途中工事で通行止め、2キロも迂回。更に地元の人に教えてもらった近道がこれまた通行止め。エライ目にあったとぼやいた。  (西田久光)

全39世帯の漁村・池ノ浦

 青龍寺の境内には10人ほどの先客。その中にミスター53の姿もあった。
 次の37番岩本寺へは約60キロ。須崎市街に向かうには10数キロも深く切れ込んだ浦ノ内湾を間に内陸側のルートと、半島をそのまま進む外海側の横浪スカイラインの陸路2つ。へんろみち保存協力会の地図帳には記載がないが、宇佐大橋の下の港から湾奧まで海路10キロを結ぶ渡し船もある。 お大師さんも道のない難所は船を使われたからと、歩き遍路も渡し船の利用はOKだ。のんびりと10キロもの船旅は魅力的。ミスター53から勧められたが、既に池ノ浦に宿を取ってある。
 「スカイラインは海抜150mぐらいの所を通りアップダウンがあって大変だよ。宿はびっくりするほど下。明日の朝は車で上まで送って貰った方が良い。景色は抜群だけどね」
 湾の最奧部で内回りルートと合流するまで横浪スカイラインルートは16キロ。途中、池ノ浦への分岐点まで8キロ強。距離的にはしれているが稜線近くを固いアスファルト道が緩やかに上下しながら大きくのたうつ。暫く収まっていた腿の付け根まで痛みだし、左足を半ば引きずりながら休み休みの歩行。 眼下に展がる岩礁と山の緑と紺碧の海が織りなす海景がなかったら心が折れてしまいそうだった。やっと分岐点に着くが、とどめの一発。集落までグネグネの急坂が2キロもある。一歩下りる度に激痛が走り、泣けてきた。
 5時前、青息吐息で旭旅館に到着。両足の小指のマメは血マメに変わり、そのうえ左足の小指は爪がグラグラ浮き上がり、触ると飛び上がるほど痛い。「大丈夫…」女房も心配する。風呂上がりに傷バンで爪を固定、どうにか歩けそうだ。
 一安心したところで女房が冷たい飲み物を買いに外へ。やがて戻って来るなり「お父さん、お父さん、子供らが何人も路地で遊んどる!」。とんと見なくなった光景に興奮気味だ。
 食卓には肌が金色という初体験の魚・ヌベの刺身、オコゼの煮付け、トビツキ蟹とニシ風の貝の湯がき、オプションの大振りの伊勢海老の刺身……地物色豊かな料理が並び、嬉しくて疲れが一気に吹っ飛ぶ。
  小太り丸顔で愛嬌のある女将は女房と同い年。今日の食材、台風、先日のチリ津波から、女房が目撃した子供たちへと話が弾む。
  池ノ浦は伊勢海老漁を中心に素潜り漁もやる全39世帯の小さな集落。この頃はアワビ、サザエが少なくなったとこぼすが、口ぶりに深刻さはない。単価の高い魚介が池ノ浦漁師の漁の対象、それがしっかり地域経済を支えているようだ。
  長男は名古屋にいる。家の跡継ぎは二男。漁師と、釣り客・歩き遍路が相手の民宿を兼業する(池ノ浦にはもう一軒民宿がある)。女将は同じ須崎市内だが山間地の出身。息子さんの嫁は公共交通機関の発達した都市部の出身で、マイカー不要、免許いらずの生活をしてきたため只今自動車学校に通い中。嫁不足とは縁のない地区らしい。
  全39世帯どの家にも子供がいる。更に年内に3人も生まれる予定。スクールバスで通う小学校の全校生徒の6割は池ノ浦の子供たちで占めているのだとか。
 地方はどこも少子高齢化に悩まされている。郡部だけでなく、地方都市も郊外型大型店によって中心市街地の商店街はシャッター通りとなり、街は見事に破壊され続けている。資本の論理で動く郊外型大型店は採算が合わなくなればサッサと逃げ出す。つきるところ街に何の責任も想いも持ってはいない。生物の多様性を失えば地球環境が危うくなるように、小商いが衰退すれば街は活力を失う。
 池ノ浦の元気は、豊穣の海に支えられた産業があるからに他ならない。お遍路の中で限界集落を数多く見てきた。どんなに空気や水がきれいでも、暮らしが成り立つだけの経済力がなければ、人は世代を継いでそこに住み続けることはできない──池ノ浦で自明の理を再認識させられた。
 明朝はスカイラインの分岐点まで車で送ってくれるという。女将の笑顔、子供たちが路地で元気に遊ぶ池ノ浦の光景が、いつまでも続くことを祈らずにはおれない。   (西田久光)

36番札所・青龍寺の本堂

   17日目、今日は36番青龍寺(土佐市宇佐町)を経て横浪スカイラインの途中、須崎市福良池ノ浦の旭旅館までの20・2キロ。相変わらず足は痛い。距離的にはゆとりがあるので7時50分と遅発ち。晴天だが風は冷たい。気温わずか3度、前日の朝とは10度も違い真冬に逆戻りだ。厚手の長袖下着は家に送り返している。薄手の長袖に半袖を重ね着して凌ぐしかない。
  ビジネスから県道を4キロ、大師の泉公園から地道の遍路道に入り標高190mの塚地峠へ。道は良く整備され歩きやすく快調に登ったものの、下りはやはり足の指に堪えた。
 宇佐大橋を渡り、11時15分、竜の浜パーキングに着く。南国らしい棕櫚並木、山を彩る満開の桜、透き通った海。足が痛いのでちょっと早いが途中のスーパーで調達した弁当を広げる。故郷の紀伊長島にも似た美しい海景に包まれ幸せな気分。何の変哲もない幕の内がうまい。玉に疵は寒風のせいで一向に気温が上がらないことだ。1時間、中年男性遍路二人連れと入れ替わりに竜の浜を後にした。

(さらに…)

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