歩きへんろ夫婦旅

観音寺市一ノ谷池の池の宮に参拝

 43日目、朝から本降り。今日は68番神恵院・69番観音寺(ともに観音寺市八幡町)70番本山寺(三豊市豊中町)71番弥谷寺(三豊市三野町)の4札所にお参りし、弥谷寺下の天然いやだに温泉ふれあいパークみの泊だが、観音寺市一ノ谷池の畔にある池の宮に寄り道し、26・5キロの行程。
 元和7年(1621)讃岐一国を領有した高松藩生駒家3代正俊が急逝。11歳高俊が継いだが幼少のため幕命で外祖父の津藩祖藤堂高虎に藩政が任された。名代として派遣されたのが側近の西島八兵衛之友。西島は築城術を農業土木に転用し、お大師さんゆかりの満濃池の復興をはじめ95カ所にものぼる溜池の新造・改修、新田開発、河川改修など農業基盤の整備に心血を注いだ。暴れ川・香東川の付替でできた河床跡に築庭
して栗林公園の原型を造ったのも彼である。
 ぼくは平成14年、西島が新造し維持管理に専従『池守』を置いた大池の一つ、一ノ谷池の畔に農民たちが池の守り神として恩人西島を祀った池の宮が現存することを突き止め現地取材を行った。せっかく近くまで来たのに八兵衛さんにお参りしないのは失礼である。
 雨の中、8年ぶりに一ノ谷池を訪れ、驚いた。雑木雑草に囲まれ、池の宮も鬱蒼とした森の中に埋もれていたのが様相が一変。親水公園としてきれいに整備され、池の周囲には遊歩道、東屋、トイレがあり、鎮守の森の木々もさっぱりと整理され真新しい石造りの祠が建てられていた。公園の説明板に一ノ谷池と池の宮の由来、彼の事跡が記されてなかったのが極めて残念だったが、市民の憩いの場として新しい役割も担った一ノ谷池の姿を、八兵衛さんならきっと喜んでいるに違いない。雨に打たれながら手を合わせた。
 10時14分、神恵院・観音寺着。同じ境内に2カ寺が並んで建っており、納経所は一つ。一気に2つも進むからありがたいと言えばありがたいが、何だか不思議な気分。ここで前夜同宿した歩き遍路2回目の小柄なおじさんと再会。この人、自転車学生の転倒事故があった3月20日、黒潮町伊田の辻堂でミスター53と同宿したとか。88番手前の前山おへんろ交流サロンで完歩証明書とバッヂがもらえる(予算なくバッヂは中止と後に別の人から情報)、余りに急坂で前回は断念した73番出釈迦寺の奥の院・捨身ケ嶽禅定は近くのうどん屋で食事すればリュックを預かってくれるから身軽で登れる。今回は登る予定、等々の情報を頂いた。
  土手道から遠く五重塔が見えていた70番本山寺に12時過ぎ着。仁王門は重文、本堂は国宝。五重塔もちょっと華奢な姿がすらっと天に伸びて美しい。
 1時、国道11号沿いのショッピングセンターでハンバーガーとエスプレッソコーヒーで昼食。残りはもう10キロ。普通なら時間的には十分だが、雨は相変わらずの本降り。昨夜も寝床に入ると右太股の芯が疼き、不安は消えない。それに弥谷寺には540段の石段が待っている。余裕を見て休憩30分で出発した。
 4時過ぎ、参道口着。向かいがふれあいパークだったが、雨が一層激しくなってきたため寄らずにそのまま寺に直行。アスファルトの坂道は流れ下る雨で川のよう。540段は急な所もあるにはあったが、段差が小さく緩やかな石段もあり心配したほどではない。
 4時31分、本堂にお参りし、少し下って土足禁止の大師堂へ。合羽も脱がなければならない。下着は汗でズクズク。さすがのゴアテックスの靴も朝から降られっぱなしで浸透したのか、靴下もびしょ濡れ。取り敢えず靴下だけ履き替え、祭壇の前に正座して勤行。納経を終えたら締め切り10分前の4時50分。冷や汗ものだった。急いで祭壇の横の廊下を回り込んだ所にある弘法大師御学問の霊跡『獅子の岩屋』を見学。岩をくり抜いた石室の奧に3体の石仏が安置されていた。
 ふれあいパークは三セクの道の駅+温泉。大浴場には風呂の種類が多く、一人用ジャグジーはご機嫌。7875円の値段からすれば料理も上等。温泉効果に期待したのだが、やっぱり太股は疼き、またもお大師さんに祈った。(西田久光)

雲辺寺の等身大五百羅漢

  一野屋旅館。床についてから右太股に異変が起こった。筋肉というよりも、その奧の大腿骨がズキッ、ズキッと疼く感じ。痛くて眠れないというほどではないが、明朝、布団から起き上がれるのか不安になる。打ち始めてから各札所でお大師さんや御本尊に自分のことを一度もお願いしたことはない(女房も同じだと言う)が、寝床の中で初めてお大師さんに祈った。「どうか最後まで足を持たせて下さい」と。
 42日目、5時起床。違和感は残るものの疼きは消えていた。天気予報は曇り一時晴れ午後には雨。午前中に66番雲辺寺を終え下山するのが得策。6時20分、宿からタクシーで七田橋に向かい同33分、歩き始める。
  雲辺寺は讃岐国・涅槃の道場に分類されているが、所在地は実は阿波・徳島県三好市池田町。阿波・讃岐を分ける山並みの頂きにある。標高は88カ所中最高の910m、七田橋との標高差は680mある。歩き遍路のルートは3つ。遍路に人気の民宿岡田が途中にある佐野道8・6キロ、曼陀峠越え10・1キロ、境目峠越え10・8キロ。曼陀越えと境目越えは尾根づたいに雲辺寺に向かう車道の阿讃縦走コース手前、5キロ弱の地点で合流。更に3・5キロ先で縦走コースに佐野道も合流する。ぼくらは距離は一番長いが、そのぶん勾配がゆるそうで、いかにも国境を越えそうな名前も気に入って、境目峠越えルートと旅に出る前から決めていた。足に不安を抱えてしまった現状では結果的に最善の選択と言えた。
 バス停から5分も歩くと細い遍路道に入り、距離200mほどで一気に100mほど上の車道まで登る。いっぺんに汗びっしょりになったが、そこからは緩やか。両側に石垣が積まれた県境の道には愛媛県と徳島県の標識。感覚的には伊予を終え讃岐に足を踏み入れた気がするが、阿波との境目だった。県境を挟み両側に民家が少しずつ。
 じき車道に別れ林道に入る。手入れの行き届いた杉桧林の間を広い地道が緩やかに登りながら続き、歩いていて実に気持ちが良い。4キロで曼陀ルートと合流(標高520m)。更に阿讃縦走コースへ。ここは結構勾配のあるアスファルト道。雲辺寺にはロープウェイがあるため車はたまに通る程度。やがて視界が開け道の右手に徳島県の集落、左手に香川県の集落が見えた。佐野道との合流点は標高665m。これを過ぎると勾配が一層きつくなり2キロ半で245m登り、雲辺寺に9時58分着。
  境内はロープウェイで上がってきた車遍路や観光客達で大賑わい。ここで10日ぶりにロストおじさんと再会。お参り・納経を済ませたところだった。「80番に入ったらと聞いていたけど讃岐に入ったら危ない、絶対荷物から目を離すなと言われた」と言い、ぼくらのお参りの間リュック番をしてくれることになった。
 この後、軒下で一緒に早い昼食をとる。彼は今日は一気に69番まで行き土地勘のある高松で2、3日ゆっくりする予定とか。ぼくらは67番大興寺(香川県三豊市山本町)で打ち止め、近くの民宿おおひら泊まり。残り10キロの行程。69番までは更に9キロある。11時前、「結願まで残り1週間ほど、お互い頑張りましょう」とエールを交換、片手を大きく振ってロストおじさんは先に出発した。
 結局これが彼との最後の別れになった。4日目の名西旅館に同宿して以来、何度も何度も顔を合わせて、一緒に歩き、酒も酌み交わしたし、足摺岬の宿では女房の大騒動にも付き合って下さった。無名の一遍路同士として素晴らしい一期一会の出会いを頂いた。ありがとう、ロストおじさん。
 11時33分、天気予報通り雲が出てきたのでぼくらも下山。境内の端に等身大の五百羅漢群像。一体一体、表情も所作も異なり坐像、立像入り乱れて圧巻。ちょっと不気味なぐらい。
  下りの遍路道は段差の大きい丸太段が延々と続き膝に堪える。5キロで平地に下りたが、足のギヤ切り換えが上手くいかず、やけに重い。2時過ぎ、ついに雨が降り出し慌てて道端で合羽に着替え。3時前、大興寺着。ミスター53とまたまた再会した。(西田久光)

三角寺山門下の石段

 おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら
はらばりたや うん
 打ち始めの頃、巡拝勤行の中で一番手こずったのがこの『光明真言』。舌がもつれてしどろもどろ。唱えているうちに訳がわからなくなってしまうのだ。「また無茶苦茶言うとる」と女房から何度も指摘される始末。ところがこの漢訳サンスクリット語(真言)馴れるにつれて清音と濁音が綴れ織りのようになった音の連なり、リズムが何とも気持ち良く、唱えるほどに上質の音楽に思えてくるから不思議である。
 直訳すると『おん(オーム。聖音)釈迦如来よ、大日如来よ、阿如来よ、宝生如来よ、阿弥陀如来よ、 光を放て うん(フーム。聖音)』となるらしい。
 難しい高尚な宗教的解釈は横に置き、世俗の一凡夫であるぼくは単純に『担う役割、特色の異なる五つの
如来が、互いに響き合い共鳴しあって大宇宙に慈悲の光を放ち満たさんとする願文』と勝手解釈で、益々この真言が好きになった。
 41日目、曇りのち晴れ、予想最高気温22度。今日は松屋旅館から17キロ弱先の標高500m・65番三角寺(四国中央市金田町)を経て別格霊場椿堂(同市川滝町下山)に下り、更に翌日の標高910m・66番雲辺寺に備え行ける所まで行ってタクシーで街中の一野屋旅館まで引き返す計画(当初は椿堂の宿坊泊の予定だったが、現在はやってないとのことで急遽変更)。
 6時26分発。30分としないうちにママチャリのおばちゃんから伊予柑2個のお接待。更に伊予寒川のファ
ミマで女房のトイレ休憩兼昼食調達の間、表で煙草を吸っていたら軽トラのおばちゃんからお賽銭の足しに
と300円の現金お接待。以前、お遍路さんから色付きの納札をもらった。その後、車大破の交通事故を起
こしたが、奇跡的に怪我なし。お大師さんの御利益と感謝していると話す。ぼくの納札は初心者の白札だが
当然もらって頂いた。
 戸川公園から本格的な登り遍路道に入り、伊予三島の市街地を眼下遠く望みながら進む。11時35分、三角
寺の石段下に到着。山門は鐘楼を兼ね、合掌してゴーンと一突き。境内に入る。
 そこに光明真言の世界があった。不思議なことに女房も全く同じことを感じたようで「ほんとや、光明真
言や」と呟く。
  空の青、白い雲、鬱蒼としげる木々の緑にすっぽり囲まれた境内には、利休鼠の落ち着いた銅板葺きの本堂、大師堂。燻銀の光を放つ薬師堂、庫裏の甍。本堂の手前両脇からはお堂を隠すように大きく枝を延ばし
た桜の老木。満開の盛りを過ぎた花びらがひとひらふたひらと風に舞う。それら一切をやわらかく包む陽光
……眼前の森羅万象が光り輝きながら響き合い調和して華やかに、それでいてどこまでも静謐な温もりのあ
る光の曼荼羅。
 勤行をあげ納経してから境内の東屋で昼食をとる。時折、野鳥のさえずりや梵鐘が鳴り響き、一人ふたりお遍路や一般の方がお参りに訪れるが、光明真言の世界に乱れはない。むしろ闖入するそうした諸々も包み込んで一層穏やかな笑みを浮かべている。
 お遍路を終え50日ぶりに帰宅して写真をパソコンの画面に再生。そこにあったのは極々ありふれた何の変哲もないお寺の境内。あの時ぼくら夫婦が体感した世界は、雨の日も風の日もひたすら歩き続け、お参りし
続けた果てに授かった奇跡の一刻だったのか?何万枚の写真、何千時間のビデオでもあの感覚は再現できないだろう。ぼくらの記憶の中に極上の残り香として確かにあるのだが……。
 1時間半後、再び山門をくぐる。石段を喘ぎながら登ってくる一組の老夫婦。「もう一息。この先に光明
真言の世界がありますよ」と声をかける。するとご主人がパッと顔を輝かせ、振り向き奧さんに言う。「光
明真言の世界やって!」
 ぼくと彼のイメージが同じものかどうかは判らないのだが、何だか気持ちが通じ合ったような気がした。
 3時、椿堂着。朱印墨書の納経代はお寺の大財源なのだが、歩き遍路の納経はお接待でびっくり。「じゃ
その分改めてお賽銭を上げさせて頂きます」「いえいえ結構です」と断られた。
 4時25分、区切りの良い七田橋バス停からタクシーを呼んだ。行程は27キロだった。      (西田久光)

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