特別寄稿

 甲子園出場だ、駅伝日本一だと騒がれた、いわゆる体育系高校の顧問や監督が、今や体罰だ、暴力だと槍玉に上がり、いじめ問題では文科省から教育委員会、学校はもちろん、未成年の生徒まで一人前にTV出演させ、意見を言わせるなど、どこかちょっと違ってやしませんか、と言いたくなるご時世である。
 体罰なんて昔からあったし、これからも無くなることはないだろう。TVの2時間ドラマには必ずといっていいほど、親に逆らう息子や娘にビンタを喰らわす親が登場するし、子育て中にお尻を一度も叩かなかった親がどれだけいるだろうか。私なんか幼い時、お箸の持ち方が悪いと、何度母に手の甲を叩かれたことか、お陰でなんとか人並みにお箸が持てるようになった。
 子だくさんだった時代には、殴り合いの兄弟喧嘩は日常茶飯事で、ある程度やらせておいて適当なところで「ええ加減にしなさい」と親が叱って(頭やお尻をひとつもぶって)やめさせたものである。
 これらは間違いなく〝しつけ〟である。しかし、これが程度を超えると〝暴力〟になる。親子間でも夫婦間でも、この〝程度〟が問題であって、〝程度を考える教育〟を学校でも家庭でも忘れられてきたことが、〝ええ加減なところ(グッドタイミング)〟を判断する能力に欠ける顧問や監督またいじめの生徒を生む要因になっているのである。 
 体育系クラブ活動の体罰が多くの学校であったことは事実で、現にどこの県や市でも芋づるのように次々とその報告がなされつつある。ご同様に三重県でも何件かの体罰問題があり、処分された関係者がいることを教育委員会も認めている。
 いじめに至っては、生徒だけでなく、先生間にも存在する。紀元前から人が何人か集まれば行われてきたし、いつの時代でも、どんな社会でも組織があれば起こっている。要は程度問題でどこにでもあるが、それが表面化するか、事件化しないだけのことである。
 さて、いま問題になっている中学校や高校における体罰やいじめは、果たしてマスコミが取り上げるような学校や教育委員会だけに根があるのであろうか。もっと根本的なところにあることを案外気づいていないのではないだろうか。
 本来、学校教育の目的と目標は、教育基本法および学校教育法に定められており、教育基本法第1条、教育の基本とは、「人格の完成をめざし、平和的な国家および社会の形成者として真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」とし、学校教育法第41条では、「高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする」と規定している。
 すなわち、知識を学び、国家や社会に貢献できる人格を陶冶する教育は、本来授業をベースにした正課であり、クラブ活動は「課外に行う部活動」、すなわち+α(プラスアルファ)で、正課の目的をより向上させるためのものである。
 ところが、いまやその+αが主役にのし上がり、我がもの顔で横行し、そこで好成績を上げることが、さも高等学校教育の目的であるかのように思わせてきたのである。
 時には、全国大会の成果で学校の名を挙げようとさえしてきたのである。そして、そのための強化だと称して外部から顧問や監督を入れてきたのが、今回の体罰を生む遠因となったのである。
 あまりにも木(+α)のみを見て、教育という森(全体)を見てこなかったツケが、ここにきて一気に噴出したというのが現状で、言い換えれば、基本である学校教育の正課が揺らいでいるため、+αが独り歩きして問題を起こしてしまったということである。
 そこで提案する。クラブ活動は+αであることを確認し、本来の学校教育とは何なのかを、学校、家庭(親)、行政(教育委員会)、地域社会が一つの場で真剣に問うところから始めるべきであると。
 例えば、県(教育委員会)主催でPTA、教組、地域(一般)などを交え、学校教育を問う『学校教育シンポジウム』を県下数カ所で開催、広く社会にアピールするとか、地域(市単位)で開くのも大切であろう(教育委員会では、急遽、体育系関係者の講習会とか校長を集めての研修会をやっているようだが、まさに泥縄式の勉強会で、これだけでは根本的な解決方法にはならない)。
 まず、隗よりはじめよで、森である学校教育そのものを問うことから皆で考え、どうすべきかを提案し、実践することこそ、体罰問題やいじめ問題の対処につながるものと確信する。
 (駒田 博之 元・三重県PTA連絡協議会副会長)

 昨年末に「改革派知事の時代 地方から日本は変わったのか」という本を出しました。三重・北川、高知・橋本、宮城・浅野、鳥取・片山といった、個性派の知事たちが連携して活躍をした10年間を取り上げた一冊です。
 三重県が登場する場面として、
 ①1998年4月、改革派知事連携で最初のグループ「地域から変わる日本推進会議」が玉城町で発足。宮川でフォーラムを開催。 ②2001年11月1日、志摩地方を会場に「チャレンジド・ジャパン・フォーラム2001inみえ」が開かれ、障害者の就労支援にIT(情報技術)を活用しようというテーマで、三重、大阪、熊本、千葉、岩手の県知事が集まる。 
 ③2003年1月25日、四日市市での「シンポジウム三重・分権時代の自治体改革?自らの手でどう壁を破るか」で、マニュフェスト選挙の提案をする、といった出来事がありました。 いずれも、私自身、知事連携の担当者として三重県と高知県をつなぐ意識で参加をしているのですが、2001年の「チャレンジド・ジャパン・フォーラム2001inみえ」では、津市で市会議員をしている時にお付き合いのあった久居の谷井亨さんという、車いす生活をしながらIT関係で仕事をしている友人と再会できる機会もあって、特別職知事秘書をしていた高知県庁でも障害者のみなさんの就労機会をどう確保していくかという議論に加わっていました。
 いまは、高知県庁を退職して民間の仕事をしているのですが、障害者のみなさんの就労を高齢者施設で支援するという、改革派知事たちの仕事を引き継ぐような事業を営む企業の顧問として、三重県と高知県をつないでいます。
 四国ライフケア(大上達也社長)という高知市を拠点とする企業では、介護保険が始まった10年以上前から高齢者向けのグループホームや有料老人ホームを運営してきました。地方に住む人々の経済実勢に合わせた、安価で良質なサービスを提供しています。高齢化率が全国平均よりも10年間は早く進んできた高知ならではのノウハウを蓄積してきました。
 高齢者施設を運営するうえで特徴的なことといえば200名以上のパートを含めた職員のうち、2割をこえる40名ほどが身体、知的、精神のいずれかの障害をもった職員だということです。
 それぞれの障害の特性に合わせて、「短い時間での勤務にする」「高齢者の話し相手になる」「洗濯をする」「マッサージをする」といった働き方を、障害者自立支援法の枠の中でやっています。制度のなかで、就労移行支援、就労継続支援A型の事業所として認められています。
 これまで、作業所的な仕事では月額数千円の工賃しか出なかった方が、老人ホームで働くことで安定した収入を確保できるようになって、当事者の本人と共に家族にも喜ばれています。 また、老人ホームとしても、障害をもった職員が加わっていくことで人員配置にゆとりが生まれて、忙しくバタバタと職員が走りまわることが少なくなりました。どちらかというと健常者よりも障害者の職員の方が、高齢者のみなさんとリズムが合う部分があるとも感じています。
 高齢者施設での障害者就労の取り組みは、手探りでスタートして4年が過ぎていますが、おかげさまで大きな事故もなく満足の輪を広げてきました。
 そんな高知県での実践をふまえて、四国ライフケアが三重県の企業をサポートして昨年1月にオープンした介護付有料老人ホーム「虹の夢とば」(鳥羽市鳥羽1丁目)でも、今年中には障害者就労の事業所として認められるように計画をしています。
 安心した老後の暮らしをする介護つき施設が、障害をもったみなさんにとって安定して働く場にもなるということで、障害者就労に力を入れた改革派知事たちの思いを継ぎながら、地方と地方をつないで、この仕組みを少しでも仲間を増やしながら広げていきたいと願っています。
  (元・津市議会議員)

 慶長13(1608)年、伊予今治から津・伊賀に入府した藤堂高虎公が先ず着手したのは、関ヶ原の前哨戦で焼け野原となった津市街の復興と津観音の再建、更に津城と伊賀城を最短距離で結ぶ伊賀街道の整備であった。
 それまでは上野経由で伊勢へ向かう参拝客だけでなく、津方面からの水産物や塩、伊賀方面からの種油や綿などが運ばれる道路は他藩(亀山藩)を通らなければならず、しかも加太峠など難所が多く、伊勢・伊賀両国の経済、生活の大動脈としては不十分であった。伊賀街道は津から橡の木峠と呼ばれた長野峠を越えて上野に到る全長約12里(約50㎞)の街道で八つの宿場が設けられ、現在の国道163号に沿う形で通っている。
 その伊賀街道も、幕末の動乱や維新における廃藩置県など政治空白とも相まって荒れ果て、旅人たちは難渋、特に長野峠にかかる山路には追い剥ぎが多発するありさまであった。これを見かねた伊賀阿波村(旧大山田村)の有志が、長野峠の整備を各関係機関に呼びかけ、明治13(1880)年より隧道(トンネル)工事が始まることになる。これに伴い伊勢側も、安濃郡南河路から片田、五百野から足坂、三郷から平木に到る三つの工区に分けられ、それぞれの工事が始まる。中でも、片田から五百野にいたる山路に新しい坂道をつける工事が難工事で、この区間における事業費の拈出や工事一切の責任者となったのが、当時五百野と足坂二村の村長を務める野田正風であった。
 弘化4(1847)年生れの正風は当時34歳、先ず正風が取りかかったのは、二村合わせて180戸への工事費負担金割りと、関係機関への寄付金依頼、工事計画と物資の調達などであった。
 当時の資料によると、沿道の村々の負担金は数百円から数千円とあり、当時の1円は現在の2万円として換算すれば、小さい村でも400万円から500万円、大きい村ともなれば4000万円から5000万円にもなる。
 さらに、工事は農繁期をはずして村全員の出合いとなり、その日程調整、組み合わせなど、初めての仕事に正風は、夜遅くまでランプの下で予算書や工程書などを書き上げるのであった。
 今までくねくねと縫い登っていた片田から五百野への山道を、なるべく曲がりを少なく、それでいて拡幅した道をつけるのである。夜提灯を持った人を並べて高低を計り、鶴嘴や鋤で土を起こし、畚や臾に入れて天秤棒でかつぎ土堤をつくった。
 山肌を削って、掛け矢で杭を打ち込み、厚板をはめ込んで山崩れを防ぎ、途中、大きな石に突き当たると、それを割るのに何日も費やしたり、溝を掘って土管を埋め、竹を裂いて蛇篭を編み、そこへ川原から拾ってきた小石を詰めて積み重ね、それを段々に積んで坂道を上へ上へと造成していった。
 ところが、秋になって台風が来襲、一夜にして削った崖を崩し、平らにした道の土を押し流し、坂の下に小山をつくってしまう。工事はまた始めからやり直しであった。崖を削り直し、そこへ節を抜いた竹を打ち込んで水抜きとし、流された坂道へは小石と砂利を敷き詰めて踏み固め、小山となっていた流された土を土堤の蛇篭の覆い土として活用、なんとか危機を突破する。
 かくして、2年目の冬を迎えた或る日、今度は地下水が吹き出し、止めようとした全員が水びたしとなって風邪をひく者が続出、しばらく工事を中断するなど、何度も何度も工事延期を繰り返しながら、明治15(1882)年春、さすがの難工事も完成する。
 しかし、正風はさすがにほっとしたのか、冬にひいた風邪をこじらせ寝込んでしまう。心配した村民たちが交互に訪れ、正風の容態を気づかうのであった。その時、三つあった野田家の蔵が一つになっていたという。正風は一言も説明しなかったが、工事費の不足をだまって自分で算段していたのであろう。
 そして、間もなく床上げした正風を村人たちが迎えに来る。何事かと完成した吹き上げの坂に来てみると、登り切った左側に白布のかけられた碑があり、うながされて正風が綱を引くと「道路開鑿記念碑」と掘られた大きな石碑に、「明治15年7月建立 五百野人民一同」とあり、発起人7名の中に野田正風の名も刻まれていた。「ありがとう…」村人たちの手をとってしばし感涙にむせぶ正風であった。
 かくして明治18(1885)年、長野隧道が完成、翌19年、全線開通を祝う式典が三重県知事も出席して長野峠で挙行され、トンネル横に建立された「記念碑」にも野田正風の名が刻まれている。その日、関係する村村では花相撲が催され、夜には花火が打ち上げられ、日の丸をふって提灯行列で祝ったと、時の「伊勢新聞」は報じている。
 野田正風、明治42(1909)年10月9日没。享年63、五百野西方寺に葬られた。(この話は史実をもとにしたフィクションです)
 (新津 太郎)

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