特別寄稿

航空母艦「ハンコック」から発艦するF6F-5ヘルキャット

航空母艦「ハンコック」から発艦するF6F-5ヘルキャット

1945年、昭和20年7月24日、アメリカ海軍第38任務部隊所属の航空母艦「ハンコック」は潮岬の南南西約210㎞沖の太平洋上にあった。
午前5時40分、シュウマン少佐の率いる12機のグラマン、F6F─5ヘルキャット戦闘機が次々に発艦した。この日の主任務は滋賀県八日市飛行場を攻撃することであった。
8機が北西方面から500ポンド通常爆弾を7発及び16発のHVAR空対地ロケット弾で格納庫を破壊炎上させた。
攻撃完了後、編隊は南下。この日は約1000機の米軍戦闘機が早朝から東海地区以西の航空基地、港湾施設、交通機関、船舶、工場などに執拗な攻撃をくわえていた。
▼「赤目口駅」名張市。
満員の2両編成大阪行き普通電車は、空襲警報の発令により、名張駅構内で停車していた。しばらくして警報が解除されたので「赤目口駅」に向かった。午前8時頃、「赤目口駅」のプラットホームに電車が停車。その時、2機

シュウマン少佐

シュウマン少佐

のグラマンF6F─5ヘルキャット戦闘機が赤目町星川地区に急降下し、「赤目口駅」から約400mのところから、先頭車両に対して次々に機銃掃射した。
1機約1・7秒で掃射を終えた。この戦闘機が搭載するブローニング機関銃の発射能力から推測すると、約260発の機銃弾を浴びせたことになる。
一瞬にして、電車の乗客、プラットホームにいた無辜の人々が撃ち倒され「赤目口駅」構内は鮮血、悲鳴と硝煙の臭いで阿鼻叫喚の巷と化した。
50余名が死亡、110余名が負傷するという大惨事となったこの出来事は先の大戦中に名張市で起こった、最悪の惨事である。この日、奈良県宇陀市榛原の「榛原駅」でもこの編隊は機銃掃射を行い、死者11名負傷者27名を出している。
▼「三野瀬駅」北牟婁郡紀北町紀伊長島区三浦
翌7月25日、同じくシュウマン少佐が率いる戦闘機隊4機が「ハンコック」を午前10時15分に発艦。編隊は尾鷲から松阪方面に向かって走る上りの列車を発見した。
駅構内に入ったこの列車と既に駅構内で停車している列車に対して、蒸気機関車および客車に対して機銃掃射した。
「三野瀬駅」構内は「赤口駅」の大惨事同様、一瞬にして阿鼻地獄となった。この日の死傷者の数は未だ定かでない。10数名とも50数名とも言われている。編隊はその後、五ヶ所湾の漁船にも機銃掃射した。午後2時30分、全機帰艦している。
さて、どのようにしてこれら機銃掃射事件がシュウマン少佐が率いる戦闘機隊によるものと特定したのか?疑問に思われる方もおられると思うので説明すると…。
アメリカ国立公文書館、NARA,所蔵の海軍航空母艦所属の戦闘機隊の「作戦任務報告書」の中から事件日に三重県に飛来した戦闘機隊の攻撃記録をくまなく読解してその中から、「赤目」「榛原」「三野瀬」という地名を見つけ、その攻撃報告書のなかに列車や機関車に機銃掃射をしたという記述を見つけて、特定することができた。
また、シュウマン少佐及び空母「ハンコック」所属のグラマンF6F─5へルキャット戦闘機の写真の入手はどのようにしたのか?
これもアメリカ国立公文書館に問い合わせたところ、これらの写真も所蔵していることが判ったので、同館から取り寄せている。
シュウマン少佐は1917年生、1996年、悪性リンパ腫のため死去。享年78歳。アーリントン国立墓地で永遠の眠りにつている。

雲 井  保 夫

 大学を卒業し津へ里帰りしたものの、当時津市にはスイミングもフィットネスクラブも、ましてやジムなどない時代。練習場にも困り後々、全日本実業団パワーで最優秀で優勝することになる藤井伸哉選手(現・フジイ工事管理代表)などと共に現在のジムの前身となる津体育館を拠点とした津トレーニングクラブを立ち上げてから、もう35年以上の年月が流れ、まだ一般の方のシェイプアップや若返りなどを指導しながら現役チャンピオンとして津市で最初に出来たジムを率いています。
 小学生時代の駆けっこから始まり、長くスポーツに携わり私には、どうしても忘れられない光景があります。
 時は中3…地元橋南の陸上部の主将になった私に当時の顧問が「最後くらいは一花咲かせて行け」と言われ選んだのが80mハードル走でした。
 専門書を買い、一流選手の跳び方も研究し、走る度にタイムは上がり数カ月先には50mへハードルを5台置き、7秒0で走れるまでになりました。
 短期間の調整で迎えた県体予選を兼ねた津安芸大会。三重大学のグラウンドで私は予選は軽く流し、トップで決勝の第一コースに着いていました。「位置について用意!」の掛け声で集中していた時、すぐ隣の2コースにいた他校の選手が一歩飛び出ししました。
 私はフライングと再レースを確信し、体力を温存するために、地面に手を着きながらフライングを知らせるピストルが2発なるのを待っていました。
 他の選手達は2コースの選手につられて飛び出して行きました。皆が12m50㎝先にある第一ハードルをまたぎ越そうとしているのをスタート地点から見た時、有り得ない事が起こってしまったことと、数カ月間の猛練習のことや、「ビリか?」という思いが一瞬の内に脳裏に走りました。 
 私は「そんな馬鹿な!」と思いながら渋々後ろから走り出しました。途中、皆との差が詰まって来ているのを感じ、慌てて急加速し一度着地でバランスを失いかけたこともまだ覚えています。
 結果は胸の差ほぼ横一線でしたが猛進及ばず1位が11秒7、2位から私の4位までが11秒8で敗れました。代表も3位まででした。4位では県体までに更にハードリングを磨き県記録を出すのは無論のこと、中学日本新を出す夢も、この屈辱のグラウンドで終わりました。
 レース後、顧問に「お前だけ何をしとったんや?」と言われ、「隣の子が用意で一歩出た。走る訳ないでしょ、明らかなフライングのピストルさえ鳴らなかった。抗議して下さい」と言うと顧問は「勝負事は終わってしまったら終わり、一回切り」と取り合ってはもらえませんでした。
 走らなかった自分の過失で今までの努力を無駄にしてしまったことも重なり、スポーツを始めて、テント裏で初めて涙した日でもありました。
 おまけにその後に行われたリレーでも、まだ動揺していた私は折角トップで走って来ながら同じカラーのランニングを着ていた他校の生徒にバトンを渡そうとしてアンカーと皆に迷惑をかけ、楽勝だったはずのリレーまで敗れてしまいました。
 今も当時のリレーメンバーに会うと「あの時はすまなかった」と言うしかありません。あの日の悪夢はその後も何度も、夢に出てきました。スタートしなければと、2階の窓からダッシュして飛び出しそうになったことも。
 先日オグシオの潮田さんが、やはり中学の時だったか、全国大会で後にコンビを組むことになる小椋さんと試合した際、勝てると思っていたのに力が発揮できずに敗れ、その時のことがショックで、その後の頑張りに繋がったことを聞きました。
 私の場合は、その後ウエイトリフティングやパワーと競技は変わっても40年以上現役でチャンピオンを続けて来れたのは、あの悪夢のような津安芸大会の惨敗が原点でした。
 人は苦しんだ分強くなれるのは本当だと思います。スポーツは長く続けるとスキルやポテンシャルだけでなく、人生の中で味わった大失敗や理不尽なこと、裏切りや幸せにしたかったのに出来なかった心残りが逆に力になり、競技で一瞬の内に力を出せるようになります。
 二度失敗しても三度目には成功できると確信できます。そう、苦しみも悲しみも喜びも全て力になるのです。一流選手はスタミナもパワーも無くなってしまったと感じた所から力を発揮出来たりもします。
 かのブルース・リーが映画「燃えよドラゴン」の中で遺した名ゼリフ、「考えるな、感じろ」は正解だと思います。還暦を過ぎた今も同階級の三重県記録より一枚上手のレベルで、あの林先生の言っていた、常に戦場にいる心構え「常在戦場の精神」を持ち、成績を保持するのではなく前進できているのも、ブルースの言ったように、年を重ねる程、人生まで感じることが出来るからではないでしょうか。
 また、無の境地とは何も考えないことではないとブルースも言っています。人生には苦しみも悲しみも喜びもあったはずです。試技(演技)とは、スキル(技術)や体力を越えた所で、成功のイメージを電光石火の如く放出(爆発)することだとブルースは言いたかったのだと思います。
 若い皆さんは苦しみも悲しみも恐れることなく胸に刻んで突き進んで下さい。光が見えず暗闇の中にいても負けないで下さい。いつかきっと勝つ日が来ることを祈ります。
 私は弟子を陸上やバドミントンやバスケや野球、柔道、レスリングなど300名を超える三重県チャンピオンに、日本一や世界チャンピオンも含めて育てて来ましたが、私自身は名コーチに巡り逢うことは生涯なかったと思っています。それも私が走り続ける理由の一つであり、33年前、津市で初めてのジムを立ち上げた理由です。若者には同じ思いをさせたくなかった。日本一強いグランパとして走り続ける力は内からなんだと、より多くの若者に伝えたかったのです。
 体幹の自然なうねりを上手に使うスーパー小学生だった私ですが、中学の頃には「もっと腕を振れ、もっと太ももを上げろ」と指導され、既に原点の自然な走りを忘れ、力んだ走りで重心も浮きスランプに入っていました。有り余る筋力を使いこなせてなかったのです。それを指摘してくれるコーチもなく気付いたのは陸上を辞めてからでした。
 私の重ねて来た多くの失敗は若者の成功への道標です。だから失敗も恥も恐れないで下さい。明日輝けばいいのですから。

 昭和20年(1945年)6月26日、アメリカ陸軍航空隊、第21爆撃兵団、第314爆撃航空団所属のボーイングB─29スーパーフォトレス爆撃機三15機が太平洋上のグアム島北飛行場を次々に離陸した。岐阜市の川崎航空機岐阜工場及び三重県津市内にある軍需工場群を爆撃せよという命令をうけていた。四機のB─29が津市内の軍需工場を第一攻撃目標として空爆することとなっていた。
 それぞれのB─29はAN―M─64、500ポンド(約250キロ、瞬発弾頭信管、無延期弾底信管)通常爆弾を搭載した。B─29の1機の平均爆弾搭載重量は1万2千ポンドである。これは1機あたり24発の500ポンド爆弾を搭載したことを意味する。
 津市内には、おぼろタオル(軍用タオル)、三菱航空機工場(航空機)、住友プロペラ(プロペラ)、倉敷紡績(軍服、落下傘)、呉羽ゴム(航空機部品)、三重工業(航空兵器)、関西製糸8軍用繊維)などの軍需工場が点在していた。これら工場がこの日の空爆目標となっていた。
 倉敷紡績津工場には学徒動員で、河芸町の豊津村国民学校(現在の豊津小学校)、白塚国民学校(現在の白塚小学校)の尋常高等科の生徒、励精商業学校(現在の津商業高校)の生徒が一般工員と一緒に働いていた。
 豊津村国民学校の高等科の女生徒40名は集団で「豊津上野駅」から電車で工場に通っていた。「江戸橋駅」で下車した。工場までの道の周りは田んぼと桑畑が広がっていました。
 工場に向かう道で「勝利の日まで」「一、丘にはためく あの日の丸を 仰ぎながめる われ等の瞳いつか溢るる 感謝の涙 燃えてくるくる 心の炎 われ等はみんな 力の限り 勝利の日まで 勝利の日まで」…などを歌いながら行進した。
 工場では「米英撃滅」と皆で唱え、拳骨を前に突き出して気合を入れ、それぞれの作業場についた。夏でも白い衣服は戦闘機の機銃掃射の標的になりやすいという理由から茶、紺、黒色等のモンペに黒色の上着を着ていた。上着の左には住所、氏名、年齢、血液型を墨で明記した白色の名札が縫い付けられていた。これは決まりだった。一般市民は老若男女全て名札を縫い付けていた。もちろん防空頭巾も例外なく。
 河芸町の豊津村国民学校初等科の喜代美ちゃんはこの年に同校併設の高等科(現在の中学1年生)に進み、4月から倉敷紡績津工場で働き始めていた。
 津市内には午前7時44分に警戒警報発令、同47分に空襲警報が発令され、津市内には空襲警報のサイレンが鳴り響いていた。
 太平洋戦争が始まって以来、津市には本格的な空襲の日となるのである。津市民は防空壕や待避所に避難した。B─29は9時26分から爆撃を開始した。4機のB─29は目視照準でそれぞれの爆撃目標工場に前後の爆弾扉を全開して、爆弾倉から全弾を一斉に投下しだした。
 現在の津市営球場近くの三重工業、上浜町の三菱航空機、桜橋の住友プロペラ、そして江戸橋の倉敷紡績に対してである。合計4目標地である。津市上空を旋回しながら何度も爆弾を投下することない。投下後は右旋回をして太平洋へと離脱する。倉敷紡績津工場にはおよそ24発の250キロ爆弾が投下された。
 空襲警報が発令されるや否や、喜代美ちゃんらも工場の敷地内に掘られていた防空壕(待避所)に級友と一緒に逃げ込んだ。壕内は避難した人でいっぱいだった。空襲警報が出るたび、いつも避難していた壕である。
 「今日はいつもと様子が違う」と誰もが不安にかられた。それまでほとんどの人が本当の空襲がどんなものなのか、まったく知らなかった。ただ知識として知っていただけだったのである。
 遠くから爆弾の破裂する音がしていた。地響きがして壕もゆれ、柱と板の隙間から土砂が崩れてゆく。B─29の爆音も聞こえてきた。破裂音、地響きがだんだんと近づいてき、不安と恐怖で体が震えていた。
 「お母さん、助けて」と誰かが叫んだ。「この壕にいては危険だ」と感じ、喜代美ちゃんと級友らは壕から飛び出て、一斉に町屋海岸を目指して走った。
     (次号につづく)

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