特別寄稿

 和一は今、絶望の淵にあった。一流の針術師になるため、故郷の津を出て十数年、生来の覚えの悪さ、動作のにぶさで師から再三の放逐を受け、今江戸から当てもなく京へ向かう道中であった。
 杉山和一は慶長15(1610)年6月10日、津藩士杉山権右衛門の長子に生れた。幼少にして伝染病にかかり失明、末を心配した父のはからいで家督を弟に譲り、江戸に出て明人・呉林達の流れをくむ検校山瀬琢一の針術所に入門する。
 しかし、和一は記憶力も弱く、針術の要である指頭の働きも鈍く、枕にさす針がすぐ倒れてしまい、とても一人前になる見込みがないというのが師、琢一の見解で、破門になるのが今度で3回目であった。
 さすが本人も己の鈍さを認め、今さら故郷の津へ帰ることもできず、江戸を離れて辿り着いたのが江の島であった。心身喪失寸前の和一は弁財天の祀られている祠にひざまずく。
 そこで、彼は一念発起、最後の望みをかけて17日の断食を敢行、岩の祠に端座し、「もしも私がこの機会に立ち直り、一人前の針術者になることができれば、それはひとえに弁財天様のお蔭であります。しかし、成功しないのであれば、どうかここで私の命を絶って下さい」と、ひたすら祈念、満願となって心身疲れ果て、まさに死に至らんとしたその時、どこからともなく妙なる調べが聞こえ、ふくいくたる香りが立ちのぼる中、弁財天の声が響いたのである。
 「汝の祈願誠に殊勝、それゆえその願い叶えて進ぜよう。再び東国に下り、管と針を授ける者に低頭して教えを乞うがよい、心してゆけ…」と。
 もうろうとした感覚の中で恍惣とした霊感に打たれ、ハッと気づくと身中に活気がみなぎり頭が冴えわたっていた。何度もなんども弁財天に謝し、和一は勇躍東へ下り、師の琢一に復帰を懇願してようやく許されたのであった。 
 それからの和一はまるで別人のように、勉学と針術について学び、身体をこわすほどの努力を重ね、さらに悟るところがあって、ついに、その針術は奥深く微妙な名人技術の域に達したのである。
 それまで、鉄針や金銀針を小槌で皮膚に打ち込んでいた針術を、和一は銀針よりやや短い細管に針を通し、先端を局所に当てて指先で針を軽く打ち、容易に皮膚内に刺入れてから、管を取り去って針を揉み込む方法を独創したのである。
 これは伝記によると、江の島からの帰り道、石につまづき倒れた時、手に拾った松葉の入った管から管針術の着想を得たと記されている。
 やがて、彼の技量は当時の将軍・家綱の耳にも達し、延宝8(1670)年には拝謁して、針術者最高位の「検校」を名乗ることを許されている。
 貞亨2(1682)年、将軍・綱吉のぶらぶら病(体力、抵抗力が弱くなり、疲れやすく身体がだるい症状)を針治療したところ、その効き目がすこぶる良かったので和一の名声はさらに上がった。
 病気の良くなった綱吉は和一を召して、「何か欲しいものがあったら言うように…」と尋ねたところ、和一は「私はこの世で欲しいものはございません。しかし、できることなら一つ目が得たいです」と、答えたという。
 それを聞いて哀れんだ綱吉は、本所一つ目の土地一千坪を与え、加えて禄五百石を給して関東総検校(失明者の最上官)に任じ、さらに三百石を追加して、その土地に針治療所を開設、目の不自由な生徒を募集させ、その治療所の教授に和一を任命したのである。
 和一の考案した針術は痛みも少ないので患者からも喜ばれ、弟子たちも簡便で学びやすいのでたちまち全国に普及し、ついに針術は目の不自由な人たちの最も普通の職業となってゆく。 あまりの出世と針術の拡大に、和一はこれこそ弁財天のお蔭と、賜宅内に弁財祠を建て、元禄6(1693)年には、江の島下の宮(現・辺の津宮)に弁財天の社殿を再興、また三重塔を建立してその恩に報いている。
 和一の針治療所は大いに発展、門人の三島安一が跡を継ぎ、江戸近郊四ヶ所に講堂を開き、さらに諸国45ヶ所にも増設、針術は全国に広がり、業とするもののほとんどは杉山流から出るようになり、名声はさらに天下に響いたのである。
 元禄7(1694)年5月18日、杉山和一没、享年85歳。墨田区弥勒寺に葬られる。 
 後世、門人たちは和一を杉山流の宗粗として弁財祠の傍らに杉山神社を建立、大正13(1924)年2月には朝廷より和一の功労に対し正五位が贈られた。(新津 太郎)

 甲子園出場だ、駅伝日本一だと騒がれた、いわゆる体育系高校の顧問や監督が、今や体罰だ、暴力だと槍玉に上がり、いじめ問題では文科省から教育委員会、学校はもちろん、未成年の生徒まで一人前にTV出演させ、意見を言わせるなど、どこかちょっと違ってやしませんか、と言いたくなるご時世である。
 体罰なんて昔からあったし、これからも無くなることはないだろう。TVの2時間ドラマには必ずといっていいほど、親に逆らう息子や娘にビンタを喰らわす親が登場するし、子育て中にお尻を一度も叩かなかった親がどれだけいるだろうか。私なんか幼い時、お箸の持ち方が悪いと、何度母に手の甲を叩かれたことか、お陰でなんとか人並みにお箸が持てるようになった。
 子だくさんだった時代には、殴り合いの兄弟喧嘩は日常茶飯事で、ある程度やらせておいて適当なところで「ええ加減にしなさい」と親が叱って(頭やお尻をひとつもぶって)やめさせたものである。
 これらは間違いなく〝しつけ〟である。しかし、これが程度を超えると〝暴力〟になる。親子間でも夫婦間でも、この〝程度〟が問題であって、〝程度を考える教育〟を学校でも家庭でも忘れられてきたことが、〝ええ加減なところ(グッドタイミング)〟を判断する能力に欠ける顧問や監督またいじめの生徒を生む要因になっているのである。 
 体育系クラブ活動の体罰が多くの学校であったことは事実で、現にどこの県や市でも芋づるのように次々とその報告がなされつつある。ご同様に三重県でも何件かの体罰問題があり、処分された関係者がいることを教育委員会も認めている。
 いじめに至っては、生徒だけでなく、先生間にも存在する。紀元前から人が何人か集まれば行われてきたし、いつの時代でも、どんな社会でも組織があれば起こっている。要は程度問題でどこにでもあるが、それが表面化するか、事件化しないだけのことである。
 さて、いま問題になっている中学校や高校における体罰やいじめは、果たしてマスコミが取り上げるような学校や教育委員会だけに根があるのであろうか。もっと根本的なところにあることを案外気づいていないのではないだろうか。
 本来、学校教育の目的と目標は、教育基本法および学校教育法に定められており、教育基本法第1条、教育の基本とは、「人格の完成をめざし、平和的な国家および社会の形成者として真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」とし、学校教育法第41条では、「高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする」と規定している。
 すなわち、知識を学び、国家や社会に貢献できる人格を陶冶する教育は、本来授業をベースにした正課であり、クラブ活動は「課外に行う部活動」、すなわち+α(プラスアルファ)で、正課の目的をより向上させるためのものである。
 ところが、いまやその+αが主役にのし上がり、我がもの顔で横行し、そこで好成績を上げることが、さも高等学校教育の目的であるかのように思わせてきたのである。
 時には、全国大会の成果で学校の名を挙げようとさえしてきたのである。そして、そのための強化だと称して外部から顧問や監督を入れてきたのが、今回の体罰を生む遠因となったのである。
 あまりにも木(+α)のみを見て、教育という森(全体)を見てこなかったツケが、ここにきて一気に噴出したというのが現状で、言い換えれば、基本である学校教育の正課が揺らいでいるため、+αが独り歩きして問題を起こしてしまったということである。
 そこで提案する。クラブ活動は+αであることを確認し、本来の学校教育とは何なのかを、学校、家庭(親)、行政(教育委員会)、地域社会が一つの場で真剣に問うところから始めるべきであると。
 例えば、県(教育委員会)主催でPTA、教組、地域(一般)などを交え、学校教育を問う『学校教育シンポジウム』を県下数カ所で開催、広く社会にアピールするとか、地域(市単位)で開くのも大切であろう(教育委員会では、急遽、体育系関係者の講習会とか校長を集めての研修会をやっているようだが、まさに泥縄式の勉強会で、これだけでは根本的な解決方法にはならない)。
 まず、隗よりはじめよで、森である学校教育そのものを問うことから皆で考え、どうすべきかを提案し、実践することこそ、体罰問題やいじめ問題の対処につながるものと確信する。
 (駒田 博之 元・三重県PTA連絡協議会副会長)

 昨年末に「改革派知事の時代 地方から日本は変わったのか」という本を出しました。三重・北川、高知・橋本、宮城・浅野、鳥取・片山といった、個性派の知事たちが連携して活躍をした10年間を取り上げた一冊です。
 三重県が登場する場面として、
 ①1998年4月、改革派知事連携で最初のグループ「地域から変わる日本推進会議」が玉城町で発足。宮川でフォーラムを開催。 ②2001年11月1日、志摩地方を会場に「チャレンジド・ジャパン・フォーラム2001inみえ」が開かれ、障害者の就労支援にIT(情報技術)を活用しようというテーマで、三重、大阪、熊本、千葉、岩手の県知事が集まる。 
 ③2003年1月25日、四日市市での「シンポジウム三重・分権時代の自治体改革?自らの手でどう壁を破るか」で、マニュフェスト選挙の提案をする、といった出来事がありました。 いずれも、私自身、知事連携の担当者として三重県と高知県をつなぐ意識で参加をしているのですが、2001年の「チャレンジド・ジャパン・フォーラム2001inみえ」では、津市で市会議員をしている時にお付き合いのあった久居の谷井亨さんという、車いす生活をしながらIT関係で仕事をしている友人と再会できる機会もあって、特別職知事秘書をしていた高知県庁でも障害者のみなさんの就労機会をどう確保していくかという議論に加わっていました。
 いまは、高知県庁を退職して民間の仕事をしているのですが、障害者のみなさんの就労を高齢者施設で支援するという、改革派知事たちの仕事を引き継ぐような事業を営む企業の顧問として、三重県と高知県をつないでいます。
 四国ライフケア(大上達也社長)という高知市を拠点とする企業では、介護保険が始まった10年以上前から高齢者向けのグループホームや有料老人ホームを運営してきました。地方に住む人々の経済実勢に合わせた、安価で良質なサービスを提供しています。高齢化率が全国平均よりも10年間は早く進んできた高知ならではのノウハウを蓄積してきました。
 高齢者施設を運営するうえで特徴的なことといえば200名以上のパートを含めた職員のうち、2割をこえる40名ほどが身体、知的、精神のいずれかの障害をもった職員だということです。
 それぞれの障害の特性に合わせて、「短い時間での勤務にする」「高齢者の話し相手になる」「洗濯をする」「マッサージをする」といった働き方を、障害者自立支援法の枠の中でやっています。制度のなかで、就労移行支援、就労継続支援A型の事業所として認められています。
 これまで、作業所的な仕事では月額数千円の工賃しか出なかった方が、老人ホームで働くことで安定した収入を確保できるようになって、当事者の本人と共に家族にも喜ばれています。 また、老人ホームとしても、障害をもった職員が加わっていくことで人員配置にゆとりが生まれて、忙しくバタバタと職員が走りまわることが少なくなりました。どちらかというと健常者よりも障害者の職員の方が、高齢者のみなさんとリズムが合う部分があるとも感じています。
 高齢者施設での障害者就労の取り組みは、手探りでスタートして4年が過ぎていますが、おかげさまで大きな事故もなく満足の輪を広げてきました。
 そんな高知県での実践をふまえて、四国ライフケアが三重県の企業をサポートして昨年1月にオープンした介護付有料老人ホーム「虹の夢とば」(鳥羽市鳥羽1丁目)でも、今年中には障害者就労の事業所として認められるように計画をしています。
 安心した老後の暮らしをする介護つき施設が、障害をもったみなさんにとって安定して働く場にもなるということで、障害者就労に力を入れた改革派知事たちの思いを継ぎながら、地方と地方をつないで、この仕組みを少しでも仲間を増やしながら広げていきたいと願っています。
  (元・津市議会議員)

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