特別寄稿

 かつてこの欄で「新都心軸として津IC付近に『津・道の駅』と『観光バス駐車場』を」と提案したが、その後間もなく河芸町黒田地区に『津・道の駅』ができることになり、またも地元住民をがっかりさせた。
 そこで、それに代わる『津・ええもん広場』と『観光バス駐車場』併設の、新たな津IC付近の活性化案について述べてみたい(河芸町にできる『道の駅』とは10㎞ほど離れており、システムや内容も違っていて問題はないと思われる)。
 津市には高速道路のICが3つあり、久居、芸濃はそれぞれ近くにショッピングセンターや商業施設を持っている。津ICがあえてこれらに倣うことはなく、むしろ、他のICと異なる独自の特色ある施設にすべきと考える。
 メッセウィング・みえの北側で、津市の新スポーツ施設が計画されているようだが、この中に食堂は含まれていない。交流試合や他県、他所から来るアスリートたちの食事をする場所がこの辺りには全くないのである。
 この点も踏まえて、計画されている新スポーツ施設の北側、中勢バイパスの納所交差点の南東側、すなわち、津芸濃大山田線のメッセウィング・みえに入る信号と納所交差点信号間の南側に『津・ええもん広場』と『観光バス駐車場』を整備してはどうだろうか。
 近い将来、津城が復元され津観音の抜苦・与楽地蔵への参詣が増えた時、必ずやこの大型観光バス駐車場の設置は大きな役目を果たすことになるであろう(中心街に何十台もの観光バス駐車場を作ることはまず不可能で、中心街では乗降するだけとする)。
 和歌山県の紀の川町に、『JA紀の里ファーマーズマーケットめっけもん広場』というJA(農協)が経営する新しいマーケットが盛況を極めている。POSシステムという生産者がパソコンで売れ行き商品を瞬時に把握し、常に新鮮な商品を客に提供するシステムで、売店のレジがバーコードを読み取ると、即、生産者のパソコンに何が幾つ売れたかメールされる。そこで生産者は売場で不足した商品を袋詰めし、バーコードを貼って自分の売場に補充する。これだけで納品伝票、請求書は不要で、レジでバーコードが読み取られた時、JAの各生産者口座に仕入れが打ち込まれ、いっさい人の手を煩わすことがない。もちろん、JAのパソコンにもどこの誰の何の商品が幾らで幾つ売れたかが即時に記録される。ここに新鮮な商品を安価に提供できる根拠がある。
 そこで、このシステムを使って、『津・ええもん広場』に、JA津安芸だけでなく、津の海でとれる新鮮な魚貝類を漁協(香良洲、津、白塚、河芸)に、その他、津の物産を物産振興会に、さらには、うなぎ、うどん、和食、ラーメン、ギョーザ、スイーツ、喫茶などの入店をはかり、オープンスペースで飲食できるようにする。
 尚、うなぎなどそこで調理ができない時は弁当形式にするとかの工夫をする。土産コーナーは津市観光協会が出店し、市内観光の案内とともに名物のお菓子などを販売する。
 先に述べた『観光バス駐車場』は、マーケットの南側、新スポーツ施設の北側に整備し、『ええもん広場』のみの場合は無料、中心街乗降のための駐車は定額有料とする。マイカーの駐車場はマーケットの前・津芸濃大山田線寄りとし、マーケットは広場の中央に建て、どこからでも入りやすくする(新スポーツ施設駐車場が満車時の予備としても可能)。
 この二つの施設は第三セクター方式(国・地方公共団体と民間企業が共同出資して経営にあたる事業体)で出資を募り、土地提供者にはできるだけ出資の形で参加してもらうように努める。また、マーケットの建物は、地元の杉材をふんだんに使い、天井裏をみせる和風建築として、ここでも津市の〝ええもん〟を宣伝する。
 これによって、津市の『新都心軸構想』の津IC付近の活性化がはかられ、付近住民の悲願も果たされることになると確信する。
 さらに、この際、津インターから安濃川の安東大橋までの津芸濃大山田線両側をフラワーストリート(花街道)として、四季の花や花水木を植えて中心街への案内誘導としてはいかがであろうか。 
 旧津市からの構想で『新都心軸構想』から5年、新スポーツ施設が出来る今こそ絶好のチャンス。この提案を叩き台として、津市は「都市整備課・新都心軸担当」を中心に思い切って思い腰を上げ、旗を振って取りかかってもらいたい。
 (駒田 博之 NHK大河ドラマ「藤堂高虎」を誘致する会事務局長)

 和一は今、絶望の淵にあった。一流の針術師になるため、故郷の津を出て十数年、生来の覚えの悪さ、動作のにぶさで師から再三の放逐を受け、今江戸から当てもなく京へ向かう道中であった。
 杉山和一は慶長15(1610)年6月10日、津藩士杉山権右衛門の長子に生れた。幼少にして伝染病にかかり失明、末を心配した父のはからいで家督を弟に譲り、江戸に出て明人・呉林達の流れをくむ検校山瀬琢一の針術所に入門する。
 しかし、和一は記憶力も弱く、針術の要である指頭の働きも鈍く、枕にさす針がすぐ倒れてしまい、とても一人前になる見込みがないというのが師、琢一の見解で、破門になるのが今度で3回目であった。
 さすが本人も己の鈍さを認め、今さら故郷の津へ帰ることもできず、江戸を離れて辿り着いたのが江の島であった。心身喪失寸前の和一は弁財天の祀られている祠にひざまずく。
 そこで、彼は一念発起、最後の望みをかけて17日の断食を敢行、岩の祠に端座し、「もしも私がこの機会に立ち直り、一人前の針術者になることができれば、それはひとえに弁財天様のお蔭であります。しかし、成功しないのであれば、どうかここで私の命を絶って下さい」と、ひたすら祈念、満願となって心身疲れ果て、まさに死に至らんとしたその時、どこからともなく妙なる調べが聞こえ、ふくいくたる香りが立ちのぼる中、弁財天の声が響いたのである。
 「汝の祈願誠に殊勝、それゆえその願い叶えて進ぜよう。再び東国に下り、管と針を授ける者に低頭して教えを乞うがよい、心してゆけ…」と。
 もうろうとした感覚の中で恍惣とした霊感に打たれ、ハッと気づくと身中に活気がみなぎり頭が冴えわたっていた。何度もなんども弁財天に謝し、和一は勇躍東へ下り、師の琢一に復帰を懇願してようやく許されたのであった。 
 それからの和一はまるで別人のように、勉学と針術について学び、身体をこわすほどの努力を重ね、さらに悟るところがあって、ついに、その針術は奥深く微妙な名人技術の域に達したのである。
 それまで、鉄針や金銀針を小槌で皮膚に打ち込んでいた針術を、和一は銀針よりやや短い細管に針を通し、先端を局所に当てて指先で針を軽く打ち、容易に皮膚内に刺入れてから、管を取り去って針を揉み込む方法を独創したのである。
 これは伝記によると、江の島からの帰り道、石につまづき倒れた時、手に拾った松葉の入った管から管針術の着想を得たと記されている。
 やがて、彼の技量は当時の将軍・家綱の耳にも達し、延宝8(1670)年には拝謁して、針術者最高位の「検校」を名乗ることを許されている。
 貞亨2(1682)年、将軍・綱吉のぶらぶら病(体力、抵抗力が弱くなり、疲れやすく身体がだるい症状)を針治療したところ、その効き目がすこぶる良かったので和一の名声はさらに上がった。
 病気の良くなった綱吉は和一を召して、「何か欲しいものがあったら言うように…」と尋ねたところ、和一は「私はこの世で欲しいものはございません。しかし、できることなら一つ目が得たいです」と、答えたという。
 それを聞いて哀れんだ綱吉は、本所一つ目の土地一千坪を与え、加えて禄五百石を給して関東総検校(失明者の最上官)に任じ、さらに三百石を追加して、その土地に針治療所を開設、目の不自由な生徒を募集させ、その治療所の教授に和一を任命したのである。
 和一の考案した針術は痛みも少ないので患者からも喜ばれ、弟子たちも簡便で学びやすいのでたちまち全国に普及し、ついに針術は目の不自由な人たちの最も普通の職業となってゆく。 あまりの出世と針術の拡大に、和一はこれこそ弁財天のお蔭と、賜宅内に弁財祠を建て、元禄6(1693)年には、江の島下の宮(現・辺の津宮)に弁財天の社殿を再興、また三重塔を建立してその恩に報いている。
 和一の針治療所は大いに発展、門人の三島安一が跡を継ぎ、江戸近郊四ヶ所に講堂を開き、さらに諸国45ヶ所にも増設、針術は全国に広がり、業とするもののほとんどは杉山流から出るようになり、名声はさらに天下に響いたのである。
 元禄7(1694)年5月18日、杉山和一没、享年85歳。墨田区弥勒寺に葬られる。 
 後世、門人たちは和一を杉山流の宗粗として弁財祠の傍らに杉山神社を建立、大正13(1924)年2月には朝廷より和一の功労に対し正五位が贈られた。(新津 太郎)

 甲子園出場だ、駅伝日本一だと騒がれた、いわゆる体育系高校の顧問や監督が、今や体罰だ、暴力だと槍玉に上がり、いじめ問題では文科省から教育委員会、学校はもちろん、未成年の生徒まで一人前にTV出演させ、意見を言わせるなど、どこかちょっと違ってやしませんか、と言いたくなるご時世である。
 体罰なんて昔からあったし、これからも無くなることはないだろう。TVの2時間ドラマには必ずといっていいほど、親に逆らう息子や娘にビンタを喰らわす親が登場するし、子育て中にお尻を一度も叩かなかった親がどれだけいるだろうか。私なんか幼い時、お箸の持ち方が悪いと、何度母に手の甲を叩かれたことか、お陰でなんとか人並みにお箸が持てるようになった。
 子だくさんだった時代には、殴り合いの兄弟喧嘩は日常茶飯事で、ある程度やらせておいて適当なところで「ええ加減にしなさい」と親が叱って(頭やお尻をひとつもぶって)やめさせたものである。
 これらは間違いなく〝しつけ〟である。しかし、これが程度を超えると〝暴力〟になる。親子間でも夫婦間でも、この〝程度〟が問題であって、〝程度を考える教育〟を学校でも家庭でも忘れられてきたことが、〝ええ加減なところ(グッドタイミング)〟を判断する能力に欠ける顧問や監督またいじめの生徒を生む要因になっているのである。 
 体育系クラブ活動の体罰が多くの学校であったことは事実で、現にどこの県や市でも芋づるのように次々とその報告がなされつつある。ご同様に三重県でも何件かの体罰問題があり、処分された関係者がいることを教育委員会も認めている。
 いじめに至っては、生徒だけでなく、先生間にも存在する。紀元前から人が何人か集まれば行われてきたし、いつの時代でも、どんな社会でも組織があれば起こっている。要は程度問題でどこにでもあるが、それが表面化するか、事件化しないだけのことである。
 さて、いま問題になっている中学校や高校における体罰やいじめは、果たしてマスコミが取り上げるような学校や教育委員会だけに根があるのであろうか。もっと根本的なところにあることを案外気づいていないのではないだろうか。
 本来、学校教育の目的と目標は、教育基本法および学校教育法に定められており、教育基本法第1条、教育の基本とは、「人格の完成をめざし、平和的な国家および社会の形成者として真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」とし、学校教育法第41条では、「高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする」と規定している。
 すなわち、知識を学び、国家や社会に貢献できる人格を陶冶する教育は、本来授業をベースにした正課であり、クラブ活動は「課外に行う部活動」、すなわち+α(プラスアルファ)で、正課の目的をより向上させるためのものである。
 ところが、いまやその+αが主役にのし上がり、我がもの顔で横行し、そこで好成績を上げることが、さも高等学校教育の目的であるかのように思わせてきたのである。
 時には、全国大会の成果で学校の名を挙げようとさえしてきたのである。そして、そのための強化だと称して外部から顧問や監督を入れてきたのが、今回の体罰を生む遠因となったのである。
 あまりにも木(+α)のみを見て、教育という森(全体)を見てこなかったツケが、ここにきて一気に噴出したというのが現状で、言い換えれば、基本である学校教育の正課が揺らいでいるため、+αが独り歩きして問題を起こしてしまったということである。
 そこで提案する。クラブ活動は+αであることを確認し、本来の学校教育とは何なのかを、学校、家庭(親)、行政(教育委員会)、地域社会が一つの場で真剣に問うところから始めるべきであると。
 例えば、県(教育委員会)主催でPTA、教組、地域(一般)などを交え、学校教育を問う『学校教育シンポジウム』を県下数カ所で開催、広く社会にアピールするとか、地域(市単位)で開くのも大切であろう(教育委員会では、急遽、体育系関係者の講習会とか校長を集めての研修会をやっているようだが、まさに泥縄式の勉強会で、これだけでは根本的な解決方法にはならない)。
 まず、隗よりはじめよで、森である学校教育そのものを問うことから皆で考え、どうすべきかを提案し、実践することこそ、体罰問題やいじめ問題の対処につながるものと確信する。
 (駒田 博之 元・三重県PTA連絡協議会副会長)

[ 15 / 17 ページ ]« First...10...1314151617