特別寄稿

 玉置町はのうなってもうた

(前回からの続き)
丸の内蔦町の小さな産婦人科にタンカをおろした。ここも負傷者であふれていた。
「よーし、今度はこれを養正国民学校へ持ってけ」、警防団の命令で手当ての済んだ負傷者を収容所の養正国民学校(かつて電電公社、現在のNTTに運んだ)。尻にぽっかりと15センチもの穴があいた婦人。赤チンが塗ってあるだけ。もう血は出尽くしたのか。手当てのしようもないのだろう。養正国民学校の講堂には、床の上に負傷者がゴロゴロと、所せましと横たわっていた。
夕方、負傷者運びに疲れて我が家に向かったが、玉置町付近はまだ炎の中で近寄れなかった。
仕方なく安濃川を渡って安東村へ向かった。打ちひしがれた心に、負傷者の目だけが焼き付いていた。刺すような目、笑い狂っているような目が…。
津観音前の津警察署の警防主任、奥山警部補(28)は署の地下にある留置場を改造した防空指令室にいて、爆弾の凄まじい衝撃を数えていた。
ガラガラッと来るたびに腹を突き上げられ、吐きそうになった。
「橋内(塔世橋から岩田橋の間が奥山主任の責任範囲だった)、橋北のいたるところに爆弾。乙部の海岸にも落ちた!砂けむりで何も見えません」
「どの附近か、どの程度か言え!」、署の屋上の望楼の監視員にどなったが、被害状況はわからない。
「全員集合―っ」手分けして調査をするために全署員を出し、自転車で現場へ向かった。東検校町から入ったが、道路は倒れた家々によってふさがれていた。走った。玉置町、榎の下方面の火炎を吹く町から死体を背負って走ってくる人、防空壕の中で死んでいる家族。負傷者も三重師範の救助隊員もどちらが負傷者か判らぬくらいドロドロの血にまみれていた。
玉置町、北堀端、西堀端に近づくにつれて、惨状はますます酷くなるばかり。西の方、安濃川堤の下付近は真っ赤な炎を吹き上げ、消火隊が走り回っている。
玉置町の防空壕の中で、母親と子供三人が埋まって死んでいた。母親は一番小さな乳飲み子を抱きしめ、その上の男の子の頭を股の間にしっかりとはさみ、一番上の小学五年生くらいの男の子が弟の上にかぶさって死んでいた。生き埋めだったらしく、少しも火傷の痕跡がなく、みんな安らかな死に顔をしていた。
 「身元の判りそうな遺体とバラバラの遺体を分けて集めろ」、奥山主任の指示でお寺、公会堂、養正国民学校…と負傷者が運ばれ、遺体は地面の見えている所に集められていった。
夥(おびただ)しい数だ。ちぎれた手や足も、みるみるうちに山と積まれていく。夕方からは、まだくすぶる町のあちこちで荼毘にふす光景が見られた。
爆弾でできた穴の中に廃材を集めて遺体を火葬していた。警官や警防団も身元の判った者から順々に道端で火葬した。家族の見つからぬ遺体は衣類や靴などを保存しては火葬した。
これまでの二度の空襲では死体検分調書も詳しく取ったが、今度はとても遺体の数が多すぎてとれもそれはできない。氏名を書き付けるのがやとこさだった。
署員は翌日から生存者をたずねては死傷者の全調査にかかった。しかし、一家全滅、近隣者は遺体を焼くと身寄りをたよって散り散りになって疎開していった。調査は時間のわりにはかどらなかった。玉置町付近一帯の空爆による死者数は永遠に謎となってしまった。
閑静な武家屋敷の町、玉置町は一瞬に数多くの爆弾で滅びた。安東村周辺で、とにもかくにも一家の無事を確かめあった山田寛さんは、翌日玉置町に帰った。
爆撃で榎の下方面など数箇所から出た火は、玉置町、北堀端の西半分から安濃川まで一面を焼き尽くし、まだそこここから白い煙が上がっていた。人影は少なく死の町だった。
「やがてみんな戻ってこよう」、正孝君と焼け跡の整理にかかった。しかし、帰ってくる人とてなかった。山田さんは三軒両隣の消息を聞いて回った。
裏の北村判事の未亡人方は、乳飲み児を連れて、もらい乳に寄っていた若奥さんが助かっただけで、親類から来ていた人を含めて一家六人が全滅。
東隣、公証人の前田さん方では、荷物を疎開するために書類運びに来ていた使用人が死んだ。
西隣の華道教師、村田さん方は、借家の人たちを含めて4人が死亡。その隣、県庁職員の広瀬さん方は、家にいた人四人が全滅。その隣の長屋の二人、私立病院副院長の鷲尾さん方は、先生が病院で殉職。家ではお手伝いさんが即死。
その隣、身寄りのない老人兄妹が生き埋めで死亡。鷲尾先生方の奥、小島さん方は、一家全滅。その向こうの徴用にいっていた長井さん方も数人死亡。道路を隔てた向かい側の日本キリスト教会では、小使いさんと幼稚園の先生が死亡。山田さん方の向かい側、岡本米店では、奥さんと娘さんが死亡。その西隣の今井医師の留守家庭では、奥さんと京都の第三高等学校から帰ってきていた息子さんの二人とも死亡。
今井さん方の門長屋に住んでいた東京からの疎開家族三人全滅。
また鷲尾先生方の隣にいた町内会長の信藤さんは、広瀬さん方の子供を抱いて配給の知らせを町内に触れ歩いていて道路で爆弾の直撃を受けて、二人とも死亡したという。
山田さんが直接聞いて調べたところでは約40軒あった玉置町内で68人が死亡していた。
家の防空壕にいて全員無事という家は、山田さん方、筋向いの沢井さん方、米本清判事方など数えるほどしかなかった。
 「玉置町はのうなってもうた」
(次回に続く)

訂 正

前回のこの連載の中、4段目の記述で「ミキ」さんが「息を引き取った」とありましたが、実際は、現在もご存命でありました。参考資料が事実誤認だったのが原因ですが、ここに訂正いたします。

 

【2018年のインバウンド推計値】

県別宿泊者数 県別祝迫者伸び率 1月16日、まだ確定値ではないのだが、日本政府観光局(JNTО)は、2018年の年間インバウンド数推計値を発表した。これによると、同年の1月から12月までは、前年比8・7%増の3119万1900人で、最高記録の更新だ。が、2015年の47・1%増以来、伸び率は引き続き鈍化傾向にある。
訪問者が最も多かった国は中国で、13・4%増の883万100人。次が韓国で5・6%増の753万9000人だ。そして、台湾が4・2%増の475万7300人、香港が1・1%減の220万7900人、米国は11・0%増の152万6500人、タイが14・7%増の113万2100人である。7桁なのはこれだけだ。
増加率が最も高いのはベトナムで26・0%増の38万9100人。次がロシアで22・7%増の9万4800人である。ちなみに、英国は7・6%増の33万4000人にとどまっている。
ところで、同期間のアウトバウンド(日本人の海外旅行)は6・0%増の1895万4000人となっている。これはサービス貿易の観点では輸入に当たるが、昨年2017年の1788万9300人から100万人以上も増え、日本の国際収支の中の旅行収支にマイナスの影響を及ぼしている。
三重県の状況はどうか?
2018年7月に公開された国交省と観光庁の宿泊旅行統計調査報告(平成29年1~12月)によると、三重県の延べ宿泊数は831万9100人泊で、47都道府県中では20位なるも、伸び率は全国最低のマイナス10・59%であり、インバウンドの延べ宿泊数も33万4230人泊で27位、伸び率はマイナス5・01%だった。JNTОによると、日本の2017年のインバウンド数は2869万1073人だったので、概ね86分の1といったところである。
なお、2018年6月7日の日経新聞によると、2017年に三重県を訪れたインバウンドは、伊勢神宮(内宮+外宮)こそ10万人は超えたものの、ミキモト真珠島は約3万3000人、伊賀忍者博物館は約2万9000人だった。2018年はどうだっただろうか?
日本の旅行収支に大いに貢献できるぐらい、外国人旅行者に訪れてほしいものである。
(O・H・M・S・S「大宇陀・東紀州・松阪圏サイトシーイング・サポート」代表)

そして、阿鼻叫喚と化した

(前回からの続き)
「火事だぞーっ」、「火の手が上がったでー」と声があがった。北の方、榎の下方角で煙が出た。南側のクリーニング店の方からも黒煙が上がった。
「あっちもこっちも火事やさ。まごまごしていると焼け死ぬ」。山田さんの声でみんな防空壕から這い出した。
藤堂家士族の屋敷町として津市内でも最も高級な住宅地であった玉置町、北堀端の町にあった門構えの家々は屋根がみんな地べたに落ち、瓦が乗っているのは数えるほどしかない。その低い屋根のあちこちからも炎が吹き上げていた。
 山田さんらは、吹き飛ばされた隣の土蔵に押さえられるようにつぶれた我が家の屋根を踏んで逃げた。安濃川へ最短距離の西の方は、榎の下から中新町、西新町にかけてゴーゴーたる火の海。仕方なく北の愛宕山遥拝所の土手に向かった。
夢中で逃げる道々は、この世の終わりを思わせる凄惨な場面だった。内臓が飛びだした人が防空壕の入り口を這いまわる。丸太のような人間のちぎれた胴体。上半身だけの死体…。
「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」、妻の千代さんがつぶやきながらついて来る。5メートルから10メートルおきに直径7~8メートルもあろうかと思える爆弾でできた穴。ひどい所には穴と穴が重なり合うほど接近していた。穴の回りは10メートル四方が掃き清めたように何もない。
ゾロゾロと北へ向かう人間の群れ。爆風の風圧でぼろぎれのように千切れた衣服をまとった人間の群れ。赤ん坊を背負った女がコジュケイのようになぎ倒された家屋の廃材の間をくぐって逃げていく。その赤ん坊には頭部がついていなかった。
 ようやくたどりついた遥拝所の土手。拝殿も前の広場も怪我をおった人、人、人の群れだった。広場に掘ってある大きな防空壕では醜い人間の争いがくり広げられた。「○○町内の防空壕だで、よその者ははいれんぞ」 「なっともならんのやさ。早い者からはいってもえやないか」。
その回りには何百人もの、物を言わない重傷者たちが戸板に乗せられて横たわっている。警防団や学徒らによって後から後から血まみれの重傷者が運ばれてくる。
「またグラマンがくるそうな」、「もう南の方がやられとる」という流言デマが飛び交う。人々の群れは川の土手下や防空壕の入り口に殺到した。修羅場であった。
「とにかく安東村へ行かにゃ」、山田さんらは御山荘橋を渡ろうとしたが橋が落ちていた。上流の三本松橋を渡ろうとした正武君は御山荘橋のたもとに倒れている怪我人の中に母校の津中の帽子を見た。片腕が吹っ飛び、わき腹を破られて虫の息の下級生だった。そばにリヤカーがグニャグニャにつぶれていた。
「おい、大丈夫か」、「大丈夫です。一年○組のミキです。もうだめです。家に知らせてください」と、はっきり答えた。「どうしてこんなところに来たのか」「荷物を疎開しての帰り、ここで…」とまで言うと、こっくりうなずくように正武君の腕の中で息を引き取った。
山田さん一家は三本松橋を渡って安東村河辺の荷物疎開先へ向かった。
 山田寛さんの二男、正孝君(12才)、三重師範学校(現在の三重大学教育学部の前身)一年生、は、24日の爆撃の第1弾が落ちた三重師範学校の鉄筋3階の教室で級友4人と雑談をしていた。ガガーッという爆弾の落下音、すぐさま机の下にもぐって伏せた。
すると、下から持ち上げられるような衝撃があった。体の上に窓枠やガラスが飛び散った。切れ間をぬってころがるように地下1階の防空壕に入った。十数人の学生、職員らがいた。
「ここが狙われとんのやさ、逃げな死ぬ」「いや、逃げてもなっともならん。みんなおんのやで死ねばもろとも、仲よう死のう」。
半地下の防空壕の空気穴から爆風が猛烈な勢いで吹き込んでくる。防空壕全体がガタビシと揺れ動く。
「ここで最期かもしれん」、正孝君は家族の顔を思い浮かべた。数十分(そう感じた)続いていた爆撃は止んだ。三階建ての屋上に上がった。校舎の西側に6棟並んでいた2階建ての寄宿舎は全壊していた。付近の町は砂塵と煙に包まれている。
玉置町の我が家の辺りからはモクモクと黒煙が渦巻いて上がっている。
「帰らねば」、下へ降りかけたが、一階玄関付近は、降って湧いたように西隣の西堀端町付近の負傷者が所狭しと並べてあった。
「元気な者はけが人を運べ」と上級生の命令。けが人の一人をタンカに乗せて級友と二人で病院へ運んだ。西堀端の道路は目をそむけたくなる阿鼻叫喚の巷と化していた。
「病院へつれてって」、腸が飛び出した母親がザックリと頭を割られた子供を抱いてにじり寄ってくる。また、死んでいると思った人がニューッと手を伸ばしてタンカにつかまる。
「山田、走ろう」、後ろの級友の怯えた声。瀕死の人たちの目がタンカを追う。遺体はほとんどが全裸。時折タンカをおろしては布団切れを拾って若い女性の遺体にかけてやった。
「海ゆかばみずくかばね…」、歌いなれた歌詞が口をついた。だがメロディーは出てこない。歌詞はきれいなイメージを与えたが、いま目にする町々の光景は歌のイメージとはほど遠い惨たらしい骸の町だった。
「歌は嘘だ。嘘っぱちだ」、重いタンカ。必死で病院の看板を捜す自分の頬が涙で濡れていた。
     (次回に続く)
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