特別寄稿

急速な少子高齢化による人口減少社会では内需が年々減少する。結果として、国内需要のみを満たすサービスやカンパニーには淘汰が必要になってくる。でなければ全てがジリ貧となり共倒れだ。市町村や企業の合併政策にもそれが前提にある。2016年、出生数はついに年間100万人の大台を割ったのだ。
とはいえ、人口減少には楽観論も存在する。大手新聞には、人口減少社会は産業イノベーションで乗り切れるとの、いかにも経産省らしいご託宣もある。
だが、それはどう考えても人手不足を補うという意味にしか取れず、今あるサービスやカンパニーの過剰感、逆に言えば『国内市場の衰退』をどうするかといった問いに対する答えではない。
有り体にいえば『椅子取りゲーム』の加速、つまり、何を残して何を整理するかといった人為的な淘汰の加速が、地銀のみならずあらゆる業種に必要になってくる事への言及はない。
しかし、総崩れを防ぐ為に執るべき論理の帰結は明確である。積極的な人口増加政策で椅子を増やさない限り、自由競争促進や規制緩和を理由に個人経営者の退場を促し、その事業を合理的マネージメントを有する大手資本のチェーンに置き換えてゆくしかないのだ。
このような大資本による業界ドミネーションは、古くはチェーンマーケットによる各地の商店街の衰退や映画館のシネコン化、また、比較的最近では書店と一体化したレンタル業界にもその成功例を見る。
これによる消費者側が被る不利益は、近所の馴染みの店がなくなって、ほんの少し用達が遠くなったぐらいで殆どない。
また、地域財界にとっても「景気が悪い」と答える個人経営者を減らすことができるので、少なくともうわべの矜持だけは保つ事ができる。地域のマネーを、本社を他所に持つカンパニーに持って行かれる事が、どれだけ『地方創生』にとってマイナスになるかについて論じられる事は、日本では殆どないのだ。
このような地元資本を代表する業種の一つに、ほんのつい最近までは不要不急の余暇産業と揶揄された『旅館業』がある。
この業界は圧倒的に個人経営者が多く、たとえば組合活動一つとっても専ら同業者同士の牽制に忙しく、マクロ経済の視点から業界を保護し育成するといったセオリーには暗い。
したがって、傷痍軍人会の消滅、農協団体の国内需要減、バブルの崩壊、慰安旅行の激減、そして、安価な海外旅行の増加などを経て、日本古来のサービスシステムがだんだん維持できなくなってきているのが現状である。
三年前に開催された欧州観光統計フォーラムで、私は日本の旅館の減少トレンドを示すグラフも作って掲げたが、緩やかな増加傾向を示すホテルを尻目に、旅館は今も減少の一途にある。フォーラムの翌年に東京五輪が決まり、インバウンド2000万人時代になっても、そのトレンドは相変わらずだ。前にも書いたが、今や日本の旅館は絶滅危惧種同然なのである。
その懐に、同じく民生需要の減少を懸念する異業種からの手が次々のびる。
賃貸不動産業界は空き物件の再活用策として『住宅宿泊事業法』を推進し、旅館やホテルの顧客を狙う。五輪が開催される2020年には客室が足りなくなるというのがその方便だ。が、他国の例を見れば、その根拠が極めて脆弱であることは明らかである。
また、建築設計業界も『特定建築物の定期調査報告制度』(まるで建物の車検制度だ)を推進し、かつ建築士事務所協会の会員だけがCADデータベースに基づく定期報告書が作成できる業務も独占する。確かに、人命を預かる施設において『防災』は大切だ。しかし、日本の旅館やホテルの防災管理の制度は既に世界一シビアである。
にもかかわらず、ごく一部の災害事例を根拠に更にハードルを上げるには理由が薄く、外資ホテル参入の妨げにもなる。
問題は、それぞれが法改正を求めるロビー活動の賜物である事だ。政治力のない旅館業界は格好の餌食なのである。
一方、旅館をUNESCOの無形文化遺産にしようとの動きも出てきた。『日本を代表する文化の一つ』だからだという。
私はこれはいいアイデアであると考えている。

(OHMSS《大宇陀・東紀州・松阪圏・サイトシーイング・サポート》代表)

昨日までの雨がウソのような五月晴れの日にこの原稿を書いています。移り気を天候にたとえたことわざがありますが、移り気ではなく、子どもたちの未来についても、これまでがウソのように、本日のような柔らかい日差しと心地よい風が流れる時代になればいいと思います。ちょうど昨年の同じ時期に始めさせていただいた「始まった教育改革」は今年の三月までに断続的に連載していただきました。そこではこれからの様々な教育関連の改革に関することを少し早めに紹介しましたので、読んでいただいていた方々のなかには、私の書いたことがだんだん具体的に見える形になってきたとお感じになっている方もいらっしゃると思います。
今回はこれからの教育改革の具体化を前提としながら、教育に関する話題を提供させていただきたいと考えます。おりしもヒバリの声が低く、燕の巣では何度も餌を運ぶ親鳥の姿が見えます。自然界も子育て真っ最中というところでしょう。画家のゴッホには「麦畑」を題材にした有名な『ヒバリの飛び立つ麦畑』(一八八七)や遺作とされる『黒い鳥のいる麦畑』(一八九〇)など、この遺作を描いた年の七月を中心に「麦畑」を題材にした作品が二十余りあります。それと同じ時期のことを日本では「麦の秋」と呼ぶ言い方があり、初夏の季語になっています。実りの秋を麦の盛んな成長に見て初夏の季語にする日本の粋な伝統文化は、これから子どもたちがどのような時代を生きようとも受け継いでいってもらいたいものの一つだと私は考えます。
そんな自然を感じながら伊東教育研究所の近くの学校を私の一番下の子どもと散歩しました。この子が成人式を迎えるのはまだ十年余り先のことです。最初に訪れたのは私のところに勉強をしに来ている子どもたちに誘われた神戸小学校でした。来賓用の駐車場を通ったときにランプが点いたままの車を見つけ、テントの後ろにいた警察官の服装の若い人に、念のため「あなたは警察ですか」と三回聞いてから、ランプのことを告げました
そのあと、運動会のはつらつとした演技を見ながら、私の父がこの学校の校長であったのは、もう三十年も前のことだったのだなと思いました。あの当時は津市の中でも大規模校の一つで、たくさんの子どもたちとそのご家族の方々が運動場にひしめいていたのを想います。ポール上でゆったりとひるがえる日の丸を見ながら、運動会をする子どもたちにとってはちょうどよい天候でよかったなと思いました。
ほどなく、とても状態のよい大太鼓を応援用に外に持ち出しているのが気になりました。教員時代の私は、音楽教材の楽器としての大太鼓を砂埃にまみれさせたくないと、どこの学校でも応援専用のものと区別するように頼んだことを思い出しました。またこの学校は周囲が田園なのでたくさんの車が止められていましたが、市街の学校ではとても許されることではありません。このようなことを私がここで書くのは、子どもたちの教育の場では、どのような人に成長して欲しいかを、多方面に注意を払いながら行うことが大切だと言いたいからです。
神戸小学校から伊東教育研究所の前を通って津高校の運動場の西側を通る小道に入りました。「大きな鯉がいるよ」と娘が言うので見てみると、小さい川を大きな鯉がゆったりと泳いでいます。運動場では甲子園にも言ったことのある野球部が三重高校と練習試合をしていました。懐かしい母校の音楽室の下を通り抜けると、新しい理科棟があります。かつては吹奏楽部が練習場としていた旧校舎の焼け残りの図書館を、壊して建てられた理科棟が思いのほか古ぼけて見えたので、思い返してみると、もうこの建物も十五年近くになっているのだと改めて思いました。正門から入って、高校生時代に毎日通った職員室側に歩き始めて、すぐのところに長谷川素逝の顕彰碑があるのを見ました。そのおかげで著名な俳人の長谷川素逝が津高校のボート部(漕艇部)を全国大会までつれていった指導者であったことを、今頃再認識しました。私の同級生のボート部員はたった一人だったように記憶していますが、彼は「先輩たちが本当に大切にしてくれるのでさびしくない」と言っていたのを思い出します。
長谷川素逝の顕彰碑は学校創立百周年を記念してボート部の同窓生たちによって建てられ、その横には「生徒らと五月の朝の窓あけて」の立派な句碑がありました。中庭にも素逝の句碑があり、本日の練習試合は残念ながら十一対〇という大差で三重高校に負けた野球部ですが、その野球部とボート部には吹奏楽部の者にはわからない強い絆があることに心より羨望と敬意を感じていると、ふっと目に留まったものがありました。
二〇三〇年と書かれた半球のもので、創立一〇〇周年のときに埋められたタイムカプセルとのことです。「君が成人式を迎えたころに開かれるんだって」と娘に言いながら、そのときの日本はどうなっているのだろうかと思いました。タイムカプセルを埋めた高校生のなかには親子でタイムカプセルを開ける人もきっといるでしょう。
科学や文化、政治や経済で活躍している人たちもいるでしょう。人工知能が生活のなかに当たり前に存在し、学校教育も想像を絶するような多様化をしているころに開かれるタイムカプセルが、ここまでに私が語ってきたような日本や地域や学校の伝統というものを、どこまで受け継いで、それが世界遺産のようなものになってしまわないかどうか、それこそ、これからの教育にかかっていると言っても過言ではないと思います。
津高校から私が小学生のころにできた陸橋をわたって新町小学校に行きました。運動会のお昼休でみなさんは昼食中でしたので、私の在学中のものはほとんどないなかで、唯一残っている八丁通り側にある門柱を見に行きました。「新町尋常高等小学校」。大正半ばに作られたものですが、まだちゃんと残されています。教育に託す気持ちはいつの時代も変わらないとしみじみ感じながらしばらくその前に立っていました。
(伊東教育研究所)

(前号からの続き)
中川機がB29に体当たり後、機体が四散して落下した二本木地区の人々は操縦席にこびりついている遺体の肉片を竹と木でお箸を作りそれで取り出し、「へさやん(通称)」が作った木製の箱に納め埋葬し、墓標を建てた。

陸軍少尉、中川裕は大正11年12月9日、広島県大竹市玖波町に生をうけた。
子供の頃から極めて慈悲深く親孝行であった。広島の2中を卒業し京都市の同志社大学を卒業した。
戦争が激しさを増すなか、航空戦力の重要性を感じ、陸軍特別操縦見習仕官第一期生として、太刀洗陸軍飛行学校に昭和18年10月に入校した。
そして、待望の戦闘機隊員に選ばれた。一旦は満州〔現在の中国の東北地方〕の日城子に派遣されたが、昭和19年7月31日、兵庫県の伊丹飛行場の陸軍第56戦隊に配属された。
古川戦隊長の「覚え」に「技量優秀」と特記されている。昭和20年3月19日より戦列に加わり、何度もB29の攻撃に出撃した。戦隊において留守部隊長兼新人操縦者の「三式戦闘機 飛燕」転換教育の主任教官の永末昇陸軍大尉の教育を受けた。そしてB28撃墜の決死必殺の体当たり戦法(56戦隊では刺し違え戦法と呼んでいた)の気風を自ら溢れさせていた。
ここに昭和18年7月14日に内閣印刷局印刷発行の『週報』の24ページに「陸軍省」が通告した「陸軍特別操縦見習士官の手引」があるのでそのまま引用する。 おそらく中川少尉もこれをよんで応募したものとおもわれる。時代の背景がよりよくお分かりになるだろう。
「『決戦だ』、『空だ、』一億の血は滾る。若き学徒諸君が『じつとしてはおられぬ』と叫びつつ学窓より直接大空への挺身を熱望されている状況は、まことに頼もしくも喜びに堪えないところである。
陸軍では、つとに学徒を航空将校たらしめる途を考え、これまでも飛行機操縦の心得ある者に対して、1年間教育して航空少尉とする操縦候補生の制度があり、また幹部候補生の中でも特に操縦を希望する者は、随時これを操縦将校として来たのであるが、最近頻りに各方面より、更に手っとり早い大空への挺身路の開拓について要望され、とくに学徒のこの要望は極めて熱烈になって来た。
そこで、この熱望に応え、且つ空中決戦態勢強化のため、今回特別操縦見習士官の制度を制定したのである。
即ち専門学校程度以上の学校を卒業した者に対して特にその素養を遺憾なく発揮させ、且つ飛行機及び最近とみに重要性を昂めた滑空機(グライダー)操縦者の資質向上のため、あらたに本制度が制定されたのである。
本制度は飛行機または滑空機の操縦を志願する者に対し、身体検査と口頭試問を行った上、直ちに陸軍飛行学校に入校させ、入校と同時に見習士官となし、1年6カ月の後少尉となるのであるが、見習仕官となる以前から、飛行機または、滑空機の操縦の出来た者は、1年間で少尉になれるのである。また見習士官の期間は、陸軍大臣は必要によって変更することがあるので、全般の情勢と見習士官の技量等によっては、操縦の素養のない者でも1年ぐらいで少尉となることもある。
特別操縦見習士官で、教育中にどうしても操縦に不向きの者が出たときは、人物や一般的成績によって、だいたいこれを甲種幹部候補生とする。この際はやはり見習士官であって、1年6カ月で少尉となれることには変わりはない。本制度の第1回は本年10月に採用される予定で、その志願資格は、学歴は大学学部、同予科、高等学校高等科、専門学校、高等師範学校、師範学校等を卒業した者、または本年9月30日までに卒業見込の者である。
高等学校や大学予科を卒業して大学学部に在学している者は無論資格があるし、現に徴兵検査を受けた者、或いは軍隊に入っている兵や幹部候補生になっている者でも志願できる。
願書は7月31日までに学校所在地の所管師団長に差し出すことになっており、志願票は陸軍航空本部や学校所在地の師団司令部或いは配属将校のいる学校でいつでも交付する。若しこれが手に入らない場合は願書を自分で書いてもよい。また願書類には市区町村長の奥書証印を受けるのであるが、本年は特に締め切り期日の関係上、これを省略することにした。
採用検査は第1次、第2次の身体検査と口頭試問とであって、まず志願者在学中の学校等で第1次身体検査が行われ、これに合格した者が第2次身体検査と口頭試問を受け得るのであって、細かいことは本人に通達することになっている。
今や航空の決戦は酣である。一日も早く、一刻も早く、航空戦力の飛躍的拡充強化を図り、速やかに敵を撃滅せねばならない。軍は人、物のすべてを挙げて航空優先の徹底を期しているが、特に学徒に対する軍の期待は極めて大きい。高等教育受けた素養高き若人が、空中戦士として、大東亜戦争完勝のために遺憾なくその素養を発揮せんことを望んでやまない。」 〔陸軍省〕

当時、日本陸軍軍戦闘機によるB29攻撃の方法は、前上方、前下方、後上方からの機銃掃射をしながら肉薄し、離脱する方法及び「タ弾」をB29の編隊上空から撒布する攻撃だった。「体当たり戦法」というといとも簡単にできるように思えるが、「飛燕」もB29も高速で飛行しており、B29には12門のブローニングM2 12・7ミリ機関銃が一斉に集中砲火を「飛燕」に浴びせてくる。
その破壊力は凄まじく、当たれば文字どおり蜂の巣にされることを意味していた。生還することが望まれていた攻撃法とはいえ、捨て身となって肉薄攻撃をし、万一の場合はB29に体当たりするのも辞さないという闘志をもってする攻撃であった。

B29の攻撃方法は上述のとおりだが、「飛燕」の火力は「2門の20ミリ マウザー砲及び2門の12・7ミリ機銃」で「飛燕」の飛行性能から考えると、B29を昼間に攻撃するには前上方攻撃が最も有効であった。 それには早めに攻撃要地上空に待機することが肉薄攻撃の決め手であった。B29の敵機に対する防御火力は大変強力な破壊力を持っていた。したがって、うすい角度からの前上方攻撃が一番有効であった。56戦隊の主任教官の永末昇大尉は「B29の攻撃の基本はB29の編隊に向かって右端機に前上方攻撃をおこなう。機関砲の照準点はB29の操縦者付近、射撃開始距離は約450メートル」と言っていた。
この攻撃のためには最低限B29と同高度、理想的には、さらにB29より100メートル上空に位置し、待機地点もB29の飛行航路の近くであることが条件であった。そしてこれは一度限りの攻撃のチャンスしかなかった。(次号に続く)

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