特別寄稿

(一部に刺激の強い描写がありますが、「ありのままを伝える」という筆者の意向を尊重し掲載しています)
その日、昭和20年7月24日、テニアン島西飛行場から、アメリカ陸軍航空隊第三一三爆撃航空団所属のボーイングB─29スーパーフォートレス爆撃機41機が、津市高茶屋にある津海軍工廠を第一目視爆撃目標地、そして津市市街地を第一レーダーによる爆撃目標地として飛び立った。それぞれのB─29は、AN─M64、500ポンド、約250㎏、通常爆弾を搭載した(作戦任務第288号)。
一方、グアム島北飛行場から、第三一四爆撃航空団所属のB─29、75機が名古屋市にある三菱工業名古屋機器製作所を第一目視爆撃目標地、そして津市市街地を第一レーダーによる爆撃地として爆撃せよという命令をうけた。
搭載爆弾はAN─M56─A2を4000ポンド、約2トン、軽筒爆弾(長さ約3m、直径約86㎝、B─29は一機当たりこの爆弾を4発搭載)とAN─M64を500ポンド、約250㎏、通常爆弾を搭載した(作戦任務第289号)。
アメリカ軍の天気予報では、名古屋地方ではこの日は高度5000mに高層雲、9600mに巻雲があり、30%の曇天ということであった。しかし、いざ日本近くまで来ると、2600mから9000mにかけて厚い雲の層があり「全曇」だった。
これでは目視照準の爆撃ができない。それで予め決めておいたように、それぞれの「目視照準爆撃地」を「レーダー爆撃目標地」に変更した。つまり出撃したB─29全機は「津市の市街地を爆撃せよ」ということになった。高茶屋の海軍工廠の爆撃はこの時点で外された。
津市には午前6時32分から空襲警報が鳴り響いていた。天気は曇り。午前10時27分、第三一三爆撃兵団が爆撃を開始した。同時38分、第三一四爆撃兵団が爆撃を開始。両兵団のB─29は午前10時54分に爆撃を終えた。投下爆弾数は、250㎏爆弾が1120発。2トン爆弾が149発と計算上なる(1機のB─29がそれぞれ4発の2トン爆弾を搭載し、投下した)。
6月26日は、津市内の軍需工場を爆撃目標地としたものであったが、この日、7月24日は天候の都合により全爆弾が市街地に投弾された。
この日、救護班員として、津市の市街地にいち早く入られたある班員の証言があります…。
「私は高茶屋の海軍工廠の医務室に勤務していました。津市が大変なことになっとる、ということを聞き、医務室の医師、看護婦ら全員で教護班を結成して、津市内に入りました。JR「阿漕駅」の東のところに、憲兵隊の詰め所がありました。その詰め所の前の地面近くの樋の出口のところから真っ赤な血がぽたりと落ちてきていました。何故だろうと不思議に思いました。
それで上の方へ視線を移して信じがたいものを見ました。屋根の先端と樋の間に10歳くらいのおかっぱ頭の女の子の頭部が引っかかっているんです。なんてことにと思いました。しばし呆然としました。またその近くで、埋没してしまっている防空壕を皆でスコップを使って掘り起こしました。6~7歳くらいの子供が数人生き埋めになっていました。ぜんぜん傷は負っていませんでした。
一人一人抱きかかえて外に出しました。しかし全員死亡していました。救護班の誰かが『おまえらは、ほんとうにかわいそうや。今度生まれてくる時はもっと良いところへ生まれてきな』と子供たちに言葉をかけました。養正国民学校(当時津市丸の内にあった)の校庭には累々たる死体が横たわっていました。また講堂の中は多くの血まみれの死体、負傷者で口では言い表せない惨状となっていました。5歳くらいの男の子の右足の甲から先が爆弾の破片で吹き飛ばされなくなっていました。『お母さん、痛い、痛い』と叫んでいましたが、母親は座り込んでしまって、ただ泣くだけでした。
この日は救護班の人と市内を救護に奔走しました。行く所、行く所、ひどいものでした。丸之内養正町の我が家の両親のことが心配でしたが、救護活動でそれどころではなく、この日には行けませんでした。
どうにか翌日に戻りましたが不安は的中しました。我が家は完全に焼け落ちていました。見る影もありませんでした。我が家の土間には父が作った防空壕がありました(幅約1m、深さ約1・5m、長さ約2mの縦穴に畳3枚を敷いてあった)。父と母はその中で、黒こげになって焼死していました。私は父母の遺体を防空壕から出し、焼け残った材木を集めて荼毘に付しました。
丸一日かかりました。遺骨を入れるものが無かったので、仕方なくバケツに入れて持ち帰りました。父61歳、母51歳、私が29歳の時のことです。後日、巡査さんが膝の上で『戦時罹災証明書』を書いて私に手渡してくれました。昭和20年7月27日 三重県津市長 堀川美哉となっています」。これは筆者が1996年3月19日、御本人から聞き書きしたものです。
現在の養正小学校は津市丸之内養正町にあります。ここは戦前、「玉置町」と呼ばれ沢山の民家がありました。この日の空襲によりこの町は壊滅しました。多くの市民が犠牲となっております。
戦後、日本国内でこの町が復興できなかった唯一の町となっています。誰が犠牲者となったのかさえ、詳しくは判りません。ある記録によると、死者、1万2000名、負傷者1300名とあります。
この7月24日は真夏のことです。気温は30度前後あったでしょう。散乱する死体や体の一部が腐敗をはじめ、あたり一面異様な臭気に包まれていたにちがいありません。この日の4日後の7月28日の焼夷弾空襲により津市は灰燼に帰しました。
この日、名古屋市が「晴れ」だったら、津市市街地が爆撃されることはありませんでした。その代わり高茶屋の海軍工廠は壊滅していたと思います。7月28日にこの救護班員の方の敷地にも焼夷弾が降り注ぎました。「一坪くらいのところに、十発くらいの焼夷弾が突き刺さっていました」と証言されています。
7月24日と7月28日の2回も空襲を受けたのです。証言してくださった方は既に鬼籍に入っておられます。証言に出てきました、「女の子」は当時9歳だったとある記録により確認できています。また「防空壕」の子供たちは、15、13、11、9、7、4、2歳です。この時、母親を含めて一家8人全員爆死です。父親は多分出征中だったのでしょう。父親が無事帰還されたか、戦死されたのか不明です。一口に「今日の平和は多くの犠牲者の上にある」と申しますが、その犠牲となられた一人一人の死に方は余りにもむごい。それを直視しありのままを語り継いであげることが、真の慰霊だと私は思います。                       合掌。

航空母艦「ハンコック」から発艦するF6F-5ヘルキャット

航空母艦「ハンコック」から発艦するF6F-5ヘルキャット

1945年、昭和20年7月24日、アメリカ海軍第38任務部隊所属の航空母艦「ハンコック」は潮岬の南南西約210㎞沖の太平洋上にあった。
午前5時40分、シュウマン少佐の率いる12機のグラマン、F6F─5ヘルキャット戦闘機が次々に発艦した。この日の主任務は滋賀県八日市飛行場を攻撃することであった。
8機が北西方面から500ポンド通常爆弾を7発及び16発のHVAR空対地ロケット弾で格納庫を破壊炎上させた。
攻撃完了後、編隊は南下。この日は約1000機の米軍戦闘機が早朝から東海地区以西の航空基地、港湾施設、交通機関、船舶、工場などに執拗な攻撃をくわえていた。
▼「赤目口駅」名張市。
満員の2両編成大阪行き普通電車は、空襲警報の発令により、名張駅構内で停車していた。しばらくして警報が解除されたので「赤目口駅」に向かった。午前8時頃、「赤目口駅」のプラットホームに電車が停車。その時、2機

シュウマン少佐

シュウマン少佐

のグラマンF6F─5ヘルキャット戦闘機が赤目町星川地区に急降下し、「赤目口駅」から約400mのところから、先頭車両に対して次々に機銃掃射した。
1機約1・7秒で掃射を終えた。この戦闘機が搭載するブローニング機関銃の発射能力から推測すると、約260発の機銃弾を浴びせたことになる。
一瞬にして、電車の乗客、プラットホームにいた無辜の人々が撃ち倒され「赤目口駅」構内は鮮血、悲鳴と硝煙の臭いで阿鼻叫喚の巷と化した。
50余名が死亡、110余名が負傷するという大惨事となったこの出来事は先の大戦中に名張市で起こった、最悪の惨事である。この日、奈良県宇陀市榛原の「榛原駅」でもこの編隊は機銃掃射を行い、死者11名負傷者27名を出している。
▼「三野瀬駅」北牟婁郡紀北町紀伊長島区三浦
翌7月25日、同じくシュウマン少佐が率いる戦闘機隊4機が「ハンコック」を午前10時15分に発艦。編隊は尾鷲から松阪方面に向かって走る上りの列車を発見した。
駅構内に入ったこの列車と既に駅構内で停車している列車に対して、蒸気機関車および客車に対して機銃掃射した。
「三野瀬駅」構内は「赤口駅」の大惨事同様、一瞬にして阿鼻地獄となった。この日の死傷者の数は未だ定かでない。10数名とも50数名とも言われている。編隊はその後、五ヶ所湾の漁船にも機銃掃射した。午後2時30分、全機帰艦している。
さて、どのようにしてこれら機銃掃射事件がシュウマン少佐が率いる戦闘機隊によるものと特定したのか?疑問に思われる方もおられると思うので説明すると…。
アメリカ国立公文書館、NARA,所蔵の海軍航空母艦所属の戦闘機隊の「作戦任務報告書」の中から事件日に三重県に飛来した戦闘機隊の攻撃記録をくまなく読解してその中から、「赤目」「榛原」「三野瀬」という地名を見つけ、その攻撃報告書のなかに列車や機関車に機銃掃射をしたという記述を見つけて、特定することができた。
また、シュウマン少佐及び空母「ハンコック」所属のグラマンF6F─5へルキャット戦闘機の写真の入手はどのようにしたのか?
これもアメリカ国立公文書館に問い合わせたところ、これらの写真も所蔵していることが判ったので、同館から取り寄せている。
シュウマン少佐は1917年生、1996年、悪性リンパ腫のため死去。享年78歳。アーリントン国立墓地で永遠の眠りにつている。

雲 井  保 夫

 大学を卒業し津へ里帰りしたものの、当時津市にはスイミングもフィットネスクラブも、ましてやジムなどない時代。練習場にも困り後々、全日本実業団パワーで最優秀で優勝することになる藤井伸哉選手(現・フジイ工事管理代表)などと共に現在のジムの前身となる津体育館を拠点とした津トレーニングクラブを立ち上げてから、もう35年以上の年月が流れ、まだ一般の方のシェイプアップや若返りなどを指導しながら現役チャンピオンとして津市で最初に出来たジムを率いています。
 小学生時代の駆けっこから始まり、長くスポーツに携わり私には、どうしても忘れられない光景があります。
 時は中3…地元橋南の陸上部の主将になった私に当時の顧問が「最後くらいは一花咲かせて行け」と言われ選んだのが80mハードル走でした。
 専門書を買い、一流選手の跳び方も研究し、走る度にタイムは上がり数カ月先には50mへハードルを5台置き、7秒0で走れるまでになりました。
 短期間の調整で迎えた県体予選を兼ねた津安芸大会。三重大学のグラウンドで私は予選は軽く流し、トップで決勝の第一コースに着いていました。「位置について用意!」の掛け声で集中していた時、すぐ隣の2コースにいた他校の選手が一歩飛び出ししました。
 私はフライングと再レースを確信し、体力を温存するために、地面に手を着きながらフライングを知らせるピストルが2発なるのを待っていました。
 他の選手達は2コースの選手につられて飛び出して行きました。皆が12m50㎝先にある第一ハードルをまたぎ越そうとしているのをスタート地点から見た時、有り得ない事が起こってしまったことと、数カ月間の猛練習のことや、「ビリか?」という思いが一瞬の内に脳裏に走りました。 
 私は「そんな馬鹿な!」と思いながら渋々後ろから走り出しました。途中、皆との差が詰まって来ているのを感じ、慌てて急加速し一度着地でバランスを失いかけたこともまだ覚えています。
 結果は胸の差ほぼ横一線でしたが猛進及ばず1位が11秒7、2位から私の4位までが11秒8で敗れました。代表も3位まででした。4位では県体までに更にハードリングを磨き県記録を出すのは無論のこと、中学日本新を出す夢も、この屈辱のグラウンドで終わりました。
 レース後、顧問に「お前だけ何をしとったんや?」と言われ、「隣の子が用意で一歩出た。走る訳ないでしょ、明らかなフライングのピストルさえ鳴らなかった。抗議して下さい」と言うと顧問は「勝負事は終わってしまったら終わり、一回切り」と取り合ってはもらえませんでした。
 走らなかった自分の過失で今までの努力を無駄にしてしまったことも重なり、スポーツを始めて、テント裏で初めて涙した日でもありました。
 おまけにその後に行われたリレーでも、まだ動揺していた私は折角トップで走って来ながら同じカラーのランニングを着ていた他校の生徒にバトンを渡そうとしてアンカーと皆に迷惑をかけ、楽勝だったはずのリレーまで敗れてしまいました。
 今も当時のリレーメンバーに会うと「あの時はすまなかった」と言うしかありません。あの日の悪夢はその後も何度も、夢に出てきました。スタートしなければと、2階の窓からダッシュして飛び出しそうになったことも。
 先日オグシオの潮田さんが、やはり中学の時だったか、全国大会で後にコンビを組むことになる小椋さんと試合した際、勝てると思っていたのに力が発揮できずに敗れ、その時のことがショックで、その後の頑張りに繋がったことを聞きました。
 私の場合は、その後ウエイトリフティングやパワーと競技は変わっても40年以上現役でチャンピオンを続けて来れたのは、あの悪夢のような津安芸大会の惨敗が原点でした。
 人は苦しんだ分強くなれるのは本当だと思います。スポーツは長く続けるとスキルやポテンシャルだけでなく、人生の中で味わった大失敗や理不尽なこと、裏切りや幸せにしたかったのに出来なかった心残りが逆に力になり、競技で一瞬の内に力を出せるようになります。
 二度失敗しても三度目には成功できると確信できます。そう、苦しみも悲しみも喜びも全て力になるのです。一流選手はスタミナもパワーも無くなってしまったと感じた所から力を発揮出来たりもします。
 かのブルース・リーが映画「燃えよドラゴン」の中で遺した名ゼリフ、「考えるな、感じろ」は正解だと思います。還暦を過ぎた今も同階級の三重県記録より一枚上手のレベルで、あの林先生の言っていた、常に戦場にいる心構え「常在戦場の精神」を持ち、成績を保持するのではなく前進できているのも、ブルースの言ったように、年を重ねる程、人生まで感じることが出来るからではないでしょうか。
 また、無の境地とは何も考えないことではないとブルースも言っています。人生には苦しみも悲しみも喜びもあったはずです。試技(演技)とは、スキル(技術)や体力を越えた所で、成功のイメージを電光石火の如く放出(爆発)することだとブルースは言いたかったのだと思います。
 若い皆さんは苦しみも悲しみも恐れることなく胸に刻んで突き進んで下さい。光が見えず暗闇の中にいても負けないで下さい。いつかきっと勝つ日が来ることを祈ります。
 私は弟子を陸上やバドミントンやバスケや野球、柔道、レスリングなど300名を超える三重県チャンピオンに、日本一や世界チャンピオンも含めて育てて来ましたが、私自身は名コーチに巡り逢うことは生涯なかったと思っています。それも私が走り続ける理由の一つであり、33年前、津市で初めてのジムを立ち上げた理由です。若者には同じ思いをさせたくなかった。日本一強いグランパとして走り続ける力は内からなんだと、より多くの若者に伝えたかったのです。
 体幹の自然なうねりを上手に使うスーパー小学生だった私ですが、中学の頃には「もっと腕を振れ、もっと太ももを上げろ」と指導され、既に原点の自然な走りを忘れ、力んだ走りで重心も浮きスランプに入っていました。有り余る筋力を使いこなせてなかったのです。それを指摘してくれるコーチもなく気付いたのは陸上を辞めてからでした。
 私の重ねて来た多くの失敗は若者の成功への道標です。だから失敗も恥も恐れないで下さい。明日輝けばいいのですから。

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