特別寄稿

『遷都1300年祭』の前年から始めた古都の定点観測も96回目となった。今回は観光協会の専務理事ご同行である。
例年この頃は、春と並んで最も観光客が多いシーズンだが、今年も近鉄奈良駅周辺では、ハザードランプを点滅させたツアーバスが散見し、奈良公園も多くの外国人観光客で賑わっている。餌がたくさん貰えるので、鹿たちも満足そうだ。角切り行事も終えたようである。
傾向としては、アジア系よりも欧米系のツアー客が目立ち、日本人団体客は学生さんも含め、全くと言ってもいいほど見当たらない。興福寺の境内も外国人の方が遥かに多いようである。この世界遺産興福寺の『中金堂』は、江戸時代に焼失以来301年を経た今年、本格的に再建されて、いよいよ明日から一般拝観が始まる。おそらく日本人訪問者数も急増するに違いない。
思い返せば、2011年の東日本大震災と原発爆発では、47都道府県から等しく外国人訪問者の姿が消えた。日本人観光客も自粛ムードや史上最大の海外旅行ブームによって大きく落ち込み、奈良も例外ではなかった。誰一人、今にちの賑わいは想像し得なかったのだ。隔世の感ひとしおである。
三条通りでは、色とりどりのヒジャブを被ったムスリムの御婦人方が多く見られ、茶巾うどんの店も外国人観光客による長蛇の列、また、猿沢池のほとりでは、春から建設中だったホテルも足場を解かれ、総板張りの外壁を見せている。猿沢インのマネージャーによると、関西の外部資本によるものだそうだ。私達は猿沢イン3階にあるビジターズ・ビューローを訪ね、大和路カレンダー2019の宣材を預かり、国連世界観光機関へと向かった。
国連世界観光機関の駐日事務所では、局長が応対してくれた。私は先月大阪で開催された『メガイベントを通じた地域振興・地域活性化』シンポジウムのお礼を述べると、ふるさと新聞に載せたシンポジウムレポートを渡した。また、来年2月に三重県で開催される『日本食文化会議2019』の記事や、来年12月に京都で開催される国連世界観光機関とユネスコの『観光と文化をテーマにした国際会議』のコピーを提供した。
局長は、10月11日から13日にかけて中国の揚州市で開催された『世界運河都市フォーラム』に出席したそうで、その冊子を見せてくれた。このフォーラムのテーマは世界運河都市文化の保護・継承と利用で、米国をはじめ、英国、ドイツ、フランスなど、31カ国から関係者約400名の参加者があったそうだ。が、気候変動による海面上昇問題に悩むベネツィアの参加はなかったようである。気候変動による環境急変への対応策が、今後、大きなテーマになると思うのだが。
帰り際に米国人広報担当副マネージャーに会った。彼女は大阪でのシンポジウムでカメラウーマンに徹していた。慣れない日本での労をねぎらった次第である。
なお、昨年10月に三重県で開催された『観光業の持続可能な発展における女性の役割』のようなシンポジウムを、来年2月に奈良で開催するそうだ。奈良らしいテーマを検討しているようである。
(O・H・M・S・S「大宇陀・東紀州・松阪圏サイトシーイング・サポート」代表)

 ラスベガス・サンズの会長アデルソン氏は、かつてトランプ氏が経営していたカジノのライバルである。ところが、調査報道で知られるニュースサイト『プロパブリカ』は10月10日、2017年2月にトランプ大統領が安倍首相とフロリダで会談した際、ラスベガス・サンズに対して日本参入の免許を与えることを検討するよう強く求めたと報じた。然もありなん、アデルソン氏は大統領の熱心な支持者である。「昨日の敵は今日の友」は日米関係だけではない。
とはいえ、58名もの犠牲者を出した、昨年10月のラスベガス銃乱射事件の記憶もまだ消えやらぬラスベガス・サンズである。そのアデルソン会長は、事件の前月9月に大阪府庁を訪問し、日本のカジノ事業で厳しい面積規制を導入しないようにと訴えていた。結果として、今年7月に成立した『IR整備法』に、政府案に当初盛り込まれていた面積上限の数値が含まれる事はなかった。
また、日本では報道されていないが、フロリダでは他社の名前も上がったとされる。一つはご存知MGMリゾーツ、そして、会長が共和党の国家委員会を運営しているウィン・リゾートである。彼らにしてみれば、日本は最後の開拓地なのだ。
そうは言っても、MGM独占の可能性は政権交代後はあまり高くはないようである。この会長は、民主党のオバマ前大統領より国家インフラ諮問委員会に任命されていたし、更には、MGMリゾーツの日本法人の代表執行役員兼社長が、民主党オバマ政権末期にキャロライン・ケネディの後任として在日米国大使館臨時代理大使だった上級外交官だからである。
プロパブリカは、外国首脳との会談で、献金者の利益に直接結びつく話を持ち出すのは外交儀礼に反するとしている。だが、密室で決められるよりマシである。
2012年10月のウォールストリート・ジャーナルによると、2008年の選挙戦におけるオバマ陣営への献金は金融業界が最も多く、全体としては4300万ドルを献金しており、また、JPモルガン・チェースとシティグループ、バンク・オブ・アメリカ、モルガン・スタンレー、ゴールドマン・サックスの従業員も350万ドルを寄付した。
結果として、彼らは二期目の選挙戦では離反したとはいえ、いわゆる市場原理主義の黄金時代を築き、格差社会を拡大したのだ。
トランプ大統領は、1999年に民主党のクリントン大統領によって廃止された「グラス・スティーガル法」の復活によって、その是正さえも念頭に置いているのである。
(O・H・M・S・S「大宇陀・東紀州・松阪圏サイトシーイング・サポート」代表)
※プロパブリカ アメリカ合衆国の非営利・独立系の報道機関。公益を目的とした長期間にわたる独自取材によって行政や企業の不正・腐敗を明らかにする「調査報道」を専門とする。
 ※グラス=スティーガル法 1933年に制定されたアメリカ合衆国の連邦法。1980年代のレーガン政権(共和党)下で規制緩和、自由競争の復活という経済路線が強まり、証券と銀行の分離を原則とする1933年銀行法(グラス=スティーガル法)の見直しが始まった。1990年代のIT好況に転じたアメリカ経済を背景に、1999年11月、共和党が多数をしめる上・下院はグラス・スティーガル法を廃止し、銀行・証券・保険を兼営する総合金融サービスを自由化する法律(グラム・リーチ・ブライリー法)を可決、クリントン大統領(民主党)が署名して成立した。このように新自由主義に基づいて金融をも自由競争にさらすことになったアメリカ経済はその後、金融工学というコンピュータ依存の金融商品が暴走し、サブプライムローンなどの問題を引き起こすこととなった。

最近のレスリング界でNo1の実績を誇る国民栄誉賞まで受賞した伊調選手のまさかのパワハラ問題に始まり、相撲界もアメフトやボクシング界やチアダンス部まで多くの闇を抱えている。
世界陸上やワールドカップ、高校野球やパンパシ水泳に熱狂する反面、伊調選手のように真摯に競技に取り組んで来た選手が苦しんでいるのを見ると、50年以上スポーツに関わって来た者の一人として、何とも言えない気持ちになり、自分自身も光と闇の時代があったのを思い出す。
思えば、私も小学校では一年から六年まで徒競走はいつも一番、陸上部はなかったので、ソフトボール部の主将や、自らスポーツ少年団を結成し、当時から小学生だけでなく、年上の中学生を指導してきた。
一方、答辞を読んで卒業するまで、我が家は貧しく、一本のソーセージを母と妹が譲り合っている場面や、いつも母の作ったみそ汁と、お茶漬けか沢庵をよくかじって食べた記憶がある。貧しくとも両親は精いっぱい私を支えてくれた。そして活躍する私を見て喜んでくれる姿を観るのが好きだった。
順風満帆に思えた時代も中学に入学すると一変する。入学式初日から番長に名指しで絡まれたり、陸上部に入部するものの、顧問は名ばかりでコーチ等いなかった。
しかし、強く、もっと速くなりたがっていた私は、棒高跳びを含めた陸上全般が好きになりかけていた。つい先日まで小学生であったのに、毎日走り幅跳びで5m以上を50本というような、自ら無茶なノルマを課してしまった。
結果、中一の春にはもう左足の骨を痛め踏み切れなくなり、ランニングでも、小学生の頃の柔らかで全身のバネの効いた走りがもう出来なくなってしまう。

迷いと間違いだらけの走りをやっているうちに三年になり主将になっていた。中学最終の県大会だけは3位入賞するため、ハードルで中学日本新記録を出そうと準備していたが(50mハードル5台置き7・0秒)、地区の津安芸予選でまさかの試練が訪れる。
予選をトップで通過した後、決勝で隣にいた第2コースの学生が「用意!」の合図で大きく一歩出てしまったのである。私はフライングのピストルが鳴るのを信じて疑わず、体力温存して走らずに構えたままスタートラインで待っていたが、ピストルが2度鳴ることはなかった。
ハードリングには自信があったが、もはや10m以上出遅れては私でも手遅れだった。結果は4位11・7秒。日本記録どころか県大会出場も叶わなかった。
中学三年間でコーチや指導してくれる人もいなかった事もあり、自ら付けてしまった悪い走りのフォームは高校に入っても修正出来ず、一年で陸上を去ることになる。小学生の頃、〝黄金の脚〟と言われながら、一人悩み苦しんだだけで四年で陸上から離れることとなる。
高二からは管瀬先輩(元・四日市衡器代表)と出会い、共にゼロから「重量挙愛好会」を創り、一年後には神戸高校では前例のなかった部への昇格や5階級制覇を果たし、自らも主将として県記録保持者(プレス105㎏もしくは110㎏・スナッチ90㎏・ジャーク125㎏)になっていた。
インターハイにも出場したが、猛特訓がたたり、当日に限って痛みでシャフトが握れなくなり、サムレス(5本指で引っ掛け)で3種目とも全試技をする事になってしまい、パワーセーブを余儀なくされ、これもまた試練であった。
当時は神戸高校が重量挙げで№1だった。何校かの大学から誘いを受け進路も決まりかけていた卒業前に、県協会理事長から「顧問から三重インターハイの強化指定校2校のうち、神戸が内定したと知らせがあった」と聞かされた。束の間の喜びとは裏腹に、これから始まる長い試練に私はまだ気付いていなかった。

私は迷いながら愛知のC大学へ進学するが、皆で創って行く和気あいあいとした神戸高校の頃のの雰囲気とは180度変わっていた。
私は肉体的シゴキには音を上げたことはなかったが、当時の威圧的、理不尽な暴力等には耐えられなかったし、窮屈が一番苦手だった私は部を飛び出し、大学も中退してしまい、大いなる挫折を味わうことになる…。      (次回に続く)

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