女の落書帖

本棚の整理をしていたら、徒然草の解説本が出てきた。子どもが高校生の頃に使った参考書だと思う。
パラパラとめくって楽しくなった。すらすら読めるから。もちろん日本語だから読めて当たり前だけれども、古文を勉強した頃からもう何十年も経っている。何もかも忘れていると思っていたのに、「あはれ」「すさまじき」「をかし」といった古語の意味を覚えていた。脳はこれらの記憶をどこかに収納していたらしい。
それに、文中に分からない単語があっても文の意味は不思議と分かる。人が古くなると、自然と古文が読めるようになるものだろうか。
読んだ覚えのある文もある。「おぼしき事言わぬは腹ふくるるわざなれば」とあり、「もの言わぬは腹ふくるるわざ」は徒然草出典だったと思い出す。
「善き友、三つあり。一つには物くるる友。二つには医師。三つには知恵ある友」高校生の時には、これはあまりにもひどい言い草だろうと思った。でも、この年になると現実的な考え方だと素直に認められる。
他の段も読んでいくと、うなずけることばかり。現代に通じる真理の数々。七百年も前の人が考えたことが、今の私にはすんなりと同意できる。徒然草は年を重ねてから読むべきだ。
さて、今から七百年後の人にも、同じように肯定されるだろうか。
(舞)

六月にはささゆりとあじさいと花しょうぶが咲く。毎年、花の名所に花行脚。ささゆりは梅雨の前に、花しょうぶとあじさいは梅雨の最中に花見に出かける。
今年のささゆりはもう見てきた。ささゆりを追っかけて伊勢や松阪の奥まで行った年もあるが、今年は亀山のささゆりの里にした。地元の人が育てているささゆりは、何百本もあるらしい。あんなに多くのささゆりの花を初めて見た。
私が子供の頃のささゆりは、そう珍しい花でもなかった。大人たちが田んぼの仕事に忙しい頃、田んぼと集落の境となる坂道に咲いた。笹原の中のピンク色を、私はいち早く見つけたものだ。
めったに母にものをねだらない私だったが、一度だけ「あそこに見えるささゆりがほしい」と言ったことがある。母はしぶしぶ笹原に踏み込んでささゆりを採ってきてくれた。甘え下手の私は、母の機嫌を損ねたと後悔したのだが、ささゆりを手にしてうれしかった。
ささゆりを見ると様々なことが思い出される。ささゆりが好きだという男の子に恋心を抱いたこともあった。彼はささゆりの花束を好きな女の子に贈ったことがあると私に言った。その子に代わって花束を受け取りたかったと思ったものだ。
いろんな花を見るたびに、その花にまつわる記憶がよみがえる。私の花行脚は、思い出をたどる旅でもある。
(舞)

NHKで鶴瓶さんの番組を見ていた。鶴瓶さんは、出かけた町で様々な人に出会う。いつもながら鶴瓶さんの話術は巧みで、相手の個性を引き出してカメラの前に見せてくれる。
一人の女性との別れ際、鶴瓶さんは両手を広げ、自然な形でハグをした。抱き合って背中をポンポンとたたいて、すっと離れた。見ていて暖かい気持ちになる別れのハグだった。
さて、ハグは日本において自然な行為となっているだろうか。この間友人から聞いた話で、ご主人が昔お世話になったご夫婦が伊勢観光にいらしたのでお会いした時のこと。友人が「遠いところをようこそ」とお辞儀をしたら、奥様がぎゅっと抱きしめてくれたそうだ。「都会の人は挨拶の時、お辞儀やなくてハグをする」と驚いていた。
そういえば、去年評判の高かったドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」で「火曜はハグの日」だった。私の知らないうちに、ハグは日本人の慣習となっているのかもしれない。
私もハグをしたことがあるが、それは小さい子をあやすときのこと。大人同士の挨拶としてのハグは未経験だ。そんな場になったらどうしよう。体から加齢臭や汗の匂いなどしたら申し訳ない。誰かに会うかもしれない日には、オーデコロンなど振りかけて、良い香りの人にならなくては。想像するだけで汗が出てしまいそうである。(舞)

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