女の落書帖

 昼過ぎから降り出した雨は、夕方になってひどくなった。私はワイパーの速度を上げて、暗くなった道を自宅へ向かっていた。家で子どもが待っているわけではないが、気が急かされる。
 踏切で止められて、舌打ちをしそうになった。上り下り両方から電車が来る。三分五分がどうということもないのに、気持ちも運転も前のめり。
遮断機前の車の脇には、兄妹らしい小学生。お兄ちゃんが前で、妹が後ろ。妹は自分の傘の他にたたんだ傘を持っている。
 きっと二人で駅まで傘を届けに行くところだ。傘を受け取るのは誰だろう。パパのお迎えなら、ママが車で来るだろうから、これはママのお迎えだ。妹がママの傘を持ちたいと言ったのか。
 冷たい雨の中に、大きな傘を肩にかけて立つ二人を見ていたら、ほっこりとした気持ちになった。あの頃は世界で一番ママが好き。ママの笑顔が一番の喜び。
 そして、毎日忙しさにかまけているであろうママにとっても良い時代だ。直中にいる時には気づかないけれど、忙しい時が幸せな時である。
 踏切が開いて二人は駅の方に歩きだした。もうじき電車が着くだろう。ママが下りてきた時の子どもたちの顔が見たいと思ったが、私もそのまま車を出した。
 私の子どもたちも今頃は仕事を終えただろうか。都会の喧騒の中で何を思っているだろう。          (舞)

 庭に黄色い菊の花が二つ見える。重陽を過ぎれば残菊と言われるが、新年過ぎて咲いているなら超残菊と言うべきだろうか。朝、雨戸を開ける度に小さな花がまだあるのを確認する。冬の花の命は長い。
 小さな庭には、他に花がない。辛うじて、万両の実が赤い色を添える。葉っぱの下にある万両の実は、鳥に見つけられにくいから、千両や南天の実が鳥に食べ尽くされた頃でもまだ残っている。
 我が家の庭にはもう見るべきものがないので、よそ様の庭を拝見しようと散歩に出た。生け垣の山茶花は十一月から咲いているのにまだ花いっぱい。隣には椿の蕾が大きく膨らんで次の番だと待っている。
 向こうの家にたっぷり見えるのは青々とした枇杷の葉。枇杷晩翠という言葉のままだ。その木の高いところに薄茶色の花が付いている。咲いているのか終わったところなのかは遠くて分からない。たくさんあるので、たくさんの実ができるだろう。
 ずっと前に枇杷の種を蒔いたことがある。大きくて甘い枇杷にりっぱな実が入っていて、捨てるには惜しかったから。枇杷の芽が伸び、数十センチになったところで、屋敷に枇杷の木を植えるものではないと聞いた。
 桃栗三年柿八年、枇杷は早くて十三年。結局枇杷の木を引き抜いた。あの木を残しておけば、今頃枇杷の花を見られただろうに。     (舞)

 ずいぶん前になるが、プールのシャワーブースでウンチ騒動に遭遇したことがある。タイルに付いた汚れがウンチであるに違いないと、人が集まった。
 大人の女性だけが使用する場所なので、そんな汚れがあるはずはないのだが、大人の女性が使用する場所だから可能性があるともいえる。年をとれば、あちこち緩くなってもしかたがない。お湯で流せば済むことだし、踏んづけたわけでもないしと、集まった人たちは割合と寛容だった。
 翻って、世間をにぎわしている食品への異物混入について思う。プラスチックや金属片や虫が食品から発見されたというニュースが後を絶たないが、それはそんなに大きな問題だろうか。確かに食の安全は守られるべきだ。でも、事例の多くは小さなミスである。何年か前の毒餃子事件とは根本的に違う。
 野菜に付く小さな虫が離乳食に混入した件もあった。もちろん野菜をきれいに洗うことは重要だが、毒虫でなければ食べても問題ないのではないだろうか。ウニやナマコまで食べるのだから虫ぐらい……。虫も嫌う、農薬たっぷり野菜を使う方が危ないだろうと思う。
 ウンチにしろ、虫にしろ、自然なこと。清浄を求めすぎるのは間違っている。生きていれば必ず汚れる。ミスもする。自分の汚れに対すると同じぐらい、他人の汚れやミスに寛容でありたい。         (舞)

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