女の落書帖

 服を買うときは友達と出かける。似合う服は自分より友達が知っている。決断力の乏しい私には、誰か背中を押してくれる人が必要だ。
 「どう?これ似合う?おばさんっぽくない?」などと相談する。しかし、どう見てもおばさんの私が、おばさんでない服を望むのはおかしいかも。「もうお姉さんに見えるはずもないから、おばさんっぽい服でもいいかな」と言ってみる。「そうやね。おばあさんに見えたら嫌だけど、おばさんっぽくても仕方がないね。」
 子どもからお姉さんになって、おばさんになっておばあさん。女の人生で一番長いのがおばさんの時代だ。私は二十代半ばから、おばさんだと思っていた。今思うと、三十代半ばぐらいまでお姉さんと名乗ってもよかったような気がする。もったいないことをした。
 とはいうものの、おばさんになって生きやすくなった。おばさんなら突然話しかけても驚かれないし、思ったことを言っても非難されない。カッコよく見せるための無理も背伸びも無縁である。
 この素晴らしいおばさん時代も、いつかは終わりになる。さて、いつからおばあさんになるのだろう。腰が曲がってからだろうか。顔が皺で覆われてからだろうか。見知らぬ人から、「ちょっとそこのおばあさん」と呼びかけられる日がきっと来る。なるべく遅く来てほしいけれど。
         (舞)

 この地方では、八月の下旬に稲刈りが始まる。だから彼岸の頃の田んぼは、切り株から伸びた緑の葉でまるで植えたばかりのように見える。
 今年は夏に雨が多くて、お米のできが心配だった。幸いに、日照不足も大雨もそれほど稲作に影響がなかったのだろう。いつもの年のように、新米が食べられるようになった。
 肉も刺身も美味しいけれど、炊きたての新米ほど美味しいものはない。つやつやした白いご飯の上に、辛子明太子を一切れ乗せて、箸でほぐす。赤く染まったご飯を口に入れると、舌の上に幸せが広がる感じ。そう、秋の幸せだ。
 塩鮭も良い。うす塩の身の厚い鮭をふっくらと焼き上げる。ほぐした身と白いご飯を交互に口に入れ、口の中でちょうど良い味にして食べる。
 ご飯は、味の濃いおかずと混ぜた時が一番美味しい。つまり丼物が最高のご飯の食べ方だ。丼でない時には、口の中でご飯とおかずを混ぜて味わう。いわゆる口中調味である。口中調味をする民族は珍しく、欧米人には難しい食べ方だそうだ。和食の基本は白いご飯。口中調味は日本の文化であるともいえる。
 ご飯と合わせて美味しいものは他にもたくさんある。しぐれも塩辛も、新生姜の甘酢漬も良い。それから、塩鯖や秋刀魚の塩焼き、間引き菜の塩漬。日本の秋に、日本の文化を思い切り楽しもう。       (舞)

 毎日のように同じ道を通っていると、毎回同じ信号で止められる。長い信号待ちでは車のエンジンを切る。そして、周囲を見回すのが習慣となっている。
 側道から大きな道に入る信号の左側に、小さな空き地がある。一年に何回か除草剤が撒かれ、すべての草が枯れる。だが、数カ月経つとまた草が生えてきて、空き地は緑色になる。
 今は、カヤツリグサが全盛だ。線香花火が爆ぜたみたいな花が何十本も咲いている。春はヤブガラシの赤い新芽がたくさん出ていた。去年の秋はイヌタデの花の粒々で、ピンクに染まっていた。栄枯盛衰そのものである。
 その次の信号では、山を見る。経ヶ峰が見えたり、雲に隠れていたり。西の山にかかる雲は、天気が崩れる予兆だ。この夏は山が見えないことが多かった。九月になっても、すっきりした秋空に青い山という日が少ない。
 踏切では、列車が通り過ぎるのを待つ間、傍の耕作放棄地に注目している。春にはツクシやカラスノエンドウのような丈の低い草に覆われていた畑に、今はススキやセイタカアワダチソウの葉が見える。強い草が次第に数を増やしてきていることが分かる。
 この三ヶ所が私の定点観察の対象だ。紙に記録するではないものの、日々の変化、季節ごとの変化、年単位の変化を興味深く眺めている。(舞)

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