女の落書帖

 ポテンシャルという言葉を知ったのは高校の物理の時間。重力のある場において、高い位置にある物体はエネルギーを持っている。それが位置エネルギー(ポテンシャルエネルギー)である。例えば、ダムにある水は落ちることで発電機を動かすことができる。これは高い所にある水が持つ重力による位置エネルギーを運動エネルギーに変えた結果である。
 そして、位置エネルギーは、物体のある高さと物体の質量に比例する。高ければ高いほど、重ければ重いほど、エネルギーが大きい。物理の先生はそうおっしゃった。
 ところで、最近よく聞くようになったポテンシャルという言葉は、潜在的能力という意味で使われる。ポテンシャルが高いということは、高くて大きなダムに水が満々とある状態のように、仕事をする力が潜在するということらしい。
 ポテンシャル採用という言葉も使われる。即戦力となるキャリア採用に対して、まだ何の仕事もできないけれど、潜在能力が高く伸びそうな人材を採りたいという意味だろう。そこでポテンシャルを高める方法はと考える。物体を持ちあげて位置エネルギーを増やすように、潜在能力を高めたかったらやはり勉強などの地道な努力だろうか。興味や情熱のような心理的要素が必要だろうか。結局、高そうに見せるテクニックが重要かもと考えてしまう私である。(舞)

 働けど、働けど…ではないけれど、じっと手を見る。ちりめんのような皮膚の下を青黒い静脈がのたくっている。五ミリほどのシミが二つある。指は割合と長い。そしてペンだこがある。
 今どきペンだこを作っているのは、漫画家ぐらいではあるまいか。ワープロの普及で、ほとんどの人の手からペンだこが消えたのに、私の右手中指の第一関節の皮膚は硬く盛り上がっている。
 ペンだこができるのは、筆圧が強すぎるからだろうか。ほとんど字を書かない生活なのに、身に付いた癖のせいでたこが消えない。
 じっと足を見る。割合大きい。足の静脈は手のそれよりも細く見える。青黒くのたくっているのは同じだ。たこもある。座りだこである。
 右足のたこの方が大きいのは、正座のときに右を下にするからだ。幼い頃、板の間で正座をしてご飯を食べていた。だから未だにフローリングで正座をしてしまう。これも癖。たこは消えない。
 家事や仕事で動いている時には、自分を見る余裕はない。きょうは何にもすることがなくて、何にもしたいこともなくて、時間ばかりがある。自分に対する不安も家族や友人に対する心配も見当たらない。
 だから、何も考えないでじっと手を見る。まるで老人か病人のようだが、忙しくしてばかりでは人生がもったいない。無為な時間も良いものだ。      (舞)

 救急車の音が聞こえた。「誰かが心臓発作でも起こしたのかもしれん」と夫が言う。「ちょっとした火傷や切り傷で救急車呼ぶ人もいるよね」と私。何事も悪い方へ考えたがる夫と、楽観的観測が過ぎる私。
 「救急車の音を聞くと、今度は自分かなと思う」と夫は言う。「人はそう簡単に死なないもの。心臓の病気でも治療で普通の生活に戻れるわ」と私。考え方の違いは大きい。
 それでも終末期医療についての考えは一致している。自分に快復の見込みがなくなったなら、延命させるだけの治療は止めてほしい。死なない人はいない。死を受け入れなければならない時が必ず来るのだから。
 思わぬ事故に遭ったり、病勢が進んだり、高齢になったり、原因はいろいろだろう。その結果、意識もはっきりしないまま、何本も管をつながれ、栄養と水分を与えられて水耕栽培のように生かされるのはまっぴらだ。
 その時には、自分の意思も表わせないだろうから、夫婦で確認し合っている。先だっては、子どもにも伝えておいた。認知症になってしまったら、その意思を伝える事を忘れるかもしれない。早いにこした事はない。
 子供は神妙に聞いていた。「水耕栽培とはうまいこと言ったね」「そう、植物のように栽培されるがままになったら」まだまだずいぶん先の事だと思いたいが、いつかその日が来るかもしれない。 (舞)

[ 30 / 42 ページ ]« First...1020...2829303132...40...Last »