女の落書帖

 働けど、働けど…ではないけれど、じっと手を見る。ちりめんのような皮膚の下を青黒い静脈がのたくっている。五ミリほどのシミが二つある。指は割合と長い。そしてペンだこがある。
 今どきペンだこを作っているのは、漫画家ぐらいではあるまいか。ワープロの普及で、ほとんどの人の手からペンだこが消えたのに、私の右手中指の第一関節の皮膚は硬く盛り上がっている。
 ペンだこができるのは、筆圧が強すぎるからだろうか。ほとんど字を書かない生活なのに、身に付いた癖のせいでたこが消えない。
 じっと足を見る。割合大きい。足の静脈は手のそれよりも細く見える。青黒くのたくっているのは同じだ。たこもある。座りだこである。
 右足のたこの方が大きいのは、正座のときに右を下にするからだ。幼い頃、板の間で正座をしてご飯を食べていた。だから未だにフローリングで正座をしてしまう。これも癖。たこは消えない。
 家事や仕事で動いている時には、自分を見る余裕はない。きょうは何にもすることがなくて、何にもしたいこともなくて、時間ばかりがある。自分に対する不安も家族や友人に対する心配も見当たらない。
 だから、何も考えないでじっと手を見る。まるで老人か病人のようだが、忙しくしてばかりでは人生がもったいない。無為な時間も良いものだ。      (舞)

 救急車の音が聞こえた。「誰かが心臓発作でも起こしたのかもしれん」と夫が言う。「ちょっとした火傷や切り傷で救急車呼ぶ人もいるよね」と私。何事も悪い方へ考えたがる夫と、楽観的観測が過ぎる私。
 「救急車の音を聞くと、今度は自分かなと思う」と夫は言う。「人はそう簡単に死なないもの。心臓の病気でも治療で普通の生活に戻れるわ」と私。考え方の違いは大きい。
 それでも終末期医療についての考えは一致している。自分に快復の見込みがなくなったなら、延命させるだけの治療は止めてほしい。死なない人はいない。死を受け入れなければならない時が必ず来るのだから。
 思わぬ事故に遭ったり、病勢が進んだり、高齢になったり、原因はいろいろだろう。その結果、意識もはっきりしないまま、何本も管をつながれ、栄養と水分を与えられて水耕栽培のように生かされるのはまっぴらだ。
 その時には、自分の意思も表わせないだろうから、夫婦で確認し合っている。先だっては、子どもにも伝えておいた。認知症になってしまったら、その意思を伝える事を忘れるかもしれない。早いにこした事はない。
 子供は神妙に聞いていた。「水耕栽培とはうまいこと言ったね」「そう、植物のように栽培されるがままになったら」まだまだずいぶん先の事だと思いたいが、いつかその日が来るかもしれない。 (舞)

 生ゴミを出したら、手にひどい臭いがついて、せっけんで洗っても落ちない。一昨日捨てたイワシの腸が浸み出していたらしい。
 ゴミを出す時に、ポリ手袋を使えばよかった。分かっているのに、つい素手で仕事をしてしまう。百枚入り数百円のポリ手袋だが、手を洗えば済むところを使い捨てるのに気が引ける。ゴミも増えるし。
 使い捨て時代の直中を生きてきたのに、こんなところにエコ意識を持つ自分が厄介である。使い捨てカイロ、使い捨てコンタクト、紙コップ、使い捨てライター、使い捨てカメラまであった。
 医療器具や、食品関係では、使い捨ての方が清潔で安全であったりする。注射器やコンタクト、おしぼりや割り箸がその代表例である。
 利便性や経費節減を追及した結果だったりもする。食品トレイや弁当パックなどは、回収や洗浄の手間と人件費を節約できる。
 でも、社会は変わってきている。重大なのはゴミ問題だ。レジ袋も使い捨てだったが、今ではエコバッグ持参が買い物の基本姿勢となった。
 資源の少ない国で、使い捨てを標準としてはいられない。買わなければゴミが減る。作らなければ資源の節約になる。使い捨て製品の発生を抑える方向に進むのは間違いないだろう。昔のように鍋を持って豆腐を買いに行くような暮らしになるだろうか。   (舞)

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