女の落書帖

毎日使っているヨレヨレの枕カバーがとうとう裂けた。洗濯して洗濯して、柔らかくなった綿のカバーを、さらに裂けるまで使うなんて我ながら驚きだ。頬に当たる布の感触がお気に入りだったのに、さすがに捨てなければならない。
代わりのカバーを探して押入れを開けたが、気に入るものがない。買っても良いけれど、作ってみようと布を探した。布マスク作りから始まった私の裁縫熱はまだ冷めていない。
捨てようとしていた夫のワイシャツがある。その背の部分を使おうと思った。しっかりした綿ブロードの、少しくたびれた風合いが絶妙だ。
ファスナーやボタンで留めるようなカバーを作るのは面倒だから、ホテルなどで使われる封筒型にする。長い袋を作って枕を入れ、余った分を中に折りたたむ形式だ。
白地に青の縦じまと薄い水色のワイシャツの後ろ身頃でカバーの両面とする。長さの足りない分は縦じまの前身頃を横に使って長くする。枕を入れたときに折りたたむ部分となる。
デザインを考え、寸法をとって布を裁てば、工程の半分以上が終わっている。後は直線を何本か縫うだけで、ほどなく枕カバーが出来上がった。我ながら、なかなか良い感じ。
ここまで使えば、枕カバーもワイシャツも喜ぶだろう。物の命の最後まで使う。それが私のささやかなSDGsだ。               (舞)

あまりに気持ちのよい天気だったので、海風に吹かれながら海岸を歩いた。砂浜には浜昼顔がピンクの花を並べていて、「今日砂山にただひとり来て浜昼顔に聞いてみる」のフレーズが頭に浮かんだ。「君の名は」をリアルタイムで聞いたはずはないが、私は歌える。
口ずさみつつ歩いていたら、バケツを持った人たちに行き合った。潮干狩りのシーズンだ。海を見れば、潮は引き始めたところ。私は家に取って返して、潮干狩り道具とともに海岸に戻った。  この浜での潮干狩りは何十年ぶりだろう。子どもが小さい頃は、水遊びに来たり、潮干狩りに来たりしたものだ。もうずいぶん前から貝が少ないと聞いていて、潮干狩りしようとは思わなかった。
でも、このコロナ禍に出かけられるなら、貝の多寡など関係ない。海に入ってヤドカリや小蟹を見るだけでも楽しいだろう。風が通る。人がいない。バケツとクマデを持てば、おばさんが海で遊んでいても違和感はない。
しゃがみ込んで砂を掘る。ドンビが時々出てくる。一応バケツに入れる。小ぶりのバカガイも一応バケツに入れる。アサリはいない。目の前を三センチほどの蟹が横切る。すかさずクマデで通せんぼ。そんなことが楽しい。
食べるに至らぬものは海に返してやった。潮が良ければまた潮干狩りに行こうと思う。
(舞)

夏の花壇用の春蒔き草花の芽が大きくなった。そろそろ定植の時期である。夏の花はアフリカやメキシコなど熱帯や亜熱帯を原産地とするものが多い。マリーゴールドや百日草の派手やかな色が夏花壇を彩るだろう。
そして、もう一つ種を蒔くものがある。それはゴーヤ。ホームセンターに行けば夏野菜の苗がいっぱい売られているが、ゴーヤだけはずぶの素人でも種から育てられる野菜だと思う。このところ毎年、自分で採種したゴーヤの種を蒔いている。
ゴーヤの発芽にはある程度の暖かさが必要らしく、四月初旬に蒔いた年は月末まで芽が出なかった。四月下旬に種を蒔けば、十日ぐらいで芽が出るはずだ。
身近に安くりっぱな苗が売られているのに自分でゴーヤの種を蒔く理由は、ただただその成長を見たいがためである。種から芽が出て、花が咲いて、実になって、その実を食べたいがため。収穫したゴーヤが貧弱な実であったとしても嬉しさは格別だ。
人は何かを育てるときに喜びを感じる。子育てしかり、ペット育てしかり。子どももペットもいない場合は植物を育てよう。植物が芽を出し根を張り葉を伸ばし、忍耐の末に花を咲かせる。そして実を付け種を作る。それぞれが命をつなぐさまを見ていると、毎日の水やりさえも楽しい。私も生きていると実感できる。
(舞)

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