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へんろ宿は設備的には観光旅館と遜色ないものからお化け屋敷に近いものまで正にピンキリだが、宿側の人も含めいずれも個性的。普通の旅行では味わえない印象的なところが多い。
第6夜の宿は第2の難所20番鶴林寺(勝浦町生名・500m)21番太龍寺(阿南市加茂町・520m)に挑む前線基地の一つ『かえで』。建物は古く女将は卒寿90歳。7種類の薬を飲み病気の総合商社と笑う。
「眼がよく見えないし体力もない」と食事を作る客は3人まで。それ以上は素泊まりで良いなら受け入れる。運よくぼくらは3人の内に入り、翌日の昼食用のおにぎりも作ってもらえたが、この夜の客は4人。つまり4人目の60前後と思しき男性遍路は気の毒に夕・朝・昼の3食分食料持参の宿泊だった。
なるほどおっしゃる通り眼は良く見えてないのだなぁと痛感させられる出来事もあったが、知識は豊富で記憶力も凄い。父親の俳号は紅葉、宮中奏上に5回入選した。自身は和歌を詠み号を楓。宿名はそれを平仮名にした。父の句や自分の歌がすらすらと出る。続けて客を山菜取りに案内し滝壺に転落、36歳の若さで亡くなったという息子さんの歌も。そして「あの子はほんとうに感性が良かった」としみじみもらし、同じ言葉を何度か繰り返す。建物は老朽化、持病を抱える中で尚も宿を続ける理由が少し判ったような気がした。
7日目も小雨、寒い朝。めざす山頂は雲の中だ。7時、足元に注意しながら旧遍路道の細い山道を登る。新道との合流点の手前500mから更に急坂になり喘ぎながら一歩一歩進む。もう合羽の中は汗びっしょりである。1時間半ほどで2・2キロを登り切り、漸く鶴林寺に着いた。
次は麓の谷間まで落差460mを2・5キロで一気に下る。集落には大きく真新しい遍路小屋があった。先客が3名、隣家の庭に椿や梅、コブシの花が咲き美しいが、周辺には廃屋が3棟。トイレは少し離れた小学校のものが利用できるようになっていた。これも廃校である。雨のせいか人気と言えば鶴林寺から一人、二人と下りて来る歩き遍路ばかり。ここも限界集落なのかと複雑な想いがしたがトイレ休憩を兼ねてたっぷり20分も休ませて頂いた。
太龍寺までは上り4・2キロ。沢沿いの緩やかな遍路道。清流の水音と時折聴こえる鶯や目白の澄んだ鳴き声…疲れを忘れさせてくれる心地よい森の中を歩きながらも、この勾配ではとても4キロ少々で520mには到達できっこない、その内キツイのが来ると覚悟した。案の定、残り1・6キロで道の状況は一変。お杖の力を借りて休み休み登る。雨は次第に強くなり、登るにつれ気温も下がる。
山門まで数百m、麓の遍路小屋を5分ほど先に出発した同世代の浜松の夫婦が下りて来る。ぼくらより足が達者なのは確かだが、それにしても早い。声をかけると理由が判った。「寒くてとても上にはおれない」
12時38分、霧に霞む山門着。太龍寺は完全に雲の中だった。境内を進むに連れ急激に気温が下がる。手がかじかみ蝋燭線香に火をつけるのもままならない。勤行を唱えるにも口がうまく開かず、何を言っているのか自分でもよく判らない。納経所の隣の建物の軒下で弁当を広げる頃には雨は霙に変わった。温かいお茶はないか売店で尋ねたら、山門とは反対側数百mにロープウェイ乗り場があり、そこまで行けば自販機があるというが、往復する気力はない。止むなく女房は合羽の下にダウンの防寒着、ぼくはフリースを着込んで当座を凌ぎ、冷たいお茶でおにぎりを食べた。
霙は一層激しく、とてもじっとしておれない。体を動かし温めようと急いで下山することにした。山門の近くまで来ると強風、横殴りの霙で顔が痛い。凍え死にしそうだった。一刻も早く高度を下げるべく危険を承知で駆け足気味に遍路道を下った。1キロ進み標高300mほどまで来ると寒さは少し緩み、更に1キロで漸く息の白さが消えた。
宿まで後2キロ、足腰は痛いが人心地はつく。恐らく焼山寺は雪やろな…最初の試練に臨む人達のことが気になった。(西田久光)
2010年11月19日 PM 4:30
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