「義経の鶴巻坂」にて

 春先の天気は変わりやすい。それにしても前日の21度から一気に15度も下がり6度、おまけにまた雨。花粉症にとっては恵みの雨と言えなくもないが、やっぱり雨は辛い。6日目も「これも修行修行」である。

 徳島の市街地を抜け、源平合戦ゆかりの地、『源義経上陸の地』の立派な石碑を横目に18番恩山寺(小松島市)へ。この辺りの道は『義経ドリームロード』と名付けられている。雨はいよいよ本降り。これじゃ夢も希望もないとぼやきながら山門めざし急坂を登っている途中、下山してきた岐阜のおじさんと再会した。

 前日、井戸寺からは彼の先導で一緒に市街地に入った。途中、どうも方角が少しズレているように思ったが、この日は骨休めにと大幅にゆとりを取ってあったので余り気にせずのんびりと歩いた。結局、予定コースから2キロ近くも大回りしてしまった。今朝もぼくらより1時間も早い6時半に出発したのに「また遠回りしちゃったみたい」とこぼす。

 別れてから女房と二人で顔を見合せ、道をよく見失う(ロストする)『ロストおじさん』と綽名を付けることにした。ぼくらはこれが大正解であったことを、この日の内、それも1時間少々後に知ることになる。

 恩山寺から下山し、アスファルト道から牛舎脇を抜け奧の竹林へと続く地道に進む。雨に濡れた竹は緑が一層鮮やかに深みを増し美しかったが、道はひどくぬかるんで滑りやすい。これが『義経の弦巻坂』、峠を越えると『弦張坂』。坂下の説明板によると上陸した義経が平家方の伏兵に備え弓に弦を張った坂と安全を確信して弦を解いた坂だと言う。遍路道は義経の歩いた道と逆コースになっていたのだ。

 下りきるとまたアスファルト道、19番立江寺(小松島市)までは4キロほど。この辺りは路傍にやたら石造りの記念碑や顕彰碑が多い。そんな中で『お京塚』はひときわ異彩を放つ。江戸後期、大阪で芸妓をしていたお京さん、情夫と結託して亭主を殺し讃岐に逃亡後、悔い改めたと伝える。女房と二人「すごいなぁ」と妙に感心してしまった。歩き遍路は本当にいろんなことに出会う。

 立江寺まで後1キロ程、向こうからロストおじさんが歩いてくるではないか。途中休憩したどこかで忘れ物でもしたのかと思いきや「歩いていたら立江寺への道標が無くなり、20番鶴林寺に変わってしまった。どうもおかしい」と首をひねる。またまたロストしたようだ。「立江寺はこの先のはずですよ。一緒に行きましょう」と歩きだす。

 500mも行くとT字路があり、そこに直進鶴林寺・左折立江寺の標識。これを見落とし直進してしまいUターンしてからも再度見落としたようだ。ロストおじさん苦笑いである。

 一緒にお参りし、納経所で菅笠を取った。きれいに頭を丸めている。最後までやれそうな気がしてきたので昨夜ホテル近くの床屋で刈ってもらったと言う。さっぱりした頭を叩きながら「今日はちょっと涼しすぎるけどね」と笑った。

 ロストおじさんは岐阜県各務原の人。現役時代の仕事は商社マンと言ったところか。学生時代に山をやっていたこともあって、一度は歩き遍路をと思ってきたが、67歳の今になった。肺気腫にかかり最後のチャンスと決断。弟さんも歩き遍路をやりたがっており、自分がいわば先発隊とか。

 肺気腫なら大変だ。体調が心配である。「いや、まだ初期症状なので平地は全く問題ないですよ。山道の登りはゆっくりでないときついけどね。焼山寺がやれたから大丈夫でしょう」と屈託がない。

   ぼくら夫婦は立江寺の回廊の下で雨を避け、途中のコンビニで調達してきた昼食用のサンドイッチを食べることにした。ロストおじさんは弁当を持っておらず、どこかその辺の食堂で食べるつもりだと言う。

 「またどこかで会いましょう」。雨の境内で別れたが、『遍路で出会うも他生の縁』。向こう40日、何度も何度も再会再々会、時には同じ宿となり酒を酌み交わすことになろうとは、この時はまだ想像もしなかった。   

                                                 (西田久光)