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27番は海岸沿いの国道からほぼ直角に山中に分け入り標高430m。宿からは片道3・9キロ。この後、土佐ロイヤルまでの距離を合わせ13日目の行程は29・7キロ。神峯登山の往復を考えると結構きびしい。宿にリュックをあずけ頭陀袋だけの軽装で6時25分出発。空は曇っているが天気予報では雨の心配はなさそうだ。
体がずいぶんと軽い。お寺まで残り1・5キロ弱、最後の集落の道端にお菓子か何かの箱に入れたが一つ。「じゆうにたべてください」とマジックで書いてある。ご近所のお年寄りだろうか、平仮名ばかりの走り書きだが味のある字。これも歩き遍路へのお接待である。
いよいよ山登りに入る。は右に左に大きく蛇行しながら登って行くが地道の遍路道はこれをほぼ一直線に最短距離で突っ切って行く。当然そのぶん斜度はきつい。汗びっしょりになりながら登る。ラスト500mからは急勾配の車道に合流。車に注意しながら5mほどの道幅を目いっぱい使い、ジクザク歩行で足への負担を減らしながら山門に向かう。
道端の処々に楚々と咲く山桜はもう5分咲き、境内海側にずらりと並ぶ花桃はどの木も枝いっぱいに緋色の花。うっそうと茂る周囲の木々の緑を背景に一層鮮やかに際立ち眼をうばう。神々しく艶のある風景。
一角に岩の割れ目から流れ落ちる小滝『神峯の水』…土佐の名水と謳っているが、丸くてほんのりと甘みがある。看板に偽りなしのおいしい水だ。ひしゃくに一杯、二杯と立て続けに飲み体中に染みわたる。ひと心地をつけ、お参りした。
浜吉屋に戻ったのは9時35分。往復ちょうど3時間10分、ほぼ予定通り。ホテルまで残り22キロ。気を取り直しリュックを背負って驚いた。昨日まで連日当然のこととして背負い続けてきたはずがやけに重いのである。頭陀袋のみの長距離歩行は今回が初体験。「誰や鉄板を仕込んだのは!」女房が叫ぶ。『荷物はボールペン1本でも軽くせよ』の意味が漸くわかった。
11時10分、朝が少し早かったせいか腹が減り、安芸市の道の駅大山で早昼。例のごとく靴下を脱ぎ足を天日乾ししていると、60代半ばくらいのゴマ塩頭のおじさんが話しかけてきた。
岐阜の人。お遍路を長年の念願としながらも果たせぬまま先ごろ父親が他界。その供養と観光を兼ね3月7日から夫婦で車に寝泊まりしながら回っている。3月いっぱいかけてゆっくり旅するつもり。本当は歩き遍路をやりたかったが、知人に聞いたら一人で百万円かかったと言うので諦めたと。仰天である。豪勢な歩き遍路をする人もいるもんだ。ぼくらはその半分、それが相場と伝えると、今度は向こうが目を丸くした。
早めのお昼休憩がよかったのか、1時間で体力がぐっと回復、足取り元気に安芸市中心街をめざす。市役所をすぎ、少し行くと左手に広い公園。入口近くに真新しい公衆トイレ発見。道の駅を出て1時間半、ちょうど欲しかったところだ。女房より先に済ませ荷物番交替。入園時にはトイレ一直線で気がつかなかったが奧に岩崎弥太郎像。像高3m強、立派な髭をたくわえ羽織の裾を風になびかせながら、右手を横に大きく広げ、左手はぐっと着物の帯を握り、彼方を見すえる。植民地化の危機を乗り切り近代化に命を懸けた明治の男の気概が周囲を圧する。女房が用を終えたのでリュックを背負い、台座前でポーズをまねて1枚パチリ。
弥太郎気分で公園を後にしようとしたら、入口の植え込みの前に弘田龍太郎の曲碑があるではないか。彼は津で青春期を送った作曲家。安芸は3歳まで過ごした生誕の地だ。童謡の里づくり運動に早くから取り組み市内には10基の曲碑がある。公園の碑は『金魚の昼寝』。以前、四国太平洋側を車で旅した時に曲碑『叱られて』などを見て回ったが、この碑は初めて。作詞は、龍太郎が津の阿漕浦をイメージしたという『浜千鳥』=第1号碑、大山岬=と同じ鹿島鳴秋。センサーにふれると曲が流れた。
赤いべべ着たかわいい金魚……ほんわかノスタルジア。お遍路で聴く童謡もいいもんだ。 (西田久光)
2010年11月21日 PM 6:40