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季節は三寒四温、ひと雨ごとに春が近づく。下着は厚手・中手・薄手の長袖と半袖1枚を持ってきたが、土佐ロイヤルホテルのスタッフに尋ねたら山用品専門店モンベルの支店が高知駅から歩いて10分ほどのところにあるという。荷物を少しでも軽くしたいので、長袖は薄手1枚だけ残し、あちこちでもらって溜まってきたパンフ類と一緒に家に送り返すことにした。
遍路旅2度目の温泉で少し軽くなった足を更に休ませるべく、14日目は28番大日寺(野市町)にお参りしてJR土佐山田駅前のビジネスホテル・ダイワまでの16・8キロ。ゆとりがあるのでダイワに荷物を置いてから列車で高知駅を往復、モンベルで女房と半袖をもう1着ずつ調達し次第に暖かくなる先行きに備えることに決めた。
晴れ、朝から暑い。国道55号は昨夕同様、女子ゴルフ観戦客の車で渋滞。香南市に入り岸本神社から55号と並行する旧道を歩く。1キロほど行くと道端に美人画絵にの吹き出し『絵師・金蔵が歩いた町よ!』がついた看板。この地が土佐幕末の異端の画家、通称・絵金(1812〜76)ゆかりの旧赤岡町と気づいた。遍路地図帳はストイックにお遍路をするための必要事項しか記入されていない。それが却って新鮮なサプライズを生む。
絵金は高知城下の髪結いの息子。子供の頃から絵の才能を発揮。江戸で狩野派の前村に学び、と兄弟弟子。帰国後、土佐藩家老の御用絵師となるが事件に連座して町絵師、放浪の旅絵師に転落。しかしここからが絵金の本領発揮。土佐各地で庶民から求められるままに個性あふれる様々な絵を描いた。
中でも2m四方の屏風に仕立てた芝居絵はおどろおどろしさとユーモアを同居させ独創的。『』と呼ばれる絵金の強烈な朱色は魔よけとして珍重され、赤岡の商家はこぞって注文。八幡宮の宵祭には軒先に絵金の芝居絵屏風を飾っての灯で照らし、その前で三味の音にのせ義太夫語り。この伝統を現代に蘇らせたのが毎年7月に催される絵金祭り。町内に残る23点の芝居絵屏風を宵闇の中で披露し、芝居小屋・弁天座では町内有志による地歌舞伎が上演される。
少し歩くと今度は伊能忠敬『北緯33度33分』測量地点の碑。もうワクワクである。更に行くと時計屋さんのウィンドウに絵金の芝居絵を文字盤にあしらった絵金時計(掛時計)金6千円也。娘に電話すると「欲しい」というので衝動買い。店主の話では菅さんも絵金時計に惹かれて店に入ってきたとか。「絵金蔵(資料館)、弁天座にも寄って」の勧めには当然従った。
弁天座では映画上映中。これはパスだが姿のお兄ちゃんからチョコのお接待。向かいの絵金蔵は米蔵を改造したもの。真っ暗な蔵内に展示された芝居絵屏風を提灯片手に1点ずつ観る仕掛け。粋な見せ方だ。
ここで驚きの出会い!絵金蔵が所蔵する屏風絵23点の中に『勢州阿漕浦 平次住家』が。後で図録で確認すると津を代表する民話・阿漕平治を下敷きにした人形浄瑠璃『田村麻呂鈴鹿合戦』の4段目を、更に独立させた歌舞伎作品である。絵金は、禁漁区阿漕浦に投網を打つ坂上田村麻呂の家臣・桂平次を画面右肩に話の前段として小さく描き、中心に網にかかった宝剣をよこせと刀を手に平次に迫る次郎蔵、刀の柄に手をかけ応戦の構えの平次、子供を抱いたまま必死で間に割って入る平次の妻お春(実は田村麻呂の娘春姫)……動的場面を迫力満点に描く。江戸期、津の阿漕平治が形を変え全国区であった証拠。平治と土佐で出会えるとは……感激だった。
気がつけば赤岡で1時間余も道草。後ろ髪を引かれながら昼食抜きで先を急いだ。大日寺につく頃には雲行きが怪しい。3時、ホテルに着き天気予報を確認すると明日は雨。予定変更で30分休憩してから29番国分寺(国分)まで今日中に済ませることに。16・8キロの予定が22・2キロに延びたが国分寺はぎりぎりセーフ。そこからタクシーで最寄りの駅へ。高知駅・モンベルを往復して土佐山田に戻ったら8時を回っていた。(西田久光)
2010年11月21日 PM 6:46