衛門三郎と空海の像(杖杉庵)

 12番焼山寺から宿のなべいわ荘までは標高差460m、距離3・8キロで 急な山道を下り続ける。宿の客用ノートに「これは第7のへんろ転がしだ」と書いてあった。同感。しかも下り道では一番長くきつい。

 焼山寺の手前で逆打ちの中年女性に会ったが、第7のへんろ転がしを実際に下ってみて逆打ちの大変さが身にしみて判った。そのほぼ中間点、1・8キロ下った所に杖杉庵。弘法大師にすがる見すぼらしい男の銅像が建っていた。遍路開祖といわれる伝説の人物、衛門三郎である。

 一応事前の勉強で伝説を知ってはいた。しかし知識として知っていることと理解することは別である。焼山寺道で疲れ切った足、お杖の助けを借りて必死にブレーキをかけながら下ってきたことによって、三郎が遂にここで倒れてしまったことが肚にストンと落ち、素直に納得できた。

 伝説の大筋はこうだ。むかし、伊予国(愛媛県)荏原郷(松山市恵原町)に衛門三郎という強欲、酷薄な豪農がいた。ある日、屋敷の門前に粗末ななりの僧が托鉢に現れた。乞食坊主に恵んでやるものなんぞ何一つないと下男に命じ追い払った。僧は次の日も、また次の日も現れた。8日目、怒り心頭に発した三郎は僧が差し出す鉢を箒で叩き落とす。鉢は8つに割れてしまった。気がつくと僧の姿は消えていた。

 それからである。8人いた子供たちが次々と病におかされ死んでしまった。最愛の子供たちを全て失い悲嘆にくれる三郎は、あの乞食坊主が実は高名な空海上人であることを知る。自分の強欲から何と愚かなことをしてしまったのかと悔いた。せめて一言お詫びしたいと財産を処分し家人に分け与え、妻とも別れて上人の後を追った。しかし追いかけても追いかけても、昨日までここにいたと言う。まるで逃げ水だった。

 四国中を巡ること20回、それでも会えない。疲労困憊の三郎だが、後を追っているから会えない、ならばと21回目はこれまでと逆に回ることにしたのだが、焼山寺の手前で遂に病に倒れてしまった。死期が迫ったその時である。枕元に上人が現れた。三郎は泣いて詫びた。空海はお前は既に許されていると諭し、何か希みがあれば叶えると言う。三郎は来世は領主の家に生まれたいと告げ息を引き取った。上人は路傍の石を拾い『衛門三郎再来』と書いて彼の左手に握らせた。

 翌年、伊予国の領主・河野息利に長男が生まれた。左手を固く握って一向に開こうとしない。案じた息利は菩提寺の安養寺で祈祷してもらったところ手が開き『衛門三郎再来』と書かれた石が転がり落ちた。長じて領主を継いだその子は民のため善政を行った。寺は後に寺号を『石手寺』=51番・松山市石手=と改め、その石は今も寺宝として大切に保管されている。

 河野氏は蒙古襲来時、小船による奇襲作戦で一躍名をあげた瀬戸内水軍の雄。道後湯月城を拠点に伊予国の大半を治めた。熊野本宮大社で神託を受け、全国を行脚し踊り念仏を広めたことで有名な一遍上人も河野一族だ。道後温泉には一遍誕生の遺跡が伝わる。

 衛門三郎伝説は弘法大師の権威の誇示、あるいは河野氏の正統性を補完する説話と見ることもできよう。が、杖杉庵の碑文を読み進むうち、ぼくの胸に込み上げてきたものは、自身の罪業により子供を次々と失った三郎の深い悲しみであった。親の因果が子に祟り…言い古された俚言である。手垢のついた諺がなぜかひりひりと心にしみた。そして不意に思った。「俺も一人の衛門三郎なのだ」と。

 不思議だった。全く予期せぬ感慨であった。旅の感傷、単なる心のざわめきだと一蹴するには余りにも確かな感覚だった。

 銅像から少し離れて三郎の墓碑がある。女房と二人で手を合わせ、しばらくして杖杉庵を後にした。

  庵のすぐ裏の斜面は梅林だった。満開の梅の花で形づくられたアーチの下に遍路道は続いていた。芳香があたり一面に漂う。梅林を歩きながら女房が嬉しそうに声をあげた。「お大師さんからのご褒美や」

 少し心が軽くなった。

                                                                                                                                      (西田久光)