一宮城址本丸石垣

 4日目、鍋岩から13番大日寺(徳島市一宮町)をめざすには玉ケ峠越えが一般的だが、ぼくらはそのルートを避け、3キロほど遠回りの寄井~阿保坂~一の坂~大桜トンネルを抜けることにした。

   理由は花粉症対策。鼻腔に持参してきた薬を塗ったが昨夜の症状は第一級。それに大阪の重役タイプおじさんから「この先、長いトンネルを通ることが多いから排気ガス対策にマスクを用意した方が良いよ」とアドバイスを頂いたこともあり、遍路地図帳に店屋のない玉ケ峠越えではなく、マスクと昼食調達のためコンビニマークの記された神山町寄井に向かうことにしたのだ。

 天気予報はまたも雨。しかも所により大雨という。気温は高め予想なのがせめてもの救い。合羽姿でゆっくりめの7時半出発。既に雨はパラついていた。だらだら坂を3・5キロ下り国道438号に合流すると地図には載っていなかった小さな地元スーパーが眼に入った。そこでマスクとお昼用に重量の軽いサンドイッチと飲み物を調達。ここから大日寺までは20キロほどである。更に3キロほど進むと道の駅・温泉の里神山があり、トイレ休憩。

 ここからが長かった。前日のきつい焼山寺道の後遺症もあって足が段々重くなる。坂の勾配はそれほどではないものの、だらだらと長いアップダウンが続く硬いアスファルト道はボディブローのように容赦なく足を痛めつける。おまけにこれまで随所に設けられていた遍路小屋(休憩所)が全く見当たらない。お遍路さんにも一人も会わない。遍路のメインルートを外れるということはこういうことかと思い知らされた。

 小雨の中、ふたり無言でとぼとぼと歩いた。雨足はしだいに強くなる気配。早めのお昼が無難だが、雨宿りする所がない。一の坂の登り口付近で漸く小さなお堂を見つけ、その軒先をお借りすることにした。辺りに人影はなく、車もめったに通らない。長閑というよりも一種寂寞とした風景。お昼休憩20分。お礼に賽銭をあげ手を合わせてから再びリュックを背負った。

 大桜トンネルを通り長い下り坂に差しかかると大粒の雨、本降りになった。5キロほど先で県道を1キロはショートカットできる山越えの遍路道があるはずだが、道標が見当たらない。結局、県道を大回りして24・5キロで大日寺に到着、1時40分。

   ここで思いも寄らないものに出会った。遍路地図には全く載っていない。県道を挟み大日寺の向かいが阿波国一宮神社、その裏山が一宮城址…ここは津藩祖藤堂高虎ゆかりの地なのだ。

   天正13年(1585)秀吉の四国攻めの一環として一宮城の長宗我部元親軍と麓を流れる鮎喰川の対岸、辰ケ山に陣を敷いた豊臣秀長軍が対峙した。高虎はこの戦で堀の深さを測りに行き鉄砲で撃たれたが弾が金具に当たり命拾い。また夜陰に乗じ単身城中に忍び込み家老を命懸けで説き伏せ開城にこぎ着けるという大手柄を立てたと言う。

   長年の高虎ファンとしてはぜひ一度訪れてみたい地の一つだった。それがいま眼の前にある。これこそお大師さんからのご褒美、ご利益ではないか。

 大日寺のお参りを済ませ門前の名西旅館に入る。歩き遍路に人気の名物おばあちゃんに本丸跡までの時間を尋ねると往復40分。「この雨では…止めとけば」というが、これだけは聞けない。第一明日は明日の行程がある。女房を残し、ざざ降りの雨の中、標高144mの本丸をめざし急段とぬかるむ地道を登った。先程まであんなに重かった足が嘘のように軽い。

 倉庫跡、才蔵丸、門跡、明神丸に、明神丸と本丸をつなぐ帯曲輪、そして周囲に石垣を積んだ本丸跡。徳島県最大級の山城跡はしっかり遺構が残っていた。本丸の広さは200坪位か。

 降りしきる雨に煙る視界…眼下には一宮、大日寺、鮎喰川。正面に立ちはだかる辰ケ山、彼方にはおぼろに浮かぶ眉山。位置関係が少し判った。この雨では

遠景は写真にならない。しばらく止まっていた鼻水がまた出てきた。それでもお大師さんに感謝せずにはおれなかった。

                                                 (西田久光)