高野山奥の院参道にて

 4月19日、50日目。くもり。6時半徳島駅発。JR高速バス『阿波エクスプレス大阪号』で四国に別れを告げ、鳴門大橋、淡路島を抜け、8時50分JR難波駅着。雑踏するOキャットを通り南海電車で極楽橋駅からケーブルカーを乗り継ぎ高野山駅へ。ケーブルカーの車窓から横の急斜面を縫う細い参詣道が見えた。6日目、19番札所立江寺すぎの法泉寺バス停横の善根宿で一緒に休憩した大阪・堺の中年男性遍路が、お遍路の練習に歩き下りで転倒して手首を複雑骨折したと言っていた山道だ。自分が歩いた道ではないのに何故かなつかしい気がした。
  奥の院参道入口までタクシーに乗る。参道脇の大きな桜の木が枝もたわわに花を咲かせていた。振り返れば修行の道場・土佐に入って間もなくからほぼ40日、毎日桜の花見をしながら歩いてきた。寒さが厳しくはあったが、この春を襲った異常低温の恵みである。お礼参りの最終日まで満開の桜に迎えて頂くとは、何と幸せな旅だったことか。
  石畳の参道に入る。毎日早朝から夕方まで歩き続けてきたのに、今日はここまで難波で少し歩いただけでほとんど乗り物。足がいぶかしく思っていたのか、昨夜も右太股の芯が疼き疲労しきっているはずなのに、歩き始めると嫌いな堅い石畳なのに、『足が喜んでいる』のがわかる。足取りは驚くほど軽かった。
  共に歩いて頂いたお大師さんが眠る奥の院で最後の巡拝勤行をあげる。般若心経、この旅で好きになった光明真言、そして大師宝号と進み掉尾を飾る回向文。 「願わくばこの功徳を以って普く一切に及ぼし」
 ここまで声にして、全く予期せぬ熱く激しいものが唐突に胸の奧から吹き上がり、後段の「我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」がうまく言葉にならなかった。
 納経所で金剛峯寺へのお参りも勧められ、従い、昼食を済ませてから下山。
 帰路、近鉄難波駅のホームから伊勢中川駅5時33分着の特急と、家で待つ娘に電話を入れる。すると「今日、お父さん宛てに一番のお寺から郵便が届いたよ。中身は手帳みたい」と言うではないか。てっきりどこかの宿で落としたと思っていたら、何のことはない。頭陀袋の中のお参り用具がどこに何が入っているか全く頭に入っておらず、手順もよくわからなくて目を白黒、バタバタ状態でお参りした最初の霊山寺境内でいきなり落としていたとは思いも寄らなかった。
  手帳には当然住所・氏名を書いてある。それにしても50日のお遍路の旅を終えて帰宅するその日にドンピシャリで送り届けてくれるとは……。あまり記憶がはっきりしないが、出発の日と帰宅の日を手帳に書いてあったのだろう。恐らく御住職がそれを見られ、計算して投函して下さったのだろう。年明けからの歩きトレーニングの記録をつけてあるし、帰宅後の予定も既に少々入っていたので紛失には困っていたが、これで一安心。ありがたかった。さっそく今晩にも礼状をしたため、御本尊へのお供えの寸志を添えて、明日発送しよう。
  伊勢中川駅のロータリーには見なれたホンダFITが待っていた。後部座席には柴系雑種の『さと』。ぼくらの姿がわかると千切れんばかりに尻尾を振り、けたたましく犬語をまくしたてる。50日も留守にしたが忘れられてはいなかった。
 家につき、居間でリュックを下ろし、お茶を一服してから霊山寺からの手紙の封を切る。中から愛用の黒い表紙の薄い手帳。ページをめくり3月1日を見る。やっぱりお遍路出発の記述があった。次いで4月19日を見る。そこには何も書かれておらず、全くの空欄だった……。
  長年、打ち始めの一番札所としてお遍路に関わってきた御住職のこと、境内で誰かが拾って寺務所に届けてくれた日が、ぼくらの出発の日であることは分かり切った話。結願までの日数はおおよそ察しはつくだろう。そろそろかと見計らって送って下さったのだろうが、それにしてもドンピシャリとは……。歩き遍路の最後の最後にお大師さんから奇跡のような御利益を頂いたような気がした。(西田久光。1月単行本刊行)

結願証を手に…88番札所大窪寺にて

 49日目、4月18日、晴れのち曇り、遅霜注意報。今日で結願。宿から88番札所大窪寺(標高445m。さぬき市多和兼割)まで2・9キロ、そして循環路の輪をつなぐため18・2キロ先の10番切幡寺(徳島県阿波市市場町切幡)に向かい、お遍路2日目以来2度目のお参りをして鴨島駅から列車で徳島駅へ。最後の宿は駅前のサンルート徳島を予約してある。
 7時32分発。表に出ると息が白く、寒い。大窪寺との標高差は105m、ゆるやかに上る国道377号を歩き、じき体が暖まる。
 8時8分、新山門着。二階には高欄のつきの回廊、軒下に醫王山の金文字が光る大きな山門。険しい岩山を背景に建つ本堂は威厳があった。予想通り早朝でまだ人影はまばら。落ち着いた雰囲気のなか清々しく結願の勤行をあげることができた。それなりの感慨はあるものの意外と高揚感はなく、ごくごく自然な感じ。女房も同じようだった。
 納経所。前日頂いた完歩証があるから良いかと思っていたが、やっぱり女房と連名による結願証をお願いすることにした。金二千円也。これで一区切りがついた思い。ゆったり気分で境内を散策する。
 若い夫婦連れが、白地に『同行二人』と書かれた犬用上着を着たテリア犬を連れている。かわいい犬のお遍路さん。そばに寄るとウーと唸られてしまった。
 結願者たちが奉納したお杖がぎっしり何千本も詰まった宝杖塔。
 そして透明のケースの中で燃える原爆の火。
 「この火は、あの日、ヒロシマに落とされた原爆の火です。福岡県星野村の山本さんが叔父の形見として郷里にもち帰り大切に灯し続けてきたものです。核兵器廃絶の願いをこめ、ここに保存し永く人々の心によびかけています。
  1988年10月24日」と石板に刻まれていた。炎は小さく頼りなげで、一瞬にして数万人、事後を含めると14万人もの命を奪った悪魔の劫火の残り火というよりも、理不尽に殺された名もなき人々の一人ひとりの命の揺らめきに思えた。
 門前で旅館竹屋敷が経営する土産物店・野田屋で葛湯のお接待を頂いた後、9時8分下山。ここから途中県境を越えて徳島自動車道下まで日開谷川に沿って14キロ強の長い下り。進むにつれ前方の谷間の狭い空が扇が少しずつゆっくりと開くように徐々に大きく広がってゆく。山肌をおおう木々の緑も眼に鮮やかな若葉の新緑が次第に増え、大窪寺という一札所ではなく四国88カ所霊場という大山を登り終え、次第しだいに平地へ、町へ下りてゆく……そんな感慨に包まれる。
  11時20分、岩野トンネル手前の公園で早昼。1時過ぎ高速の下をくぐり、やがてうどん八幡の大看板が立つ見覚えのある交差点へ。11番藤井寺をめざして歩いた所だ。
  切幡寺まで2キロ弱。自販機の前に椅子とテーブルが置いてあり休憩していると、20代半ばくらいか、ロングヘアに菅笠ではなくキャップを被ったジーンズ姿の女性遍路が歩いてきた。徳島に住み数日ずつの区切り打ちを始めたところ。やけに大きなリュックを背負っている。荷物はちょっとでも減らした方がいいよと言うと「中身はほとんど空っぽ。スノボー用のリュックで友達の形見なんです」と。事故か病気か、恐らく恋人を亡くしたのだろう。ここにも供養のお遍路がいた。「明日は焼山寺まで行きたいけど天気が心配」。あの道は厳しいから雨なら次回に見送った方がよいとアドバイスさせて頂く。
 久々の切幡寺は日曜とあって車遍路で大賑わい。急な石段を喘ぎながらぞろぞろと登っている。ぼくらは「ごめんなさい」と声をかけながら隙間を縫ってスイスイと登る。お遍路2日目に苦労した333段を登り切って息も乱れない。足に不安を抱えている状態なのにこれはどうしたことか?2回目の、唯一比較できる場所に来て初めて、知らず知らずのうちにぼくらの足がいかに鍛え上げられていたのか、漸く気づいた。
 坂下の土産物屋で新品のお杖を1本買う。使ってきたお杖と並べたら15㎝も長い。やっぱり1200キロの道程は半端じゃない。
 ホテルの大浴場は温泉だった。湯船の中で足を揉みバネ指をストレッチ。49日間風邪ひとつ引かず、ぎりぎり耐え抜いてくれた体に改めて感謝。(西田久光)

87番札所長尾寺の大師堂相輪

87番長尾寺(さぬき市長尾)から結願寺の88番大窪寺に向かうには分岐合流で5ルートあるが、大別すると標高774mの女体山越えと410mの花折峠越えの旧遍路道の二つ。距離は旧遍路道の方が3キロほど長い。ぼくらは足に不安を抱え険しい女体山越えを避けた方が無難なこと。もう一つ、翌日朝一番の静かな境内で結願を迎えたいとの思いもあり、旧遍路道を行き、大窪寺手前3キロの温泉旅館竹屋敷に泊まることにした。道程は20キロ弱。
  48日目、前夜の天気予報では曇り、ところにより雨が残り、午後晴れだったが早朝から嘘のような快晴。部屋の窓を開けると、志度湾の向こうに頂上部分だけがビョコンと空に出っ張った八栗山、その左隣に台形の屋島が、柔らかな朝の光を浴びて並んでいた。両山とも結構高い。雨の中、急坂に耐えてくれた脚に改めて感謝だ。
  昼のおにぎり弁当を頂き7時6分発。志度寺門前で一礼して長尾寺をめざす。距離は7キロ、平坦な、ほとんどが車道。歩き始めてすぐ小柄なおじさんと東京からの中年女性遍路と一緒になる。この人もリピーター。3月12日から打ち始めたというから相当早い。途中、自販機でコーヒーを買っている間に二人に置いていかれた。
  9時着。長尾寺は真ん中にドーンと何もない空間。その片側に本堂と大師堂が並び反対側に納経所やトイレ。余りにも真ん中がぽっかり空き過ぎてちょっと間が抜け見える。恐らく火災か何かで真ん中にあったお堂を喪失したのかと思ったのはぼくの大きな勘違いだった。いつだったか、男たちが巨大な鏡餅を抱えて境内を走る神事をテレビで見たことがあるが、それがこの長尾寺。鏡餅運びを行うための空間なのだ。
 中年女性も小柄なおじさんの姿もない。素早くお参りを済ませもう大窪寺に向かったようだ。ぼくらは峠越えがあるとはいえ、長尾寺を終えれば後は12キロ強先の温泉宿・竹屋敷に向かうのみ。時間はたっぷりある。納経を終え、改めて納経所そばに並べてあったベンチに腰を下ろし、お堂と向き合ってみる。
 本堂も堂々として美しいが、それ以上に大師堂は何とも言えない座りの良さでゆったりとした美しさがある。ゆるやかな曲線を描きながらせりあがる屋根瓦の頂点から、雲ひとつない真っ青な空を指して凛々しく伸びる相輪……お堂の緩と相輪の急。緩急相まって青空に向かい天上的な音楽を奏でているようだ。光明真言の世界を体感した三角寺とはまた違った、溜め息の出そうな光景が眼の前にあった。
 48日の間、別格や番外も入れ優に100カ寺を超えるお寺を見てきた。が、昨日道の駅源平の里であった男性遍路ではないが、気が急いてどうしても先を急ぎ一つひとつのお寺をじっくり味わってきたとはとても言えない。もっとゆっくりと、土佐で血豆の治療法を教えて下さった奈良のご夫婦のように平均20キロ、60日ぐらいの設定の方がよかったのではないか……87番札所まで来て後悔してみても後の祭りである。この至福のひとときは、お大師さんからのご褒美だと思うことにした。お礼に堂宇修理の瓦を寄進させて頂いた。
 出発前にトイレに行く。窃盗注意の張り紙。納経所で聞くと稀にお軸などを盗られる人がいるとか。
 道はゆるやかに上り11時前、ダム湖畔の前山おへんろ交流サロン着。お茶のお接待、そして館長さんから『貴方は四国八十八ケ所歩き遍路約1200㎞を完歩され、四国の自然、文化、人との触れ合いを体験されたので、これを証すると共に四国遍路文化を多くの人に広める遍路大使に任命致します』と書かれた四国八十八ケ所遍路大使任命書を頂く。ぼくが1991号、女房が1992号だった。
 館内のお遍路資料展示室は江戸期からの様々な史料が展示され圧巻。ボタンを押すと各札所のランプが点く四国のジオラマは道程がよくわかって結構楽しい。
 この後、車遍路で賑わう向かいの道の駅の休憩室で弁当を広げたが、寒くてじき日なたに場所を移す。
 1時発。少し戻って旧遍路道へ。花折峠越えの道は今は余り通らないのか人跡に乏しい。急峻な山の斜面を一気に上り尾根伝いに小刻みに急なアップダウンを繰り返す。所によっては幅20㎝ほどの崖道。女体山越えだけでなく、こっちも最後の遍路転がしだ。3時54分、敷地のあちこちに名残りの桜が咲く宿に到着。男女両風呂ともぼくらが一番風呂だった。(西田久光)

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