2011年1月

七子峠へ…国道からの眺望

 中土佐町久礼の大谷旅館に着いて血マメを見ると左足小指が一層ひどくなっていた。夕食時、同宿した奈良の夫婦遍路から、針で穴をあけイソジンで消毒すれば翌朝には大丈夫ですよと教えてもらい、その上イソジンも貸して頂き治療。
 奈良夫婦は共に66歳。足に自信がないのでと1日20キロペースで1週間ずつの区切り打ち。今回は34番種間寺から始め、37番岩本寺(四万十町茂串町)で打ち止め、高知城の朝市を観て帰宅するとか。
  19日目、今日は岩本寺にお参りし門前の美馬旅館に泊まる22・3キロ。朝7時半出発。気温5度、日中最高14度の予報。前夜のイソジン治療が奏功して血マメ小指の調子は良好。左腿の付け根も良し。奈良夫婦のお蔭だ。一方、前日から始まった女房の右足中指の痛みは消えない。一難去ってまた一難。少し歩くと違和感は残るものの体がほぐれてきたせいか、普通に歩ける程度に痛みが和らぎ「大丈夫」と女房。ひと安心である。
 今日一番の難所、七子峠(標高287m)へは、国道56号。その東側を流れる大坂谷川に沿って古い集落を幾つか通り緩やかに上り最後の1キロほどで一気に高低差210mの急坂を峠まで登る大坂遍路道。国道の西側を通り高速の下を300段のコンクリ階段で抜け、そこから409mまで緩やかに登って七子峠に下る土佐往還そえみみず遍路道の3ルートがある。
 ミスター53のお勧めは古い集落のたたずまいに風情がある大坂遍路道。但し雨の場合は国道、もしくはいっそ1区間だけ鉄道に乗ること。寒いものの、幸い雲ひとつない快晴。ぼくらはミスター53の言に従い大坂遍路道を選ぶことにした。
 ところが久礼の町の出はずれから大坂遍路道をめざし百mも進まないうちに一台のセダンが横にとまり、年配の男性が降りてきた。お接待かなと思ったら、藪から棒に真顔で「この道はやめた方が良い」と言う。
 聞けば地元のお寺の住職で霊能者としても活動しているとか。ぼくら夫婦に悪い霊でもついているのが見えたのかと困惑……。が、ご住職の言うには、余り表沙汰になってはいないが、ここ1年ほどの間に4、5人のグループが遍路を襲って金品を奪い、時には婦女暴行まで働く事件が5件ほど発生。先月も襲われている。特に人家から離れ人気のない七子峠の手前が危ない。「大坂遍路道を行くのは絶対やめなさい」と。
 歩き遍路関係の書物の中には『へんろ狩り』への注意を喚起するものがある。遍路宿はもちろんのこと、地方のビジネスホテルもクレジットカードが使えない所が多い。従って歩き遍路は必ず何がしかの現金を持っている。どんな田舎にも郵便局はあるので、出発前に郵便局に口座を開き、行く先々で3日分程度ずつ引き出し旅を続けるのが鉄則である。所持金はせいぜい数万円と知れているが、それを狙う強盗や、遍路宿で同宿遍路の財布を盗むニセ遍路、窃盗犯がおり、この輩を『へんろ狩り』と呼ぶのだとか。女性遍路の中には安全のため山中の遍路道は避け車道しか通らないという人もいたが、ここまでの道中、へんろ狩りの被害者に会ったことはない。出没の噂も一度も聞かなかったが、遂に出た……。
 女房とぼくは顔を見合わせた。「婦女暴行は夫婦連れや男性が一緒についていても、前後から挟み打ちで襲い太刀打ちできない。旦那の目の前で奧さんが犯されている」と生々しい。
 ぼくらは旅の3日目に、『地元の人のアドバイスには素直に従う』というルールを作っている。そえみみず遍路道にすることにしたら、「いやいや、悪いことは言わない。この際、国道を行った方が良い」と。
 峠まで距離的には国道は両遍路道より2キロほど長く約8・5キロ。当然、全線舗装道で固く延々と上り坂が続くが、国道への分岐点まで戻ることにした。
 峠の七子茶屋で休憩。外に出たところで竜の浜パーキングで顔を合わせた東京からの男性二人組と再会。大坂遍路道を通ってきたという。へんろ狩りの話をすると驚いていた。下り5キロの遍路道を一緒に歩くことになった。 (西田久光)

海照らす…横浪スカイラインより

 自然は、そこに行けばいつでも見られる絶景もあれば、ほんの一瞬だけ鳥肌が立つほど神々しい貌を見せてくれることもある。
  18日目、今日の行程は中土佐町の大谷旅館まで29キロ。7時出立。女将に横浪スカイラインまで車で送ってもらう。左足の付け根の痛みは消えたものの血マメはやはり痛いし、今朝も寒い。空は薄曇り。波はなく穏やかな海原は全体に暗く沈んでいた。
 歩きはじめて15分ほど。不意に水平線の辺りだけが金色に輝き始める。次の瞬間、岬の岩礁の周りをはじめ海面のあちこちがそこだけスポットライトを浴びたかのように銀色に輝く。雲の切れ目からレンブラント光線のように光が射し込んでいるに違いないが、条光は見えずまるで海そのものがその深い水底から光を放っているかのようだ。
  それぞれの銀色の水面は見る間に広がったり縮んだり、音もなく移動したり、あるいは輝きを失って消滅したかと思うとまた近くに忽然とあらわれ光を放つ。その間、金色の水平線は微動もせず幾つもの銀色の水面だけが揺れ踊っている。
 慌ててカメラを取り出しシャッターを切る間にも、刻々と変わってゆく光の交響楽……。共に手をたずさえ国づくりに励んできた少名毘古那の突然の死を嘆き途方に暮れる大己貴(後の大国主)の前にあらわれた『海照らし依り来る神』とはこのような神ではなかったか──出雲神話が脳裏をよぎった。しばし陶然とその場に立ちつくす。「すごいなぁ」と言いつつも先をせかす女房の声で、我に返った。
 2時間で内回りルートと合流。更に小一時間、須崎の遍路小屋で休憩していると遠くからお鈴の音が近づいてくる。女房と顔を見合せ、表に出て確認するとやっぱり作務衣姿のミスター53。大きく手を振ると向こうも手を挙げて応える。一緒に休憩。思い切って他の遍路から聞いた情報をぶつけてみた。「鳥取のお寺の方?」「そうです」。女房がチョコレートをお接待するとお礼の納札を頂いた。初心者の白札ではなく金色である。『伯耆国(鳥取)無量寿庵主〇〇〇〇』と名前が書かれていた。
 霊峰大山の中腹に庵があり、毎年11月から翌年4月まで雪に閉ざされるため、その間、四国遍路に来ている。かつて日本一周、西国三十三霊場、熊野奧駈、果てはシルクロードまで歩いた。四国は若いころ27日の猛スピードで回ったことがあるが、今はゆっくり回っている。時速は平地も峠道も同じ4キロ。そして4キロごとに煙草1本の休憩、このペースが一番よい。お寺の通夜堂や集落の辻堂、善根宿に泊まりながらお遍路を続けている。
 ミスター53の勤行は全編声明か御詠歌のように悠揚とした節をつけ朗々と歌い上げる。隣で勤行していても思わず聞き惚れてしまうほどだ。師匠の天台僧から『お経は本来読み上げるものではなく歌うものだ』と教えられた。「この方が聴いてても気持ち良いでしょう」と話す。
 「何日で回る予定?」
  「女房と二人連れなのでゆっくりめの平均25キロペースで49日。50日目に高野山にお礼参りに行って家に戻る予定」と答えると「それは素晴らしい。人間は死後49日でこの世に別れを告げ、50日目に浄土に渡る。50日目に高野山に行って清い体でこの世に蘇る……いいプランだ」と喜ぶ。意図したわけではないが、これもまたお大師さんのお計らいかと嬉しくなった。
 15分ほど休憩して三人で歩く。女房も右足中指に異変が起こり痛み出す。ぼくの血マメは右足は痛みがほとんど消えた反面、左足は一層ひどくなっていたが、ミスター53からいろんなアドバイスを受けたり、道の駅の名物に一緒に舌鼓を打ったり、何かとしゃべることで気がまぎれ助かった。
  今夜泊まるというお堂の近くまで来て別れ際に、その足では焼坂峠遍路道より国道56号を歩いたらとアドバイスを頂き、これが大正解。旅館そばで会った男性遍路が遍路道は途中工事で通行止め、2キロも迂回。更に地元の人に教えてもらった近道がこれまた通行止め。エライ目にあったとぼやいた。  (西田久光)