2011年2月

海岸松林の間の遍路道…黒潮町入野

 21日目、今日は四万十川を渡り、土佐清水市東端の町、下ノ加江の遍路宿『安宿』までの31キロ。7時前出発。外は薄黄色の霧にすっぽり包まれていた。昨夜の激しい雷雨が運んできたのか、黄砂である。久しぶりにマスクをつけた。
  国道56号を海沿いに5キロ、道の駅ビオスおおがたを過ぎ、その先から入野の浜に降りる。3キロはあるだろう、遠く彼方まで砂浜が続き、浜と町とを大きな松林が隔てている。遍路道はその松林の中を2キロ近くも続く。空は道幅の分しか見えない。お陰で黄砂も気にならず浜街道を気持ちよく歩く。
 田野浦まで順調に来た。黄砂はしだいに薄れ、暖かい陽差しに包まれる。ここから四万十大橋までの6キロ、半島を横切る農道のような車道に入ると強風が吹き始め、またも逆風。おまけに登っては降り登っては降り、小高い丘を幾つも越えさせられ、足の消耗がきつい。その上、上りはまだしも下りになると左足小指に激痛が走る。2時間もかかってやっと四万十大橋にたどり着いた。
 ところが橋上はそれまでに輪をかけて強烈な横風。四国屈指の大河、四万十川の河口近くに架かり、当然川幅は広く橋長約1キロ。歩道幅はしっかりとってくれてあるものの、欄干は腰のあたりまでしか高さがない。強風でバランスを崩せばそのまま川に転落しそうだ。ぼくらは出来るだけ欄干から離れ、腰を落として踏ん張りながら車道側を必死の思いで歩く。後日、同じ日に四万十大橋を渡った女性遍路からも、「途中何度も欄干にしがみついた。あんなに怖かったのは初めて」と聞いた。
 大橋をどうにか渡り切ると、緊張の糸が切れてしまったのか疲れが一気に吹き出す。異様に重くなってしまった足を引きずりながら国道321号沿いのレストラン十文字に入ったのは12時半。奧のボックス席に坐る。女房もぼくもぐったりである。小指が痛む。久しぶりにカレーを食べ、コーヒーをいただき、やっと人心地がつく。
  そうこうしているうちに中高年の男女数名がやってきてカウンター席に陣取った。常連さんらしい。ママと世間話を始める。聞くとはなしに聞いていたら懐かしい「がいなもん」「行っきょる」という言葉が何度も飛び交う。
 修行の道場・土佐国に入ってから言葉の響き、アクセントが東紀州や志摩とよく似ていることに気づいていた。黒潮文化圏を再確認していたが、全く同じ方言には驚きである。いつしか耳をそばだて聞き惚れる。「まるで紀伊長島か尾鷲にいるような気分や…」うっとり漏らすぼくに、桑名生まれで津育ち、伊勢人の女房はクスッと笑って返す。
 進学のため紀伊長島を出たのは15歳。独り暮らしの母を津に呼び寄せてからでも既に30年が過ぎた。可愛がってくれた叔父や叔母はみんな彼岸の人となり、今や長島には従兄が継いだ本家と親戚があるばかりで、歳月を経るにつれ疎遠になってゆく。年に1度ゆくかどうかの墓参り、法事、時々でかける海遊びだけが、細々と故郷と自分を繋いでいる。
 なのにこの満ち足りた気分。お国訛りに似た言葉がごくごく自然に流れる空間の何と心地よいことか。眼を閉じて聞いていると、冬の日溜まりの中にいるようで、そのまま寝てしまいそうだった。
 名残惜しかったが1時半に出発。1時間の休憩効果か足はすっかり回復しており、更に不思議なことには歩を進めるに従い小指の痛みが引いてゆく。1620mの新伊豆田トンネルを通り抜けるころには、嘘のように消えてしまった。これが丸1週間苦しめられた左足付け根の不調、小指のマメ痛・血マメ痛から完全に解放された瞬間だった。
 4時過ぎ宿に到着。『安宿』の親父さんと息子さんは夕食時の団欒に加わり、「足摺岬までアップダウンの嫌な人は県道27号を行って」「80番札所以降は置き引きに気を付けて。特に軸は高く売れ、要注意」「靴紐は前から穴3つくらい外して歩くと楽」等々、ありがたいアドバイスを連発。『遍路宿いのち』のような人だった。      (西田久光)

黒潮町の佐賀公園

 3月20日土曜日、打ち始めてから20日目。いよいよ土佐清水市足摺岬の38番金剛福寺まで札所間距離最長の約87キロを歩く足摺コースに入る。今日は黒潮町伊田の『民宿たかはま』まで約28キロの道程。
 朝7時25分、美馬旅館を出発。天気予報は朝のうち曇り後晴れ。足の指の調子はまずまずだったが、国道56号のゆるやかな上り坂を進むうち、やけに足が重くなってきて、嫌な予感。
  5キロ地点で中国電力の資材置き場から市野瀬へんろ道へ。峠までの上りはどうと言うこともなかった。ところが、下りは急で嫌いな石畳。次いで最悪の小石道。旅の途中、ベテラン遍路からご教示いただいた下りの要注意は、表面は乾いていても下が濡れていて滑りやすい『枯葉スキー』と小石がコロの状態になって転ぶ『石車』……慎重に足を運ぶも一面に敷きつめられた小石を完全に避けるのは不可能。時々もろに乗ってしまう。転びはしなかったが、小石が当たるわずかな部分に体重がかかり、足の裏、特に小指に当たった時は激痛が走る。女房も足を痛めた模様。
 恐る恐るゆっくりと下っていた奈良の夫婦を追い越し、やがて遍路道を降りきる。そこに近くで工事をしいているのだろう、中山興業の現場事務所があり、脇に仮設テントの遍路休憩所を設けてくれてあった。トイレ休憩、そして痛みが再発してしまった左足小指を休ませるには格好の位置。ありがたく使わせて頂くことにした。
 小休止の後、国道、更にショートカットの遍路道に入り峠で趣のあるレンガ造りの明治のトンネル『熊井隧道』を抜け、再び国道に戻った少し先にスリーエフが見えてきた。ここまで18キロ、時刻は12時半。ちょうどロストおじさんが発つところ。ここもお茶のお接待があると教えてくれる。ベンチに腰掛けお昼を食べていると、美馬旅館に同宿した北九州のおじさん、ちょっとシャイなおじさん。そしてまたまたミスター53……やっぱり歩き遍路はスリーエフに集まってくる。
  大休憩で足がやや持ち直し、気を取り直して1時半出発。残り10キロ。半時間ほどで2日ぶりに海岸に出る。湾口に鹿島が浮かぶ鹿島ケ浦の海景は、国道下のあちこちに艶やかに咲き誇る満開の桜と相まって美しかったが、急に強い風が吹き出し景色どころではなくなった。夫婦とも足の状態が一気に悪化。佐賀公園でトイレ休憩している間に風は更に強まり、続く白浜地区はもう突風状態。菅笠を取りお杖を小脇に抱えて必死で歩こうとするが、ほとんど前に進めない。踏ん張るたびに足の小指が痛む。
 そこへミスター53が追いついてきた。強烈な向かい風に悪戦苦闘するぼくらを「井ノ岬トンネルを越せば風が変わる。そこまで後3キロぐらいだから頑張れ」と励ます。トンネル一つで風が変わるとはとても信じられなかったが、今はその言葉にすがるしかない。行く手をはばむ風圧と足の痛みに顔をしかめて耐えながらようようトンネルに辿りつく。すると嘘のように風が弱まり狐につままれたような気分。こうなると現金なもので痛みを忘れ、足が急に軽くなった。
 トンネルの中ほど。向こうから大学生風の青年が一人走ってくる。ぼくら3人を避けて手前から歩道を降り息を切らせながら脇を駆け抜けて行った。トンネルを出るとやはり風はなく、百mほど先に自転車を停め所在なげに立つ3人組。訊けば大学生。5人でツーリングしているが、少し遅れていた1人が風に煽られて転倒、怪我をして動けないのでリーダーが見に行ったのだと不安そうにいう。あの風でペダルを漕ぐのは難しい。降りて押すしかないが、早く仲間に追いつこうと無理したようだ。
 5時前、民宿たかはまにようやく到着。左足小指は水を持って哀れなジュクジュク状態。念のために途中で買ったイソジンで再度消毒。夕食時、宿の親父さんの話では、自転車事故に救急車が出て、消防から今晩1人泊められるか問い合わせがあった。その後、何も連絡がないからどこか確保できたのだろうと。強風が大敵なのは歩き遍路だけではなかった。(西田久光)

遍路優先のベンチとテーブル

 お遍路の旅の間、ほとんど毎日のようにコンビニを利用した。三重県内のコンビニには、店内に椅子やテーブルを置いた飲食用スペースを設けている店があるが、四国では一度も見なかった。そんな中でスリーエフやサークルKの一部店舗に店の前、あるいは横に遍路優先のベンチやテーブルを置いてくれてあるところがあった。これが実にありがたい。
 特にスリーエフは弁当などを買うとお茶の500ペットボトル1本をお接待してくれる店もある。また新店舗のトイレは車椅子対応でゆったりと広く、しかもシャワートイレ。日ごろシャワートイレが当たり前の生活をしている身には、くつろげて嬉しい限りである。このコンビニ、中部地方には進出していない。四国でも高知・徳島に多く、愛媛・香川では見かけなかった。てっきりローカルコンビニと思いきや本拠は横浜という。東京の友人から激励の電話があった時、訊いてみたら関東ではお馴染みの店らしい。ともかく、歩き遍路には一番人気のコンビニなのだ。
 七子峠からの遍路道を下りきり影野の遍路小屋で4人で小休止していると、前夜同宿のTさんがやってきた。そえみみず遍路道を通ってきたという。今日は金曜日、土日を控え懐が淋しくなってきたので、ぼくらは1キロほど先の郵便局でお金を下ろすため、3人に別れを告げて一足先に出発した。
 12時前、JR土讃線・六反地駅手前のスリーエフに入る。店舗横に『お遍路さん優先いす~巡礼中の疲れた足をお休め下さい』の表示があるベンチ、椅子、テーブル……ここで昼食をとることにしたのだ。
 広島焼風やきそば、おいなりさん、それにお茶のペットボトルを1本。レジでは若い男性の店員が応対した。お金を払うと「お接待です」と言ってお茶のペットボトルを2本差し出す。コンビニが店の稼ぎ頭の一つであるペットボトルをお接待!これには驚いた。伊右衛門を1本買ってある。昼食で2本も飲まないし、残れば荷物になるので1本でいいと告げる。が、店員は「いえ、一人1本の規定です。お二人ですので2本になります」と譲らない。杓子定規で弱ったが、『お接待は断ってはならない』のルールを思い出し2本とも頂くことにした。
 晴天。だけど日陰だと寒い。テーブルを日なたに移動させ、靴下を脱いで足を干しながら弁当を広げ、リラックス、リラックス。
 間もなく30過ぎの青年遍路がやってきた。初顔である。お茶のお接待情報を伝えると喜んで店に入り、ペットボトルと弁当を手に下げ出てきた。今回初遍路。3月5日に打ち始め。一日平均30キロペース、多い日には38キロ。さすが若い。足のマメが少し痛いと言いながらも、食事と休憩を合わせ20分で発っていった。
  続いて、前夜血マメの治療にイソジンをお借りした奈良の66歳夫婦が通りかかる。食事は2キロほど先の観光物産センター『ゆういんぐしまんと』でとるという。ベンチにちょっと腰を降ろしただけで先を急ぐ。
 入れ替わりに今度はミスター53到来。まだ朝食を食べてないと、スリーエフで朝食分のパン、更に非常食分を調達。お接待のお茶を飲みながらパンをかじり終えたら、『ゆういんぐしまんと』で美味しい仁井田米のおにぎりを買うと言ってそそくさと出て行く。
  ぽかぽかと日向ぼっこで気持ちが良いのと、次から次へ千客万来で話し込んでしまったのとで、お昼の休憩が1時間10分を超えてしまった。そろそろ出発しようと靴下を履いてるところへまたまた現れたのが、ロストおじさん。
 ぼくらは神峯寺で半日遅れ、桂浜にも寄り道しているので、もう完全に1日分は先に行っていると思っていた。実際、他の連中は1日先を歩いているが、彼は高知市で1日休養したのだとか。お互い懐かしい旧友にあったような気分。6日ぶりの再会を喜びあった。今日は岩本寺の宿坊に泊まるけど、足摺岬ではぼくらと同じホテル足摺園に予約を取り直すとロストおじさん。3日後の再会を約し、ぼくらは先に岩本寺をめざした。   (西田久光)