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21日目、今日は四万十川を渡り、土佐清水市東端の町、下ノ加江の遍路宿『安宿』までの31キロ。7時前出発。外は薄黄色の霧にすっぽり包まれていた。昨夜の激しい雷雨が運んできたのか、黄砂である。久しぶりにマスクをつけた。
国道56号を海沿いに5キロ、道の駅ビオスおおがたを過ぎ、その先から入野の浜に降りる。3キロはあるだろう、遠く彼方まで砂浜が続き、浜と町とを大きな松林が隔てている。遍路道はその松林の中を2キロ近くも続く。空は道幅の分しか見えない。お陰で黄砂も気にならず浜街道を気持ちよく歩く。
田野浦まで順調に来た。黄砂はしだいに薄れ、暖かい陽差しに包まれる。ここから四万十大橋までの6キロ、半島を横切る農道のような車道に入ると強風が吹き始め、またも逆風。おまけに登っては降り登っては降り、小高い丘を幾つも越えさせられ、足の消耗がきつい。その上、上りはまだしも下りになると左足小指に激痛が走る。2時間もかかってやっと四万十大橋にたどり着いた。
ところが橋上はそれまでに輪をかけて強烈な横風。四国屈指の大河、四万十川の河口近くに架かり、当然川幅は広く橋長約1キロ。歩道幅はしっかりとってくれてあるものの、欄干は腰のあたりまでしか高さがない。強風でバランスを崩せばそのまま川に転落しそうだ。ぼくらは出来るだけ欄干から離れ、腰を落として踏ん張りながら車道側を必死の思いで歩く。後日、同じ日に四万十大橋を渡った女性遍路からも、「途中何度も欄干にしがみついた。あんなに怖かったのは初めて」と聞いた。
大橋をどうにか渡り切ると、緊張の糸が切れてしまったのか疲れが一気に吹き出す。異様に重くなってしまった足を引きずりながら国道321号沿いのレストラン十文字に入ったのは12時半。奧のボックス席に坐る。女房もぼくもぐったりである。小指が痛む。久しぶりにカレーを食べ、コーヒーをいただき、やっと人心地がつく。
そうこうしているうちに中高年の男女数名がやってきてカウンター席に陣取った。常連さんらしい。ママと世間話を始める。聞くとはなしに聞いていたら懐かしい「がいなもん」「行っきょる」という言葉が何度も飛び交う。
修行の道場・土佐国に入ってから言葉の響き、アクセントが東紀州や志摩とよく似ていることに気づいていた。黒潮文化圏を再確認していたが、全く同じ方言には驚きである。いつしか耳をそばだて聞き惚れる。「まるで紀伊長島か尾鷲にいるような気分や…」うっとり漏らすぼくに、桑名生まれで津育ち、伊勢人の女房はクスッと笑って返す。
進学のため紀伊長島を出たのは15歳。独り暮らしの母を津に呼び寄せてからでも既に30年が過ぎた。可愛がってくれた叔父や叔母はみんな彼岸の人となり、今や長島には従兄が継いだ本家と親戚があるばかりで、歳月を経るにつれ疎遠になってゆく。年に1度ゆくかどうかの墓参り、法事、時々でかける海遊びだけが、細々と故郷と自分を繋いでいる。
なのにこの満ち足りた気分。お国訛りに似た言葉がごくごく自然に流れる空間の何と心地よいことか。眼を閉じて聞いていると、冬の日溜まりの中にいるようで、そのまま寝てしまいそうだった。
名残惜しかったが1時半に出発。1時間の休憩効果か足はすっかり回復しており、更に不思議なことには歩を進めるに従い小指の痛みが引いてゆく。1620mの新伊豆田トンネルを通り抜けるころには、嘘のように消えてしまった。これが丸1週間苦しめられた左足付け根の不調、小指のマメ痛・血マメ痛から完全に解放された瞬間だった。
4時過ぎ宿に到着。『安宿』の親父さんと息子さんは夕食時の団欒に加わり、「足摺岬までアップダウンの嫌な人は県道27号を行って」「80番札所以降は置き引きに気を付けて。特に軸は高く売れ、要注意」「靴紐は前から穴3つくらい外して歩くと楽」等々、ありがたいアドバイスを連発。『遍路宿いのち』のような人だった。 (西田久光)
2011年2月17日 AM 4:54