2011年3月

ジョン万ロード中ノ浜大橋

23日目、朝から雨。女房は頭が痛いという。二日酔い?本人は風邪と否定するが……。いずれにせよ疲れているようなので無理をさせないことにした。
 今日の行程は当初の予定通り足摺岬西回りで民宿竜串苑まで27キロ。6時40分朝食。ロストおじさんに昨夜の非礼を詫びる。彼は打ち戻りルート。女房は10時までホテルに留まり、土佐清水市街までバスとタクシーを乗り継ぎ、昼に郊外の海の駅あしずりで合流。午後、再びタクシーで民宿に向かうことになった。
 7時25分、合羽に菅笠、お杖の軽装で女房に見送られてホテルを出発。初めての一人旅だ。ここまで出会った夫婦遍路はなぜか皆さん奧さんが先導。女房は前は後ろから追い立てられるようで嫌とぼくを先に行かせたがった。結果、ぼくは絶えず後ろを気にしながら歩くことになる。その点、一人旅は自分のペースだけで歩けるから気楽。と、その時は思ったのだが……。
 松尾で山越えの遍路道を通ったほかは海岸線の山腹を通る県道『ジョン万ロード』を進む。中ノ浜大橋から眼下にジョン万次郎の出身地、中ノ浜が見えた。意外と大きな集落だ。雨は小雨と大降りを繰り返すが、快調に進む。ただ西回りルートを行く遍路は2割程度と少ないせいか遍路小屋がなく、休憩は道端で立ったまま。これは辛かった。
 市街地に入る橋の手前で女房の乗ったバスに追い越される。更にスピードを上げるやじきに足が重くなった。一人旅で知らぬ間にオーバーペースになっていたのだ。完全にエネルギー切れ。バス停の屋根付き待合所を見つけ、やっと座って休憩したものの回復せず、海の駅まで残り6キロに2時間もかかって前半のハイペースを帳消し。11時半、やっとの思いで道の駅にたどりついた。旅をここまで続けてこれたのは、女房の存在が自然とブレーキ役を果たし、時速4キロの安定ペースが維持されてきたからだと思い知らされた。
 海の駅でミスター53とまたまた再会。地元の老夫婦と食事をしていた。知人だという。一昨日の民宿たかはまの手前の辻堂でも地元のお年寄りが到着を待っていて「おお、来たか!」と手を振って出迎えていた。歩き遍路53回ならではの四国人脈。さすがである。
 女房と鯖カレーを食べ、たっぷり1時間半休憩をとって午後1時、本降りの雨の中を再び一人旅。
 松崎海岸に出た時だ。1キロほど沖合に50隻ほどの漁船が群れていた。船に大きな動きはない。こんな雨の中いったい何の漁をしてるのだろう……。少し行くと道端の空き地に双眼鏡で沖を見るおじいさんと隣で傘をさすおばさん。消防の車も駐まっている。嫌な予感がした。「何の漁?」恐る恐るおばさんに聞いてみた。「漁やとええがよ。捜索よ」「漁師が船から海に落ちて昨日から捜索しとるが、今やっと見つかった」おじいさんが補足した。
 消防士が一人、車から出てきて同じように双眼鏡を覗く。空き地の向こうは小さな漁港だった。「ここに伝馬も運ぶかよ?」「そうじゃろのぉ……」
 遭難した漁師の遺体と小船(伝馬船)をここの港に曳航してくるらしい。二人の会話は沈痛で重苦しかった。ぼくにはかける言葉もなく、二人から少し下がって呆然と立ち尽くすばかりだ。雨は降り続く。漁船群は依然として動かない。ぼくは沖に向かって合掌し、二人に頭を下げ、その場をそっと離れた。
 少し行くと昭和21年の南海地震で隆起した奇岩『化石漣痕』が続く海岸。立ち止まり、沖合に眼をやると漁船群が一斉に動き出し、思い思いの方角に散っていった。もう一度、合掌。
  宿で漁民遭難を話す。女房はバスの中で運転手と乗客が話すのを聞いて知っていた。それによると、亡くなったのは幼子のいる若い漁師。足摺岬9キロ沖合で漁をしていた。風が出てきたので近くの港に避難しようとしたが岬の波が高く、止むなく迂回して別の港に向かう途中、連絡が途絶えた。遭難海域は黒潮に近く流れがあるため、遺体があがるのは極めて稀という。
 亡骸は遺族のもとに帰った。それがせめてもの救いか……。   (西田久光)
 

へんろ小屋「心のふるさと金平」

 歩き遍路の頼りは地図帳と道標、それに電柱やカーブミラーなどに貼ってある矢印付きの遍路シール。だいたい眼の高さの位置にあるが、疲れてくるとどうしても目線が下がり見落としてしまう。これが道を間違える最大の原因。ただ道標の中には稀に表示が曖昧(ひょっとすると悪戯かも)で迷ってしまうこともある。
 窪津から津呂に向かう途中、県道27号の脇の遍路道から顔の半分が隠れるような大きなマスクをした40代後半くらいの小柄な女性遍路が出てきた。キョトンとしている。以布利の公園で休憩する直前、ぼくらの数十m先を歩いていた人だ。金剛福寺から打ち戻したにしては早すぎる。
 「遍路道の標識どおりに来たはずなのに戻っちゃった。ウッソォ!なんで!」
 岐阜の人。区切り打ち。ここまでは一人旅だが足摺岬の宿で友人と合流し残りは二人旅とか。足が遅く時速3キロなので一日20キロ程度しか進めない。「それなのに逆戻りとはひどい…」と落胆するやら怒るやら。
 なぐさめて一緒に歩く。確かに遅い。次第に離れてしまった。
 しばらく行くと満開の桜の木の下にへんろ小屋『心のふるさと金平』。宿泊可の善根宿(無料)である。軒先に縁台、テーブル、籠の中に柑橘、灰皿、流し台や洗濯機、別にトイレ。屋内には小さなお大師さんの像も祀ってあり、冷蔵庫、食器、畳、布団、椅子とテーブル、柑橘、ストーブまである。トイレをお借りして休憩していると軽自動車が停まり、降りてきたおじさんが金平さんご本人。新しい家を建てたので、ここをへんろ小屋にした。「柑橘でも食べてゆっくり休んでいって」と言い、屋内をざっと見渡すと風のように去って行った。善根宿を個人で提供することに何の気負いも感じられない。感心させられた。やがて岐阜のマスク姉さんも到着した。
 3時5分、足摺岬のアメリカ漂流・中浜万次郎(ジョン万)像前着、小休止。そこへママチャリ(家庭用自転車)でツーリングの大学生4人組。女房が自転車転倒事故の情報を伝え、強風の時は押して進むようにアドバイス。ミスター53ではないが、旅の者同士、出会えば自然と親近感がわいてくるから不思議である。
 金剛福寺の納経所では、お寺からの歩き遍路へのお接待として『人生のあゆみ守』=非売品=をありがたく頂いた。
 4時、7年ぶり、懐かしのホテル足摺園に入る。風呂でロストおじさんと裸の再会。夕食を一緒のテーブルでとることを約束。先に部屋に戻り、すぐにフロントにそのむね連絡した。
 テーブルには魚介を中心に食べきれないほどの料理が並ぶ。ぼくのお接待で生ビールを二人分頼むことにした。すると酒がほとんど飲めない女房が珍しく「私も欲しい」と言い出す。友人たちが主催してくれた結婚式の披露宴で調子に乗って飲んだら腰が抜けて椅子から立ち上がれず、抱えて借家に帰ってから吐すこと吐すこと……。よほど懲りたのか、あれ以来たまにちょっと口を付ける程度だった。「やめといたら」と注意したが、「今日は気分が良いから」と中ジョッキを頼み再会を祝し三人で乾杯。
 話も弾み、そこまでは良かったが、そのうち眼を閉じフーと椅子にもたれる。しばらくするとシャックリが出て、何やら手も痙攣している。シャックリが止まると、今度はイビキをかき始め、これはもう完全におかしい。「大丈夫か」と声をかけるやテーブルの上にブハッーと嘔吐をまき散らす。二度三度、それでも眼を開けず痙攣を繰り返す。慌てて女房の背中に回り、喉に吐瀉物が詰まらないように気道を確保。仲居さんを呼び雑巾を頼む。飛んできた仲居さんも仰天しオロオロしている。口の周りを拭いている間に痙攣は収まり、水を飲ますと意識が戻ったが開けた眼は虚ろ。
 とんだお接待になったことをロストおじさん、そして仲居さんに詫び、女房を車椅子に乗せて部屋に運んだ。意識が正常に戻ったのは1時間くらい後。「飲んでからの記憶が全くない」と本人。旅の疲れが一気に吹き出したのだろうが、それにしても寿命が縮む思いだった。  (西田久光)

迫力のジンベエ…土佐清水市以布利

  3月22日晴れ。風は弱く気温も寒からず暑からず、打ち始めて2回目の穏やかな日。6時35分出発。
 『安宿』から38番金剛福寺(土佐清水市足摺岬)まではへんろ地図帳では22・4キロとなっているが、安宿の親父さんは「あれは誤り、28キロある」と主張する。距離はコースの取り方で変わってくる。どちらも正しいのかも知れない。
  足摺コースは距離は長いが変化に富む。心理的には単調で直線の多い室戸街道よりはるかに楽である。
 久百々の町を抜け、大岐の砂浜を渡り、以布利に入る。9時33分、漁港近くの小公園でトイレを済ませ休憩していると、小柄なおじさんが話しかけてきた。
 「どこからきた?」
 「三重県津市」
 「津市?三重県は鈴鹿サーキットとシャープの亀山しか知らんな」
 「県庁所在地です」
 「ふ~ん」
 「三重県には神宮がありますよ」
 「そうそう伊勢神宮、行ったことある」
 津はおろか、お伊勢さんまで影が薄いのにはちょっとがっくり。
 「せっかく、以布利に来たんやからジンベエザメを観て行け。すぐそこでタダで観れる。昨日は愛知県の豊田市の女の人が観ていった。三重県は愛知県の隣やろ、観てかな損や。わしが案内したろ」
 有無を言わさぬ勢いである。愛知県人が観たからと言って三重の人間も観るべきとは変な理屈だが、確かにこれは観なきゃ損だ。ぼくは『サカナへん』を自称する海人族の末裔。ではあるが、生きているジンベエザメに未だお目にかかったことがない。またとないチャンスである。公園の横にじんべえ広場と看板の掛かった建物があり、その奧が大阪海遊館海洋生物研究所以布利センターだった。
 「三重県から来たお遍路さんや、ジンベエみせてやって」おじさんはセンターの女性職員にぼくらを得意気に紹介し終えると、悠々と引き揚げる。集落の中の遍路道を通る歩き遍路をつかまえては自慢のジンベエザメに案内するのが日課のようだ。ここにもふるさと大好き人間がいた。
 31m×19m、水深5mの大水槽に付近の海で捕獲された雌雄2匹、いずれも5mを超す巨体のジンベエ、それにマンボウがゆったりと泳いでいた。ジンベエは海遊館随一の呼び物。こんな所にスペアが用意してあるとは知らなかった。地元貢献の一環だろう、通常月一度の無料公開を、NHK大河ドラマ『龍馬伝』関連イベント期間中、毎日無料公開の大サービスである。
 10時から給餌タイム。これも観なきゃ損である。元々観光用に造られた建物ではないので見学スペースは狭い。そこに家族連れが次々と入ってきて30人ほどでいっぱい。餌はイカ。スコップで水面に投げ入れられる。その刹那、満を持していたジンベエは大きく口を開けグァバッ!と音を立てて海水と共に丸ごと一気に吸い込む。「バキュームや!」女房が目をむく。魚体を縦にして水面を睨み、再びグァバッ!ジンベエの食餌は豪快そのものだった。そこへいくとマンボウはおちょぼ口で、チュパチュパと赤ん坊が哺乳瓶の乳首をすするよう。この対照が実におもしろく見飽きなかった。おじさんに感謝だ。
 ついでに活気のある魚市場も覗き、都合30分も道草して出発。以布利の町を抜け、地磯の遍路道を通り峠を下っていると、登ってくる群馬のおばさんと再会。神峯寺のふもとの遍路宿浜吉屋以来9日ぶりである。既に金剛福寺を終え39番延光寺(宿毛市平田町)に向けて、足摺岬西回りの竜串・月山コースより20キロほど短い東回り打ち戻りコースを選び、戻って来るところだった。浜吉屋では膝が痛いと言っていたが、何とか大丈夫のようだ。
 ジンベエザメ情報を伝える。彼女は往きに見逃していた。あのおじさんと出会えなかったのだ。「ありがとう。ぜひ寄ってゆくわ」と元気に手を振って遍路道を登って行った。
 11時5分、県道27号から窪津漁港手前の地磯に降り磯の匂いをたっぷりかぎながら昼食。ここまで来れば残り10キロ弱、サンドイッチがうまい。(西田久光)