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2011年4月
切り通しを越え少し下った坂の途中、銀海を背にドライブイン・ビーチが建っていた。普通のドライブインに宿泊施設がついたものを想像していたのだが、緋扇貝直売所と食堂と遍路宿を兼ねた飾り気のない箱型の建物。波打ち際まで落差70mはあるだろうか、ほぼ断崖の上。建物は古いが眺望は素晴らしい。
硝子戸を開ける。60代後半か、小太りで顔の色艶がいかにも健康そうなお母ちゃんが「まずはコーヒーでも飲んで。後で部屋に案内するから」と食堂の座敷に上げられた。壁に一枚の写真が飾ってある。貨物船か何か難破したそこそこ大きな船の救助作業の様子を撮ったもの?日付は10年ほど昔だった。
年明けに熊野灘の七里御浜で座礁フェリーを見てきたばかり。気になってお母ちゃんに聞くと、外国船が近くで座礁。緋扇貝を養殖しているビーチの斜め下の小さな入江に曳航し船体に開いた穴を水中溶接で塞いだ上で船内の浸水を排水。「噴水のように凄かった。保険会社の人なんかも来て、結構もめたみたいだけど」と。話はこれで終わらない。
修復作業が終わるまで10日ほどかかった。入国手続きなどの関係で船長以下フィリピン人乗組員らは上陸できず船に閉じ込められたまま不安な日々を過ごす。あまりに気の毒だと何日かたった夜、同じ海の男としてビーチの親父さんが夜陰に紛れて小船を出し、船員たちを店に招き皿鉢料理を振る舞った。「船乗りは世界中どこに行っても嫌われ者。こんなに親切にしてもらったのは初めてだ」と船長は涙を流して喜んでくれたと。既に時効だろうがこれは違法。しかし、お母ちゃんの顔には『それはそうかも知れんけど、うちの夫は人間として間違ったことをしていない。私は誇りに思う』そう書いてあった。
夕食時、その親父さんに会えた。長年連れ添った夫婦は顔が似てくるとか。体型も顔の色艶も笑顔も二人はそっくりだった。昭和5年生まれ……驚きである。
10年がかりの試行錯誤で人工栽培に成功したトサカノリ(鶏冠海苔)。やわらかさの中にも腰のある独特の食感。更にこの海苔を漬け込んで作ったビーチ特製の酢。とろりとして甘みがあり、海藻はもちろん野菜のドレッシングにもぴったしの健康酢。口の中に海が広がる。ネット通販もしており好評という。さもありなん。餞別を頂いた人たちへのお返しと自宅用に、お遍路を終えて帰宅する頃に合わせトサカノリと特製酢を20セット送って頂くことにした。
親父さんと二人でビールが進む──緋扇貝は元は3色だが今は交配で10数色ある。何万個かに一つ、表と裏が逆の貝が出る。明治時代に姓を付けるのに近くの地区では鯖、鰹、鰺、鱸など魚の名前をつけた。また別の地区では大根、葱など野菜の名前を。織田、黒田など戦国武将から採った所もある。平成の市町村合併で由緒ある『御荘町』の町名が消え歴史的根拠のない即物的な『愛南町』になってしまったのが残念。親父さんは元教員。子供に怪我をさせる教師がいるが、あれは教育としての体罰ではなく頭に血がのぼっただけの喧嘩、等々……話が弾んで気がつけば時計は9時を回っていた。就寝時間だ。
翌朝、27日目。今朝も寒いが快晴。海の彼方にうっすらと九州が見えた。距離約100キロ。右側が大分県佐伯、左側が宮崎。かつてはこっちから船で九州へ商いに行ったし、向こうの漁師が漁に来たり交流していたと親父さん。
座礁した船を修理した眼下の湾を抱き岬に延びた緑の山肌のあちこちに名残の桜およそ一千本。「桜はもう終わりだけど、雑木が多いのでこれからいろんな花が咲く。新芽も出てきて賑やかになり、山が笑う。海もこれから青が次第に濃くなり、夏には黒潮が入って来て一層深い濃紺になる」
前夜の続きのような愉しい朝食を終え、お母ちゃんに会計を頼む。レシートをもらった女房が首をかしげ「夕べのビール代が落ちてますけど」。するとお母ちゃんは言った。「いいのいいの、お父さんは『年金持ち』だから」……おまけにお昼にと赤飯のおにぎりまでお接待。ビーチのお父ちゃんとお母ちゃんは最高だった。 (西田久光)
2011年4月28日 AM 4:57
26日目、今日で修行の道場・土佐国を終え、松尾峠越えで菩提の道場・伊予国愛媛県に入る。
行程は宿毛のビジネスから伊予最初の札所、40番観自在寺(愛南町御荘平城)まで18・6キロ、そこから今夜の宿、室手海岸のドライブイン・ビーチ(同町御荘菊川)まで8キロの計26・6キロ。距離的にはぼくらの平均ペースより少し多い程度だが、国境の峠越えなので険路を警戒して6時20分の早出。天気は4日ぶりの快晴。ありがたかったものの気圧配置は真冬に逆戻りの西高東低。一歩外に出たら吐く息は真っ白だ。
じき大通りのローソン前でロストおじさんと再会。「峠に向かう遍路道は大通りを越えて脇道に入るはずだけど工事でどう行けば良いのか判らない」と困惑している。辺り一帯は大規模な道路工事中。早朝で作業員の姿はなく、地図帳を広げて見ても確かに判然としない。「多分この道だと思う」と半ば当てずっぽうで向こうの脇道を指す。だけどロストおじさんは明らかに疑いの眼。脇道の100mほど先に地元民らしき人がいる。「あの人に聞いてみるから」と彼を残し、女房と二人で急いで道を渡って聞いてみたら大正解。じっとこっちの様子を窺っているロストおじさんに向かって頭上に両手で大きく丸を作りOKの合図。ようやく彼も動きだした。
標高50mの小山を一つ越え、宿を発ってから1時間少々で松尾峠麓の松尾坂番所(関所)跡に着いた。説明板にこの旧街道は「伊予と土佐を結ぶ重要街道として長宗我部氏が戦国末期に番所を設置。関ケ原後に入国した山内氏からも重視され、遍路もここか甲浦しか入国を許さず、多い時には1日300人、普通200人が通った」とある。関守は代々長田氏。関所跡の隣の民家の表札が『長田』。子孫が今もこの地に住み続けているようだ。版籍奉還から既に140年、これは驚きである。
関所跡には地元の市民グループ『宿毛の歴史を探る会』が貸し出し用の杖を用意してくれてあった。現在地は標高10m、峠は300m。標高差290mを距離1・7キロで登る。まずまずの峠道。普通、歩き遍路は同行二人のお杖を持っているから借りることはめったにないだろうが、気持ちがありがたい。お遍路の行く先々に故郷を愛し、行動している人々がいる。その一端にふれるだけで心が暖まる。歩き遍路は『感謝』を知る行でもある。
8時20分、峠着。松尾大師跡の小さなお堂にお参りし納札を箱に入れてから茶屋跡のベンチに腰を下ろし煙草を一服。ひとごこちつき、辺りをぶらつく。国道で越えた阿波・土佐の国境は「ようこそ高知県へ」と地元の方が陽気に迎えてくれたが、山中の地道を歩く土佐・伊予の国境は『従是西伊豫国宇和島藩支配地』と江戸期の石柱ひとつ。その向こうにもう一軒茶屋跡があった。二つの茶屋跡は数十メートルも離れておらず一軒あれば事は足りるはずだが、土佐・宇和島両藩の面子なのかも。土佐側の茶屋跡の説明板には「昭和初期まで茶屋があり、駄菓子、団子、草鞋などを販売していた」とある。
峠付近は平安時代、東国の平将門とほぼ同時期に西国で乱を起こした藤原純友の城跡とも伝える。追討軍に敗れた純友は九州に落ち延び、妻とその父はこの城に隠れた。やがて純友と息子の死を知った妻は、悲しみのあまり狂い、この地で果てたと言う。
休憩の間に追いついてきたロストおじさんが、茶屋跡から脇に入った純友城址展望台に行ってみようと誘う。軽い肺気腫を患っている関係で登りのスピードは遅いが、スタミナは十分、元気いっぱいである。同じく登りに弱い女房は「休憩しているから二人で行ってきて」とパス。
女房に荷物番を頼み、茂みの間の細い枯葉道を登りながら300mほど進むと木製の小さな展望デッキ。上がると宿毛湾が眼に飛び込んできた。近景遠景に大小幾つもの島が点在する紺碧の海。体中の毛穴が一斉に全開、溜まっていた疲れが一気に吹っ飛ぶような爽快感。二人して息をのみ絶景に見とれた。
2時半、観自在寺発。国道56号をてくてく2時間。緩やかな上り坂、切り通しの向こうにあったのは一面銀色の海。またしても息をのむ。土佐最後の海、そして伊予最初の海からも、最高の贈り物を頂いた一日だった。 (西田久光)
2011年4月21日 AM 4:53
50日の予定の遍路旅も今日で前半を締めくくる25日目、土佐国最後の札所・39番延光寺(宿毛市平田町)にお参りする。行程は先に宿毛市中心街の上村ビジネスホテルに荷物を預け、頭陀袋のみの軽装で延光寺を往復する約27キロ。
複雑な増築の結果か、館内がこれまで経験したことのないトビッキリの迷路となっていた民宿なかたを7時18分出発。明け方まで続いた激しい雨は漸く小雨に変わっていた。天気予報では午後には一応上がるものの大気の不安定な状態は続き、気圧配置は次第に西高東低の冬型になるとか。今日も一日ゴアテックスの合羽は脱げそうもない。
宿を発ってじきに遍路小屋とトイレがあったが、近すぎてパス。皮肉なことに1時間ほどでそろそろ休憩をと思ったところへ急に便意。足早に歩きトイレを探すが、ない。雨の中、キジを撃つ適当な場所もなく、結局10キロ先の道の駅すくもまで2時間強ノンストップで必死に歩き、どうにか滑り込みセーフ。
出すものを出し、ベンチでほっと一息入れていると開店準備をしていた珊瑚グッズ店の30代半ばくらいの女性が仕事の手をとめ話しかけてきた。88カ所を車で巡拝したら願いが叶った。今月28日に日帰りバスツアーで高野山にお礼参りに行くのだとか。そしてぼくらの旅の無事を祈ってと、自店で売っているお大師さんのミニチュアに魔除けの珊瑚片がついた携帯ストラップをお接待してくれた。
車であれ歩きであれ遍路経験者はみな等しくお遍路さんにやさしくなる。氏素性を知らぬ一期一会の出会いでも同志的感情が湧いてくるから不思議である。
10時半、ホテルに到着。素泊まり二人で7500円也。延光寺までは国道56号を基本に往路と復路でルートを少し変え往復15キロ。市街地の出はずれからは長い直線道路。うんざりしながら歩く。11時半、沿道の大衆レストランに入り安いランチを食べる。
ぼくらの席の斜向かいのボックス席に若い母親が小学高学年の娘とその弟の家族三人で陣取っていた。そろってマンガ本を読んでいる。しばらくすると長椅子の母親の奧に座っていた娘が立ち上がった。読み終えて他のマンガに取り替えるつもりらしい。当然母親の前を通ると思いきや次の瞬間長椅子に土足のままで上り、母親の背後を通って床に飛び降り本棚に向かう。新しいマンガを手に戻ってくると同じく長椅子に土足で上がって元の席につく。母親は何事もなかったかのように相変わらずマンガを読みふけっている。
唖然とした。わずか15分くらいの間に繰り返すこと3度。旅の途中である。少しためらったが余りに傍若無人。このままではとんでもない大人になる。3度目に本を取って戻る時、「椅子は人が坐る所、土足は駄目でしょ」と注意。娘は立ち止まり、その場でしょげ返った。叱られた意味がわかっているのだ。謝りはしなかったが、うつむきながら今度は母親の前をすり抜け、そっと席についた。
驚いたことにこの間も母親は全くの無反応。マンガ本から顔を上げようともしない。やがて親子連れは席を立った。子供たちはぼくの視線を避ける。母親は立ち上がりざま、いかにも不愉快そうにキッとぼくを睨みつけ、レジに向かう。暗澹たる気持ちになった。
食後のコーヒーを啜りつつ硝子越しにぼんやり外をながめていたら延光寺方面からロストおじさんが歩いてくる。女房もびっくり。彼は足摺打ち戻りコースで一日早い行程のはずなのだが……。声をかけようとこっちが表に出るまでもなく店に入ってきた。縁とはそんなものだ。互いに再会を喜ぶ。あの後、途中で一日休息を取ったのだとか。
12時半、ロストおじさんと別れ店を出る。外はお昼の間に急激に気温が下がり吐く息が白い。真冬に逆戻りだ。1キロほど歩くと岐阜のお姉さんとも再会。相変わらず顔の半分が隠れる大きなマスクをしている。「寒いねぇ」と言いながらも元気そうだった。
1時半、延光寺着。境内の桜は満開。中年夫婦から写真のシャッターを頼まれ応じる。お礼に飴玉を4個いただいた。(西田久光)
2011年4月14日 AM 4:57