26日目、今日で修行の道場・土佐国を終え、松尾峠越えで菩提の道場・伊予国愛媛県に入る。
 行程は宿毛のビジネスから伊予最初の札所、40番観自在寺(愛南町御荘平城)まで18・6キロ、そこから今夜の宿、室手海岸のドライブイン・ビーチ(同町御荘菊川)まで8キロの計26・6キロ。距離的にはぼくらの平均ペースより少し多い程度だが、国境の峠越えなので険路を警戒して6時20分の早出。天気は4日ぶりの快晴。ありがたかったものの気圧配置は真冬に逆戻りの西高東低。一歩外に出たら吐く息は真っ白だ。
 じき大通りのローソン前でロストおじさんと再会。「峠に向かう遍路道は大通りを越えて脇道に入るはずだけど工事でどう行けば良いのか判らない」と困惑している。辺り一帯は大規模な道路工事中。早朝で作業員の姿はなく、地図帳を広げて見ても確かに判然としない。「多分この道だと思う」と半ば当てずっぽうで向こうの脇道を指す。だけどロストおじさんは明らかに疑いの眼。脇道の100mほど先に地元民らしき人がいる。「あの人に聞いてみるから」と彼を残し、女房と二人で急いで道を渡って聞いてみたら大正解。じっとこっちの様子を窺っているロストおじさんに向かって頭上に両手で大きく丸を作りOKの合図。ようやく彼も動きだした。
 標高50mの小山を一つ越え、宿を発ってから1時間少々で松尾峠麓の松尾坂番所(関所)跡に着いた。説明板にこの旧街道は「伊予と土佐を結ぶ重要街道として長宗我部氏が戦国末期に番所を設置。関ケ原後に入国した山内氏からも重視され、遍路もここか甲浦しか入国を許さず、多い時には1日300人、普通200人が通った」とある。関守は代々長田氏。関所跡の隣の民家の表札が『長田』。子孫が今もこの地に住み続けているようだ。版籍奉還から既に140年、これは驚きである。
 関所跡には地元の市民グループ『宿毛の歴史を探る会』が貸し出し用の杖を用意してくれてあった。現在地は標高10m、峠は300m。標高差290mを距離1・7キロで登る。まずまずの峠道。普通、歩き遍路は同行二人のお杖を持っているから借りることはめったにないだろうが、気持ちがありがたい。お遍路の行く先々に故郷を愛し、行動している人々がいる。その一端にふれるだけで心が暖まる。歩き遍路は『感謝』を知る行でもある。
 8時20分、峠着。松尾大師跡の小さなお堂にお参りし納札を箱に入れてから茶屋跡のベンチに腰を下ろし煙草を一服。ひとごこちつき、辺りをぶらつく。国道で越えた阿波・土佐の国境は「ようこそ高知県へ」と地元の方が陽気に迎えてくれたが、山中の地道を歩く土佐・伊予の国境は『従是西伊豫国宇和島藩支配地』と江戸期の石柱ひとつ。その向こうにもう一軒茶屋跡があった。二つの茶屋跡は数十メートルも離れておらず一軒あれば事は足りるはずだが、土佐・宇和島両藩の面子なのかも。土佐側の茶屋跡の説明板には「昭和初期まで茶屋があり、駄菓子、団子、草鞋などを販売していた」とある。
  峠付近は平安時代、東国の平将門とほぼ同時期に西国で乱を起こした藤原純友の城跡とも伝える。追討軍に敗れた純友は九州に落ち延び、妻とその父はこの城に隠れた。やがて純友と息子の死を知った妻は、悲しみのあまり狂い、この地で果てたと言う。
 休憩の間に追いついてきたロストおじさんが、茶屋跡から脇に入った純友城址展望台に行ってみようと誘う。軽い肺気腫を患っている関係で登りのスピードは遅いが、スタミナは十分、元気いっぱいである。同じく登りに弱い女房は「休憩しているから二人で行ってきて」とパス。
 女房に荷物番を頼み、茂みの間の細い枯葉道を登りながら300mほど進むと木製の小さな展望デッキ。上がると宿毛湾が眼に飛び込んできた。近景遠景に大小幾つもの島が点在する紺碧の海。体中の毛穴が一斉に全開、溜まっていた疲れが一気に吹っ飛ぶような爽快感。二人して息をのみ絶景に見とれた。
 2時半、観自在寺発。国道56号をてくてく2時間。緩やかな上り坂、切り通しの向こうにあったのは一面銀色の海。またしても息をのむ。土佐最後の海、そして伊予最初の海からも、最高の贈り物を頂いた一日だった。   (西田久光)