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切り通しを越え少し下った坂の途中、銀海を背にドライブイン・ビーチが建っていた。普通のドライブインに宿泊施設がついたものを想像していたのだが、緋扇貝直売所と食堂と遍路宿を兼ねた飾り気のない箱型の建物。波打ち際まで落差70mはあるだろうか、ほぼ断崖の上。建物は古いが眺望は素晴らしい。
硝子戸を開ける。60代後半か、小太りで顔の色艶がいかにも健康そうなお母ちゃんが「まずはコーヒーでも飲んで。後で部屋に案内するから」と食堂の座敷に上げられた。壁に一枚の写真が飾ってある。貨物船か何か難破したそこそこ大きな船の救助作業の様子を撮ったもの?日付は10年ほど昔だった。
年明けに熊野灘の七里御浜で座礁フェリーを見てきたばかり。気になってお母ちゃんに聞くと、外国船が近くで座礁。緋扇貝を養殖しているビーチの斜め下の小さな入江に曳航し船体に開いた穴を水中溶接で塞いだ上で船内の浸水を排水。「噴水のように凄かった。保険会社の人なんかも来て、結構もめたみたいだけど」と。話はこれで終わらない。
修復作業が終わるまで10日ほどかかった。入国手続きなどの関係で船長以下フィリピン人乗組員らは上陸できず船に閉じ込められたまま不安な日々を過ごす。あまりに気の毒だと何日かたった夜、同じ海の男としてビーチの親父さんが夜陰に紛れて小船を出し、船員たちを店に招き皿鉢料理を振る舞った。「船乗りは世界中どこに行っても嫌われ者。こんなに親切にしてもらったのは初めてだ」と船長は涙を流して喜んでくれたと。既に時効だろうがこれは違法。しかし、お母ちゃんの顔には『それはそうかも知れんけど、うちの夫は人間として間違ったことをしていない。私は誇りに思う』そう書いてあった。
夕食時、その親父さんに会えた。長年連れ添った夫婦は顔が似てくるとか。体型も顔の色艶も笑顔も二人はそっくりだった。昭和5年生まれ……驚きである。
10年がかりの試行錯誤で人工栽培に成功したトサカノリ(鶏冠海苔)。やわらかさの中にも腰のある独特の食感。更にこの海苔を漬け込んで作ったビーチ特製の酢。とろりとして甘みがあり、海藻はもちろん野菜のドレッシングにもぴったしの健康酢。口の中に海が広がる。ネット通販もしており好評という。さもありなん。餞別を頂いた人たちへのお返しと自宅用に、お遍路を終えて帰宅する頃に合わせトサカノリと特製酢を20セット送って頂くことにした。
親父さんと二人でビールが進む──緋扇貝は元は3色だが今は交配で10数色ある。何万個かに一つ、表と裏が逆の貝が出る。明治時代に姓を付けるのに近くの地区では鯖、鰹、鰺、鱸など魚の名前をつけた。また別の地区では大根、葱など野菜の名前を。織田、黒田など戦国武将から採った所もある。平成の市町村合併で由緒ある『御荘町』の町名が消え歴史的根拠のない即物的な『愛南町』になってしまったのが残念。親父さんは元教員。子供に怪我をさせる教師がいるが、あれは教育としての体罰ではなく頭に血がのぼっただけの喧嘩、等々……話が弾んで気がつけば時計は9時を回っていた。就寝時間だ。
翌朝、27日目。今朝も寒いが快晴。海の彼方にうっすらと九州が見えた。距離約100キロ。右側が大分県佐伯、左側が宮崎。かつてはこっちから船で九州へ商いに行ったし、向こうの漁師が漁に来たり交流していたと親父さん。
座礁した船を修理した眼下の湾を抱き岬に延びた緑の山肌のあちこちに名残の桜およそ一千本。「桜はもう終わりだけど、雑木が多いのでこれからいろんな花が咲く。新芽も出てきて賑やかになり、山が笑う。海もこれから青が次第に濃くなり、夏には黒潮が入って来て一層深い濃紺になる」
前夜の続きのような愉しい朝食を終え、お母ちゃんに会計を頼む。レシートをもらった女房が首をかしげ「夕べのビール代が落ちてますけど」。するとお母ちゃんは言った。「いいのいいの、お父さんは『年金持ち』だから」……おまけにお昼にと赤飯のおにぎりまでお接待。ビーチのお父ちゃんとお母ちゃんは最高だった。 (西田久光)
2011年4月28日 AM 4:57