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2011年5月
車遍路は明石寺の本来の参道を通らない。地道だがよく整備され幅も広く、森閑とした杉林の中に続く参道を歩いて下るだけで体中が浄化されてゆくようだ。時計は既に4時半を回り他に歩き遍路の姿はなく、夫婦二人だけで独占するのは申し訳ないくらいだった。
参道を下り市街地を少し行くと風情のある古い町並みに入る。前年暮れに国の伝建地区に選定されたばかりの西伊市宇和町卯之町保存地区。江戸末期から明治初期にかけての町屋群が残っている。
宿は保存地区の中の松屋旅館。間口はさほど広くないが落ち着いた和風の門構え。創業は文化元年(1804)当主は7代目。街道側の建物は築200年を超え、尾崎咢堂をはじめ後藤新平、犬飼毅、前島密、新渡戸稲造ら歴史に名を残す錚々たる傑物たちも泊まった老舗。れっきとした観光旅館であるが、お遍路は2食付き7350円也。風呂も大きく10時までOK。これなら取り敢えず汗を落とし、就寝前にもう一度入れるからありがたい。
遍路宿(民宿)はどこも風呂が一つで小さい関係から到着すると入浴をせかされる。そうしないと夕食までに人数をさばけない。それが遍路側にもわかっているから、もうちょっと湯船でゆったりしたいと思っても急いで洗い、上がるのである。それに洗濯機・乾燥機の順番もある。
しかし中にはこの常識に欠ける遍路もいるようで、ある遍路宿で聞いた笑い話のような本当の話。一人旅の若い女性遍路が風呂に入ったまま30分たっても出てこない。次々と他の客が到着し、宿の主人は気が気でない。それに貧血でも起こして倒れてはいないかと心配になって、ドア越しに声をかけると、「大丈夫で~す」と悪びれる様子もなく実に明るい返事。これには拍子抜けで「後がつかえているから早く上がって」とも言えず、もう少々待つことにしたが、40分たっても50分たっても一向に出てこない。止むなくご主人は自分の車に後着のお遍路さんたちを乗せ銭湯に走る破目になった。
当の女性遍路、風呂から出てきたのはそれから10分ほど過ぎてから。つまりたっぷり1時間の入浴だったわけだが、風呂場でお気に入りのアロマを焚いて芳香に包まれ、すっかり良い気分に浸っていたのだとか。これぞKY、状況が読めないというか、悪気がないだけによけい始末が悪い。
この日、投宿のお遍路は歩き組がぼくら夫婦と川崎さん、鳥取の初老の人の4人、車組が夫婦3組。夕食時、ひょんなことから一期一会、知らぬ同士の会話が弾む。中でも盛り上がったのは川崎さんの体験談。
学生時代から太っていて歩き遍路のトレーニングに入る前は100キロを超えていた。それが今は80キロ台、25キロの減量に成功した。別人28号になった姿で同窓会に参加したら、親しい同級生がそばに来て耳元で心配そうにささやいた。「お前ガンなのか……」。
それぐらい見事に痩せたわけだが、悩みの種は余ってしまった皮。そのうち解消されるだろうとは思ったが、念のため医師に相談した。先生いわく「若いうちならともかく一定の年齢を越したら皮膚の弛みは消えません。あなた、婆さんの垂れ下がった乳や顔のシワは元に戻らないでしょ。それと同じことですよ。どうしても気になるというなら余った皮膚を切除する整形手術しかありません」と。
これにはみんな大笑いだが、ぼくは内心ドッキリである。30過ぎからすっかり高値安定して50代は82キロ前後。これが歩きトレーニングで7キロ、本番に入り3週間で更に6・5キロ、計13・5キロ減のところで安定しているが、宇和島のホテルの風呂上がりに「嘘みたいにスリムになったけど、お腹の皮もお尻の皮も余って垂れ下がっている」と女房に笑い転げられた。彼女も10キロ近く減っているのに体質の違いか皮の弛みは目立たない。その時は「まぁ徐々に解消されてくさ」とタカを括っていたのだが、川崎さんの話で希望的観測はあっさり打ち砕かれてしまった。だけど皮の弛みは服で隠せる。『脱トド体型』の方が遥かにましと自分を慰めるしかなかった。 (西田久光)
2011年5月26日 AM 4:57
28日目。7時5分、ホテル出発。曇りのち晴れ。相変わらず寒い。今日は久々の3カ寺参り。宇和島市はずれの41番龍光寺、42番佛木寺。そこから歯長峠(標高480m)を越え西予市宇和町の43番明石寺へ。宿はその少し先の松屋旅館。計25キロの行程。
大きなアーケード街だがシャッターに貸し店舗の表示が目立つ商店街を通り抜け1キロもすると市街地は終わり、県道57号の8キロ以上も続く長い長い緩やかな上り坂を歩く。途中の桜並木は美しかったが歩けども休憩できる場所はなし。1時間40分進んでようやく遍路小屋を発見。壁板のない簡単な造りだったが、長椅子の隅の小さな花瓶にかれんな洋花が活けてあり、ほっと心がなごむ。柱には『百メートル先の左側にお遍路さん用のトイレがございます』とトイレ案内の表示もある。「ちょっと行ってくるわ」と女房はさっそく利用。地元の方々の心くばり、ありがたさに涙がこぼれそうになった。
10時8分、龍光寺着。駐車場には大型バスが2台とまっていた。嫌な予感。団体さんに巻き込まれないように急いでお参りし、納経所に向かう。
納経所の受付が団体と個人を分けてある所はよいのだが、一つしかないとやっかいだ。個人遍路は──朱印だけが目的でお参りなしの『スタンプラリー遍路』は別にして──参拝勤行を済ませてから、その証明として納経所で納経帳・判衣・軸に墨書・朱印をいただく。ところがバス遍路のほとんどは添乗員が先達さんに従ってお参りする參加者たちと別行動を取り、参拝中に全員分の納経帳などを抱えて納経所に駆け込むのである。作法からすればこれは完全におかしい。それで、かつて本来の姿に戻すべきだという声がおこり、一時期団体遍路も参拝を済ませてから一人ひとり自分で納経することにしたら、納経所が大混乱。やむなく添乗員がまとめてやる形に戻したのだそうだ。
お寺によっては窓口が一つでも、長時間かかる団体客の墨書・朱印の間に作法通りに勤行を済ませている個人(特に歩き遍路)を適当にはさんで融通をきかせてくれる所もある。添乗員の中にはそうした寺側の配慮に「寺にそんな権利はない!」と喰ってかかる者もあるとか。「あんたにも順番を決める権利はない!」と言い返してやったと、ある札所のおばさんが苦笑しながら明かしてくれた。
案の定、納経所には添乗員が陣取っていたが、朱印はほぼ終わり、ドライヤーを使い必死で判衣を乾かしていた。添乗員も大変なのだ。少し待っただけで納経を終え、佛木寺をめざす。
遍路道はお寺の横山、斜面の段々墓地の間の狭い急坂を登り、そのまま山越えで再び県道に出る。わずか2・6キロを1時間近くかかり佛木寺へ。駐車場には大型バス3台が到着したところ、乗用車も10数台。車遍路は龍光寺より多い。ここで漸く今日が春休みの日曜日と気づく。異常な寒さが続いているが暦の上では春本番。旅行社の本格的なバス遍路のシーズンが始まったのである。混雑を避けるためちょっとズルをして添乗員より先に納経所に駆け込んでからお参りした。
次の明石寺へは10・6キロ。歯長峠を越え、峠下の歯長地蔵と巡礼の途中で倒れた『お遍路さんの墓』にお参り。その先の道引大師にも手を合わせ、3時42分明石寺に到着。ここから宿までは1キロほど。ゆったり気分でお参り。納経所には5人ほどの個人遍路が並んでいた。応対している青年僧は何だか疲れた様子。
いわく「88カ所の中間点なので今まであまり来なかったのが、本四架橋と高速が千円になってから客がいっぱい来るようになった。今日は日曜で朝から団体も個人もいっぱい。忙しくてもう頭が朦朧。(墨書・朱印が)間違えてないか、よく確認して下さい」と。
ぼくらは過去3度大型連休に四国を訪れている。初回・2回は渋滞なし。それが千円になった去年、琴平で800m前進に1時間、しまなみ海道でも10キロの渋滞。それまでめったに見なかった関東の車の多いこと。確かに千円の威力はすごい。お遍路で再認識させられた。 (西田久光)
2011年5月19日 AM 4:57
6時40分、ビーチ発。次の札所龍光寺(宇和島市三間町)まで42キロ強。1日では無理なので宇和島城前のリージェントホテルまで31・4キロの行程。6日ぶりの30キロ超え。途中、標高470mの柏坂(柏本街道)と200mの松尾峠、二つの峠越えがある。
海岸線を通る国道56号に対し、ほぼ一直線に山越えする遍路道の柏本街道は2キロ短い。一方の松尾峠、56号は途中1710mの新松尾トンネルがあるものの遍路道より少し短く、標高もやや低いようなので、前者は遍路道、後者は国道ルートで越えることにした。
歩き始めて15分、国道に別れ脇道に入り更に10分、柏坂遍路道に差しかかる。ここまでに1名、登り始めて体が暖まりだした頃に更にもう1名の中年男性遍路に追い越された。みなさん健脚だ。2キロほどで標高400m、柳水大師のお堂に到着。トイレがあるので小休止。ここからもう一息でトップを越え、6キロ下って国道56号に合流する。
柏坂遍路道の特色は、全長約8・5キロの随所にベンチやトイレが設置されていること。木々を切り払い宇和海が見える展望所も一カ所ある。人海戦術で部材を担いで急な山道を上がったのか、地元の方々のご苦労に頭が下がる。もう一つ特筆すべきは道中退屈させまいとする心配りなのか、道端の随所に地元の民話を紹介する説明板が立っていること。そのほとんどが下ネタなのはご愛嬌だ。
11時10分、宇和島市津島の遍路小屋で早めのお昼休憩。隣に地元の土産物販売所があり、ビーチで頂いた赤飯おにぎりに加え、あんこ入り蒸しパンを買ったらおばちゃんからお茶と月餅風のお菓子のお接待を頂いた。日陰だと寒いので日向ぼっこをしながら昼食。土産物販売所は土地の人たちが頻繁に出入りし、格好の溜まり場となっているようだ。時々大きな笑い声が聴こえてきた。
11時55分発、残りはまだ18・7キロもある。柏坂で予想外に時間を食い、国道を急ぐ。松尾峠、国道と遍路道の分岐点の手前で、お杖ではなくトレッキング用のストックを両手に握ったノルディックスタイルで歩く50前後の男性遍路に追いつかれた。ストックの握りの下の部分に般若心経全文が書かれている。お遍路グッズにこんなのもあるの?と思いきや手製のシールを巻き付けたのだと言う。相当の凝り性か。
川崎の人。去年の春に初遍路。室戸岬手前15キロで足が痛くてリタイア。秋にそこから打ち直し、今回は宿毛から始めて3日目という。両手に負荷がかかるノルディックスタイルは連日長距離を歩き続け、また急峻な下り坂も多いお遍路には不向きかと思うが、当人は大股で結構リズムよく歩いている。この人には合っているのかも。
遍路道を行く川崎さんと別れいよいよ歩き遍路最長の新松尾トンネルへ。緩やかにカーブし出口は全く見えない。幅1mほどの歩道を歩く。交通量は多く脇を車が通るたびに風圧を受ける。時折前方から轟音を挙げて大型トラックが迫る。これは恐怖だった。
それにトンネル内の空気は排気ガスが充満して予想以上に悪い。入口からわずか200mを過ぎた辺りで頭痛がしだした。これはヤバイ。振り向けば女房も顔をしかめている。「早よ抜けよ。急ぐぞ」と声をかけスピードを上げる。練習中も経験したことのない早足だ。時々女房を確認。二人とも必死の形相で黙々と歩く。やがて出口が見え、力が湧く。1710mを20分弱、時速6キロで抜けた。外の空気は美味しい。
4時、宿まで2キロ弱、もう安心。喫茶店でトイレ休憩。ぼくが用を足している間、女房がママから不吉な情報を聞いていた。数日前、一組の夫婦遍路が立ち寄った。疲れ切った様子。奧さんが先に足を痛め、止むなく旦那が二人分の荷物を背負ったら遂に旦那も潰れてしまい、ここが限界。通しを諦め他日を期すことにしたと。「浜松の夫婦かも…」と女房。ぼくは小指の血豆で地獄の一週間があった。女房も一日バスに乗った。明日は我が身だ。お大師さんに、後22日なんとか足をもたせてと祈るばかりである。 (西田久光)
2011年5月12日 AM 4:57