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2011年6月
33日目、今日は三坂峠を越え愛媛の県都松山市に入り、浄瑠璃町の46番浄瑠璃寺、47番八坂寺、高井町の48番西林寺の3カ寺参り。宿は浄瑠璃寺前の長珍屋で西林寺からタクシーで戻る予定。行程は21・2キロ。
6時55分、あの美味しい雉ご飯のおにぎりをお昼用に女将からお接待いただき出発。笛ケ滝と三坂峠(710m)との標高差は224mだが、峠まで国道33号で7・6キロもあり緩やかな上り坂が続くので平地感覚。ただ、峠方面は真っ黒な雲にべったりと覆われていて、八丁坂どころではないゲリラ豪雨に襲われるのではないかと嫌な予感。昨日の帰路にお参りした国道脇の於久万大師に遥拝、何とか峠の麓まで天気が持ってくれますように祈る。
峠1キロ手前のレストパーク明神でトイレ休憩のあと8時47分峠着。雨は大丈夫だったが濃い霧に包まれ20m先が見えず、寒い。自販機でホットコーヒーを買い一息入れてから、国道に別れ久万街道(土佐街道)三坂峠の遍路道に入り下り始める。
最大の難所『なべ割坂』は鬱蒼とした木立に覆われ霧は更に深く5m先が見えかねた。ぼくらは一瞬たじろぎ立ち止まって顔を見合わせる。これは完全に雲の中だ。国道に戻ろうかとも思ったが、そうすると5キロも遠回りになる。道は一本、足許にさえ注意すれば何とか大丈夫だろうと気を取り直し霧の中を進む。余り気持ちの良いものではない。500mほどで霧は薄れだしホッと一安心。
急坂の山道は2キロほどで漸く視界が開け、谷間に田んぼ、地道はアスファルトに変わった。途中、一抱えもある杉の倒木が道をふさいでいる所が2カ所。先日の雪で倒れたらしい。
9時56分、峠を下りだして初めての民家。昭和初期まで営業していた旧遍路宿『坂本屋』。平成16年、地元のNPO法人が多くの方の協力で修復し、休日には歩き遍路にお茶のお接待をしているとか。この日は金曜日。板戸はしまっていたが脇の軒下に長椅子、その奧のトイレが自由に使えるようにしてくれてあった。
更に2キロ弱で番外弘法大師の網掛け石にお参り。ここから浄瑠璃寺までは3キロ。気持ちにゆとりができ、10時51分、窪野公園で早昼。おにぎりを食べ1時間休憩するつもりが、風が冷たく重ね着してもじっとしておれない。止むなく30分で切り上げ歩く。
11時50分、長珍屋にリュックを預け、浄瑠璃寺にお参り。900mで次の47番八坂寺。歩き遍路をしたことがあるという納経所の若い僧侶に、各札所で納経時に頂く御本尊の『御影』を結願後どう扱えば良いのか尋ねた。「大事にして頂ければ良いです。軸や屏風に仕立てる方もあるが金がかかる。差し込み式の御影帳なら二千円です」と。なるほど本の形なら保管しやすい。巡拝用品売り場に現物があったので買おうとしたら、「他のお寺でも売ってますよ」と欲のない話。益々気に入り2冊求め家に送ってもらうことにした。
八坂寺を後にして1キロ先の別格霊場、衛門三郎菩提寺の文殊院(松山市恵原町)に向かう頃には日が差し始め、ようやく温かくなってきた。1時25分着。小さなお寺だったが、境内にはお大師さんの像や衛門三郎と妻の像などが並び『四国遍路開祖発祥地』の誇りがみなぎっていた。
1・6キロで番外札始大師堂。三郎はここにお大師さんが泊まっていると聞き急いで駆けつけたが既に立ち去った後。止むなく自身の名を木札に記しお堂の壁に打ちつけたと伝える。お遍路することを『打つ』といい、また札所お参りの証拠に『納め札』を納めることの始まりのお堂。伝説ではあるが文殊院と共にお遍路には欠かせない霊場だ。
気持ち的には今日はここで打ち止めとしたかったが時間が早く、予定通り48番西林寺まで歩きお参り。4時、タクシーで宿に戻り、翌朝7時の迎えを頼む。受付を済ませた後、女房のお杖のカバーが無くなっているのに気づき辺りを探すが落ちていない。記憶をたどってもどこで無くしたのか判然としない。諦め部屋で休んでいたら仲居さんが先程のタクシーが戻ってきて「座席の下に落ちていた」と届けてくれたと。今日もまた感謝だ。(西田久光)
2011年6月30日 AM 4:57
4月1日、32日目、朝から雨。リュックなし、参拝用具だけの身軽な岩屋寺詣でだが、雨中の遍路転がし八丁坂越えはきつそうだ。前日うどんに執着したバチがあたったのか、お大師さんから厳しくもありがたい修行を与えられたようだ。
ぼくらの計画は、往路は県道12号を進み途中から遍路道に入って八丁坂で標高760mの峠を越え急斜面の中腹670mの岩屋寺に下る約11キロ。復路は230m下の駐車場に下り古岩屋奇岩群を見物するオール県道コースに変え13キロ、都合約24キロの行程。
7時8分出発。峠御堂トンネルを抜け坂を下り県道から少し脇に入って河合の遍路小屋で休憩。国交省と県が協力して道標などを整備している『四国のみち』の関連事業なのか、立派な休憩所で洋式シャワートイレ付き。岩屋寺まであと6・5キロ。再び県道に出て上り坂の途中で下ってきた初老の男性遍路に会う。八丁坂の様子を聞くと「それほどでもないですよ」と。ちょっと安心。下りに入ると今度はロストおじさんに再会。古岩屋荘の温泉がすごく良かったとか。手を振って別れた。
9時14分、県道から本来の参詣道、八丁坂の登り口に差しかかるや雨足が強まり本降りに変わった。茂みの中に続く遍路道、木々の葉で蓄えられ大粒化した雨が菅笠にボタボタと落ちてくる。地道の濡れ落ち葉は滑りやすく危険だ。足許に注意しながら山道をお杖の力を借りてゆっくり登る。確かに急勾配に違いないが息が切れるほどではない。30分ほどでトップの760mを越え、下り始める。こっちの方が明らかに斜度はきつく危険だった。
岩屋寺は法華なる女仙人が住んでいたが空海に帰依し全山を献じたと伝える。一帯は隆起した凝灰岩が風雨に浸され異形の岩肌をさらす峰が続き荒磯の趣。海岸山岩屋寺とは言い得て妙である。雨にうたれながら険しい山道を下りる。やがて見上げるような大岩が裂けた逼割行場。更に林の中に点在する三十六童子行場……霊気漂う一帯を抜け小ぶりの古びた山門をくぐり10時半、無事境内に降り立つ。県道脇の駐車場から登ってくる車遍路用山門の方が遥かに立派なのだが、こっちが正規の山門である。
その山門に近い側から大師堂、本堂、その向こうにそびえる断崖の横穴に梯子をかけた法華仙人堂跡と続く。山腹の急斜面を削るようにして設けられた岩屋寺の境内は狭い。そこに車遍路が溢れていた。雨足は一向に衰えない。お参りを済ませ梯子に向かう。
1週間ほど前、不幸にも大阪茨木市の男性遍路が梯子を下りようとして7mの高さから転落死。歩き遍路の間で大きな話題になっていた。ベテラン遍路の話では木製ながら頑丈で転落は考えられないという。脳梗塞あるいは心筋梗塞に襲われたのかも。その後に聞いた話では梯子を背にして前向きで降りようとして転落したのだとか。普通考えられない降り方である。魔に見入られたのか……。安全に過敏な昨今、当面禁止かと思ったら上る時は注意するよう掲示してあるだけ。過去40年で初めての死亡事故。特異な事例とし上る人は自己責任でということ。岩屋寺は腹が座っている。
ぼくは高所恐怖症、一段一段確かめながら上る。横穴の奥行きは1m強、床は板張り。仙人の供養塔?が安置され、雨に煙る眺望はまさに仙境だった。法華仙人に、そしてぼくと同じ還暦だという亡くなった方の御霊に光明真言を手向け、梯子を慎重に降りる。入れ替わりに女房も上った。
境内の休憩所で早昼。女将が持たせてくれた雉ご飯のおにぎりを頂く。味にコクがあって実にうまい。
11時半、降りやまぬ雨のなか下山。駐車場から本堂まで距離600mで230m上る急勾配。傘を手にした車遍路は皆さんゼイゼイ息を切らせながら登ってくる。ここは車遍路にとっての『遍路転がし』だった。
登り口にほど近い所に土産物屋があった。店頭の立て看板が目を引く。一枚は『自民党も民主党もアカン!おみやげは生姜糖にしよう』。そしてもう一枚には『まだまだこれからじゃ、岩屋の坂と人生は』と書かれていた。 (西田久光)
2011年6月23日 AM 4:55
31日目、今日で3月は終わりだ。歩いて、お参りして、また歩いて、峠を越えて……いつしか一月がたってゆく。歩き旅になれてきたのか、女房ともども足の指の付け根あたりにマメができては消え、できては消えを繰り返しているものの痛みは苦にならない。小指の激痛でなかば足を引きずりながら必死で歩いた丸1週間はなんだったのか、嘘のように思えてしまう。
曇り後薄日、夕方より小雨。ロストおじさんは44番大宝寺(久万高原町菅生)を翌日にして先に45番岩屋寺(同町七鳥)を打ち、少し下った国民宿舎古岩屋荘に泊まると言って5時27分の早出。ぼくらは岩屋寺参りの基地にと初めて連泊する久万高原町役場近くの宿『笛ケ滝』に先に寄り、リュックを置いて大宝寺までの1・5キロを往復する計画。行程20・4キロと昨日に続いて短いが、久しぶりの『遍路転がし』が控える翌日に備え宿でゆっくり休めるよう6時35分発。
集落の出外れで鮮烈な印象を受けた小田川に別れを告げ国道380号を緩やかに上る。標高570mの新真弓トンネルで最初の峠越え。続いて農祖峠。『とうげ』ではなく『とう』と読む。標高は651m。麓との高低差は160mほど。遍路道は思ったより緩やかで道幅も広く歩きやすい。峠を降りて少し車道を歩き再び下野尻の遍路道で小さな峠を越え、11時すぎ国道33号に出る。峠道にもう少し手こずると思っていたのだが、予定より1時間も早い。ただ、やはりアップダウンの繰り返しは足にじわじわと効いてくる。スタミナをかなり消耗していた。
地図帳にある少し先のうどんの亀の井に入ることにした。ところがそれらしい店がない。見落としたかと国道を逆戻り。やっぱりない。潰れちゃったの?温かいうどんが食べられると思っていたのに食べられないとなると、急に腹が減りだし無性にうどんが食べたくなる。全くもって修行が足りない証拠だけど、愚禿久光、食べたいものは食べたい。うどんうどんと念じつつ数百メートル進むと、あった。それも2軒並んで。地図帳改訂時と状況がすっかり変わっていたのだ。飲食店の栄枯盛衰はいずこも激しい。11時半、待望のうどんにありついた。具を自分で選び取る讃岐うどん方式。満足、満足。
1時間20分も休憩したが体が重い。途中コンビニにも寄り小1時間で宿。荷物を預け身軽になって少し楽に。川を渡ったところに88カ所の真ん中、『へそ寺』44番大宝寺の総門。1キロほど門前町を進み更に急な砂利道の表参道を登ると風格のある仁王門。室町期、越前の大仏師作という像高約3mの仁王像、4mはあろうか巨大ワラジ……坂下に数台車が停められるが、車遍路のほとんどは本堂手前の駐車場まで直行してしまう。この仁王門を拝めるのは歩き遍路の特権か。
3時半、宿着。笛ケ滝は料理屋を兼業。客室は1kマンション風。部屋に家庭風呂、洋式水洗トイレ、ベランダも付いて快適。夕食までたっぷりと時間がありゆっくり風呂に入る。湯上がりに足の爪を切っていたら土佐で丸1週間苦しめられた左足小指の爪がポロリと床に落ちた。唖然として爪のない小指を恐る恐るさわってみる。何の痛みもない…不思議だった。
気さくで話好きの女将の自慢は、ご主人が研究を重ね自分で孵化させ養殖している日本雉を使った料理。雉の脂質はあっさりとして品がよい。10余年ぶりに味わう雉鍋は格別だった。来年還暦を迎える女将の将来の夢は、今よりもっと小さく定員5人くらいの家庭的な民宿の経営である。
明日は岩屋寺。山道は危険だから注意してという。数年前、一人旅の女性遍路が岩屋寺に向かった。ところが暗くなっても帰らず、荷物を預かっていた宿がおかしいと警察に連絡したが動いてくれなかった。困って消防団に相談したら大捜索をやってくれた。初日は手がかりなし。2日目、岩屋寺近くの谷底で肋骨を折り声も出せずに横たわる女性を発見。道に迷い足を滑らせ転落。奇跡的な生還だった。件の女性は後日お礼参りに来たとか。旅になれてきたが過信は絶対禁物と知らされた。(西田久光)
2011年6月16日 AM 4:57