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2011年7月
35日目、晴れ。朝の内は冷えるが昼は最高18度の予報。今日は三津浜駅から52番太山寺(太山寺町)53番圓明寺(和気町)で松山市内の札所を打ち終え今治市に入る約28キロの行程。6日ぶりの長距離歩行。
実は松山の外れで泊まる予定が満杯で断られ、1キロほど離れた宿に変えようとしたらここは廃業。近くのもう1軒は休業中……これでは満員になるはずだ。どうにか取れた宿は40キロ近くも先のJR予讃線大西駅前のビジスネ・ホテルニュースガノヤ。ぼくらの足ではとても無理なので10キロ手前の菊間駅で電車に乗り、翌朝また菊間駅に戻ることにした。「先日もそういう人がいた。朝6時49分発の電車で菊間に戻ると良い。荷物はうちで預かってあげるから」と女将さん。
6時53分、三津浜駅を出発。2キロほど進んだところで石鎚山を信仰しているというおばさんから柑橘のお接待を頂く。太山寺は標高75mの小高い山の上。一ノ門をくぐり350mで仁王門(重文)更に550mでようやく本堂(国宝)にたどりつく。鎌倉時代の入母屋造り。屋根の両翼がゆるやかな弧を描き、軒で少し反り上がる。どっしりとした大鳥が翼を広げたような威風に、気を引き締めて勤行をあげた。
次の圓明寺までは2・6キロ。8時56分着。大師堂の左手奧にマリア観音とおぼしき像が刻まれたキリシタン灯籠があった。なぜこの寺にあるのか文献も伝承もなく不明とか。9時25分発。県道347号を1時間少々、堀江町の出はずれで久々に海。瀬戸内の海岸線を歩く。11時5分、光洋台の大師堂で休憩。
お堂前の遍路小屋には先客がいた。30前後の青年。地元の人?テーブルの上に就職情報誌を広げていた。三重県から来たと告げると懐かしそうに隣の愛知で車関係の会社で派遣で働いていたという。例の派遣切りにあったの?実はリーマンショックは発生の半年前には予測され、それに備えて中間管理職として正社員になるか辞めるかの選択を迫られた。自分の性格は管理職には向かないので潮時と帰郷した。松山はサービス業の町、隣の今治は造船の町。車溶接で培った技術が活かせると思ってチャレンジしたが、自動車と造船では扱う鉄板の厚さが違い全く別の世界と知らされた。何とか自分の技術を活かせる仕事はないか、せめて何か製造業の口がないか、求人誌で探しているのだと。
職がないのはつらい。ぼくらは何の力にもなれず、ただただ話を聞き、時々相槌を打つばかり。「大変だと思うけど諦めずに頑張って」と言う他なかったが、「そちらも結願まで頑張って下さい」と励まされた。
12時前、コンビニで弁当を買い外に出たところで古市さんから電話。今、松山だけどこれから今治城に向かうのでお昼を一緒にと。2キロほど先の西ノ下大師堂で合流し桜満開の河野川河川敷で急遽花見会。奧さんからまたも抹茶、桜餅を頂く。一行は宇和島城・大洲城は予定通りいったが、松山城はイベント開催中で車が駐められず断念。山本さんは岩屋寺の『遍路転がし』に足がパンパン、古市夫婦は山登りが趣味だけに平気の様子。酒抜きコンビニ弁当の花見だが、うらうらと温かい陽差しの下で気持ちの良い一刻を過ごす。
1時間半の大休憩をへて2時前出発。2時58分、番外の鎌大師にお参りして80mの峠越え。坂下の浅海町を通り市境を越えて今治入り。春霞に煙る海原の向こうには島々が連なりうっすらと浮かんでいる。この辺りまで来ると行き交う船の数が一気に増えてきた。
5時前、瓦屋が軒を連ねる菊間に入る。祠の中に年代物の鬼瓦が祀ってあり。更に行くと横4m、高さ5mほどの巨大な鬼瓦のレリーフ。さすが瓦の町だ。瓦屋街の一角に休憩所があった。中にいたおじいさんから焼き物のお守り『無事カエル』のお接待。瓦屋は10数軒あるが稼働しているのはわずか3軒。「不景気なのと瓦のいる家を建てる人が少なくなった」と嘆く。
5時20分、菊間駅着。堂々たる瓦屋根の駅舎。ところが時刻表を見たら次の列車は6時22分までない。日が暮れて寒くなりとても1時間も待てない。結局タクシーを呼んだ。 (西田久光)
2011年7月28日 AM 4:57
一草庵から三津浜駅までは6キロくらいか。歩き始めてすぐ、ぼくが監事を務めさせて頂いている『みえ歴史街道構想津地域推進協議会』の事務局(三重県津県民センター内)担当者(当時)・山本晃さんから朝に続いて今日2回目の電話。このところ殆ど毎日のように電話があり、現在地を確認。お遍路に出る前に聞いていたが、ぼくら夫婦の進行状況をパソコンに記録しているらしい。今日の後の予定を教える。
同じ県都でも津市と違って松山のような人口50万人もある大きな都市の市街地の道は分かりにくい。三津浜駅への道が合ってるのかどうか自信がなく、交差点の手前で立ち止まり地図帳を広げて女房と確認。すると、たちまち右から左から次々と人が寄ってきた。中年、熟年取り合わせ男性が3人。「道に迷ったのか?どこへ向かうの?」と尋ね一斉に地図帳を覗き込む。一人が「ちょっと貸して」とぼくの手から地図帳を受け取ると3人で首っ引き。
男性たちは互いに知り合いではなく、それぞれ全くの通りすがりのよう。「三津浜駅ならこの道が」「いやいやこっちの方が判りやすいよ」と路上でのにわか井戸端会議の末に、このルートが最適と道順を教え、別れ際には「がんばって」と激励してくれた。
松山の人たちのこの親切は一体なんなんや……ぼくら夫婦は驚き、そして感激せずにはおれなかった。
4時15分、三津浜駅の裏口まで数十m。またも携帯に着信。今度は山本さんと同じく歴史街道仲間の津市芸濃町在住の近鉄イベントサービスOB・古市悦雄さんから。芸濃地区に歴史観光ボランティアガイドグループを立ち上げようと一生懸命動いてくれている人。お遍路に出てから初めて頂く電話だった。久々の会話を交わしながら線路をまたぐ跨線橋を渡る。下り階段はそのまま駅のホームに続き松山駅までの切符を買おうと駅舎改札口に進む。そこに立っていたのは山本晃さん、古市さん、古市さんの奧さん、それに抹茶とお菓子を載せたお盆を手にした娘さんの4人。
何というサプライズ!山本さんが頻繁に電話してきた理由がやっと判った。
前日から津を出て車を走らせてきたという。宇和島城、大洲城を見て、恐らく今日はぼくらは45番札所の岩屋寺あたりと予測し、そこで待ち受けるマルヒ計画で国民宿舎古岩屋荘に宿を取ったとか。「歩くのがこんなに速いとは思わなかった」。正岡子規記念館と一草庵で合わせて2時間半ほど道草をくったことを説明する。「それが良かった。道草しなかったらこの駅で待ち伏せできなかった」と山本さん。先に切符を買ってから、待合室で古市さんの奧さんが点ててくれた抹茶をゆっくりと頂く。こんなにも美味しいお茶は生まれて初めてだった。名残惜しかったが、37分発の電車に乗り手を振って別れた。
5時、ビジネスホテル・モンブラン着。今日はお接待の連続、道案内まで入れると6連発。しかも中身は超弩級。信じられないような一日……嬉しくて女房と今日の夕食は奮発してリッチにいこうと目論んだが、あにはからんや松山駅はJR駅より少し離れた私鉄駅前の方が繁華街らしく、JR駅前は閑散としてこれといった目ぼしい店がない。道後界隈の賑わいぶりから駅前はさぞやと期待していたのに全くの当て外れ。
日が落ちてまたも冷え込み、冬に逆戻り。寒さにふるえながら駅周辺をさまよい、人に聞きながら数百m歩いてコンビニを探し、取り敢えず明日の朝食分を調達。その帰り、ようやく古びたお好み焼き屋を見つけて夕食にした。安くついたが、こんなトビッキリの日には物足りず残念。
夜、ホテルで一風呂浴びてから大学ノートに旅日誌をつける。繁多寺すぎで軽自動車の女性から頂いた小袋を開けて中身を再確認。傷バンは4枚綴りだった。何気なく裏を見る。そこにボールペンで書かれたメッセージ。
『お疲れ様です。道中どうぞお気をつけて、無事結願できますように。がんばって下さい!!』
文末には、かわいい豚の笑顔のイラストが添えてあった。 (西田久光)
2011年7月21日 AM 4:56
34日目、晴れだが、4月だというのに今日も朝は冷え込み吐く息が白い。6時55分、予約しておいたタクシーに乗り西林寺門前へ。そこから49番浄土寺(鷹子町)50番繁多寺(畑寺町)51番石手寺(石手)と松山市内の3寺参りの後、道後温泉を抜けてJR三津浜駅まで歩き、電車で松山駅に行き駅前のビジネスホテルに泊まる。歩行距離は20キロとゆとりを持たせ、前回松山を訪れたとき覗けなかった正岡子規記念館、それに漂白の俳人・種田山頭火終焉の地『一草庵』に寄る計画。
7時5分西林寺発。市街地を歩き始めて10分もしないうちに沿道の無人販売所へ農産物を置きに来ていたおばちゃんから大きな柑橘が6個も入ったビニール袋ごとお接待。ありがたいがズシリと重く、顔で笑って心で泣いて納め札を渡す。
古い団地の間を通り7時49分、浄土寺着。今日最初の巡拝勤行をあげる。8時18分、遍路道の表示に従いお寺の脇の墓地の間を通り更にレモン畑を横に見て8時42分、繁多寺着。ここで浄土寺でも一緒になった車遍路の親子連れに柑橘4個を『お接待分け』でもらって頂いた。
繁多寺の門前には、露店のアイスクリーム屋があった。お参りを済ませた頃から漸く上がり始めた気温に食い気を誘われ一つ買う。門前に店を出して16年、気の良いおっちゃんはアイス1個に対して二人分と乳酸飲料を2本もお接待。これじゃ商売にならないと思うのだが、ニコニコして誰かの歩き遍路体験本を開いて見せ「ここにわしのことが出ている」と自慢げだ。
今日2枚目のお礼の納め札を渡し、しばらく進むと前からきた軽自動車が急に停まり中から三、四十代の小柄な女性が降りてきた。「お接待させて下さい」と言ってビニールの小袋をぼくらに一つずつ渡すや、納め札を渡す間もなく「お気をつけて!」と急いで車に戻り走り去る。出勤途中なのだろう。
小袋の中身を見る。女房のものとぼくのものとは若干異なっていたが、塩分やビタミンC、糖分など歩き遍路の健康に心を配った4種類のキャラメルに、数枚の傷バンがそれぞれセットされていた。
こんな詰め合わせが市販されているとは到底思えない。恐らくスーパーかドラッグストアで買ってきたものを、夜、家でいったんバラにして自分で組み合わせを考え小袋に詰め直し、いつも何セットか車のダッシュボードに入れておき、その日出会った歩き遍路にお接待しているに違いない。お接待で陰徳を積むというが、ここまでやるか?何という人だ……。
衛門三郎転生伝説の地、51番石手寺は松山屈指の名刹か、山門をくぐると参道は屋根付きの土産物屋通りに続き、ちょっと小ぶりの東京の浅草寺風。境内は土曜日ということもあり、赤ちゃんを抱いた宮参りの若い家族連れなど地元の参拝者から観光客、お遍路で大賑わいだった。本堂に上がる石段踊り場には2mを超す巨大な五鈷杵。三重塔、仁王門は重文。お堂の数がやたら多い。
遍路道は境内の端から石段、地道で標高95mの裏山を越え、心地よい竹林の間を下りて、車道を進み道後温泉に至る。芸予諸島の水軍を束ねた伊予中世の雄、河野氏の居城湯築城址公園は桜満開。花見客でごった返し状態。向かいの正岡子規記念館はやたら『坂の上の雲』のポスターが目立っていたが空いていた。おかげで1時間10分もかけゆっくり観ることができた。
この後、道後本館の前を通り観光客でいっぱいの道後商店街のレストランでお昼にオムカレーと名物の坊ちゃん団子を食べる。ここまで既に3度、松山の人のお接待に感激のあまり前回松山を訪れた時に世話になり、今は横浜に暮らす松崎美由紀さんに電話。相変わらず元気そうだ。
商店街を後にして通りから少し脇道に入り1時50分一草庵着。展示施設は小さかったが真新しくきれいなトイレ付き。ボランティアガイドのおじさんが熱心に説明してくれた。更に「山頭火がこの地で亡くなるまで世話をされた高橋さんの息子さんが、ちょうどいま来ていますから話をされては」と隣の一草庵に案内され、縁側に腰を下ろして4人で談笑。気がつけばいつしか時計は3時。別れぎわ高橋さんからアメのお接待を頂いた。 (西田久光)
2011年7月7日 AM 4:57