2011年8月

霊峰石鎚山と江戸期の鉄製鳥居

 39日目、快晴ながら気温は前日より更に下がり息が白い。今日は60番横峰寺まで山登りの往復約20キロ。昨日寄った妙雲寺は標高30m、横峰寺は745m、その差715m。山上の気温がちょっと心配。頭陀袋だけ持ち、まずタクシーで前日寒さ凌ぎの肉まんを買った妙雲寺手前のコンビニまで行き昼の弁当を調達。7時半、歩き始める。
 7キロほど先、標高300mまでは比較的なだらかなアスファルトの車道。そこから急峻な山道に入り、2・2キロで標高差445mの横峰寺まで登る。
 小一時間で山小屋風の喫茶てんとうむし着。白木に自家焙煎珈琲の墨書看板。煙突からは白煙が昇っている。この先、店はない。自家焙煎の文字に惹かれ久しぶりに美味しいコーヒーを飲むことに。ところがドアが開かない。脇の壁に懸けられた小さな看板を見れば開店は9時、まだ30分もある。とてもそこまでは待てない。諦めて先に進もうとした時、中からドアが開いて「いいですよ。すぐ準備して開けますから」。
  店内は白木造り。外観よりずっとお洒落で本格派のコーヒー専門店。なぜか道路寄りの一角にピカピカに磨き上げられたスバル(てんとう虫)が鎮座。店名はこれから採ったようだが、どうやって入れたの?聞けば車の後ろの壁が開閉式にしてあり、出して走らせることもできるとか。モカをベースにブルーマウンテンをブレンドしたてんとうむしオリジナルの『みやび』を注文。店内に流れるBGMはジョン・コルトレーンの『ブルートレイン』……お遍路に出てから初めて聴
くジャズ。聴き慣れたはずのコルトレーンの出世作がすごく新鮮に思えた。
 勘定をお願いしたらバナナ2本のお接待。更に「今日の天気だったら奥の院の星ケ森から石鎚山が見えるはず。下の町からは見えないし、横峰寺からも見えない。星ケ森からも見えない日が多いけど今日なら絶対見える。ぜひ行ってみて」と。奥の院は全く念頭になかったが、見られるものなら見たいのが人情。ありがたい情報を頂いた。
 参詣道の入口に遍路小屋とトイレ。ここから急な石段や丸太段の連続。丸木に板を渡しただけの小さな橋を幾つも渡る。なるほど荒天時は通行不能になることもある危険なルートだ。
 10時半、山門着。汗はたちまち引いて日陰は寒い。納経を済ませ、星ケ森まで登り石鎚山を眺めながら昼食をとることにした。片道580m。杉林を抜け、ぬかるみに氷が張った広場を越し、その先の小さな広場が星ケ森。樹木が切り払われ緑の間にポッカリ開いた空間の彼方に、少し霞んだ石鎚山が大きく両手を広げドンと座っていた。青空に縁取られた稜線は歯こぼれした鉈のよう。泰然、そして峻険な山だった。
 ここには通常のお堂はない。自然石を積み上げた小さな石室の中にお大師さんが祀られていた。石鎚山に向かっては高さ1・5m、江戸時代に建てられた鉄製の小さな鳥居。少し左に傾いて、鳥居がくぐり抜けてきた時間の長さ、風雪の厳しさを思い起こさせる。
 お大師さんに勤行をあげ再び西日本最高峰と対峙、拝礼。これがあの霊峰石鎚
山……来てよかったと改めて思う。喫茶店のマスターのアドバイスがなかったら殆どのお遍路さん同様ここまで登らなかっただろう。心からマスターに感謝だ。
 鳥居の向こう側に半畳ほどの腰が降ろせる空間があった。お山を真正面にした日なたの絶好ポイント。だが先客があった。70過ぎくらいの老夫婦が仲良く弁当を広げていた。考えることはみな同じである。名残惜しかったが、横峰寺に戻ることにした。
  12時35分横峰寺発。入れ替わりに登ってきたのがミスター53。19日ぶりの再会だ。星ケ森で石鎚山を拝めたことを告げると、我がことのように喜んでくれた。
  帰路は香園寺奥の院白滝経由。ミツバツツジの花のトンネルなどを潜りながら標高60mの白滝まで7・6キロの山道を下る。お参りし、そこから更に3キロで香園寺に到着。決して楽ではなかったものの、リュックなしのお陰か、往復20キロの山道に耐えて女房共々まだ余力があった。 (西田久光)

石鎚神社新門(天狗門)

 38日目、前夜の天気予報が外れて朝から小雨が降ったり止んだり。ひょっとしたら上がるかもと淡い期待を寄せ出発を30分遅らせることにしたが、待っている間に本降りに変わる。諦め合羽を着て7時半発。
 遍路転がしの60番横峰寺(西条市小松町石鎚)は明日に送り、横峰寺登山口の妙雲寺経由で西条市の残り4札所──61番香園寺(小松町南川)62番宝寿寺(小松町)63番吉祥寺(氷見)64番前神寺(州之内)をまわって、前神寺近くの湯之谷温泉旅館部に連泊する計画。行程は明日に備えて20キロ弱。
 本来なら平地の楽勝コースなのだが、雨はもう全く止む気配はなく、おまけに風も出てきて、これがまた次第に温度を下げ寒風に変わった。一昨日、昨日の陽気はどこに消えてしまったのか、4月に入ってもう1週間もたつのに冬に逆戻りである。歩いても歩いても一向に体は暖まらず、手はコチコチ。10時、たまらず妙雲寺手前のコンビニに入り、ホカホカの肉まんを買って暖をとる。
  気を取り直し妙雲寺、続けて香園寺をめざすが、肉まんで少し暖まった体は氷雨に打たれてすぐに冷え冷え。11時、香園寺までわずか500mだったがとてもお寺まで持ちそうになく、スーパー・ヤマサンセンターに駆け込みまずトイレ。ありがたや、店内の一角にレンジも置いてあるレストルームを発見。少し早いがお昼にすることにした。おにぎりとコロッケをチンして温め、マカロニサラダ、温かいお茶、食後のコーヒー……生き返った。
 12時、香園寺着。参道の満開の桜のトンネルは見事だったが、その先にあったのは巨大な箱型のコンクリートの固まり。昭和50年代の始めに建てた鉄筋コンクリート造り。ビル型の本堂というよりは窓がなく、まるで原発の原子炉建屋。建物左手の外階段を登り2階の薄暗い大広間に入る。正面の祭壇に御本尊と弘法大師像を祀り、その前にズラリと椅子席が並んでいる。お寺というよりもホール。生まれて初めて見る異色の寺院だった。
 61番香園寺から62番宝寿寺までは1・3キロ、更に63番吉祥寺まで1・4キロとトントン拍子。巡拝が進むと現金なもので元気も湧いてくる。64番前神寺までは3・2キロだが、その手前で脇にそれて石鎚神社にもお参りすることにした。
 御神体は西日本最高峰の石鎚山(1982m)。前神寺はその別当寺院で元は現在の石鎚神社のある場所にあった。明治の神仏分離令で廃寺。明治11年、現在地に『前上寺』として再興され、元の『前神寺』名が許されたのはその11年後という石鎚修験道の総本山。横峰寺は石鎚登山の拠点寺院であり、本来これらの寺社と石鎚山そのもので神仏習合の石鎚山信仰が構成されているのである。
  高さ15mはあろうか、大寺院の仁王門にも匹敵する威風堂々たる神門には大きな注連縄が張られ、両脇には阿吽の金剛力士像ならぬ団扇・巻物を手にした大天狗像と、宝剣・宝珠を持つ小天狗像。門の向こうには雨に濡れ一層鮮やかさを増した木々の緑を背景に満開の桜が映える。
 石段を登り、社務所ビルの垂れ幕が眼を引いた。
 『朝日に祈り 夕日に感謝 日はまた昇る』『お山の緑が命を育む 自然の治癒力 神様のはたらき』
 拝殿で二礼二拍手一礼の参拝の後、つい南無大師遍照金剛と大師宝号が口を突いて出る。お遍路が身についてきたということか。
 前神寺にお参りし、宿に着いたのは4時20分。冷えた体を温泉で暖めるべく大浴場に行ってびっくり。洗い場も湯船の中も人でいっぱい。大半がお年寄り。昔の銭湯にタイムスリップした気分。皆さん近隣に住む常連さんらしい。後で判ったが、毎週水曜日は65歳以上無料の日とか。道理で。
  夕餉、東京からという初老の初遍路男性と話す。足に自信がないのでタクシーを使いつつ1日1区間だけ選んで歩く。3月26日から打ち始め、今日は栄福寺・仙遊寺間の2・4キロを歩き、急坂できつかったと。「それ、横峰寺を除いてこの辺では一番しんどい所ですよ」と伝えると苦笑していた。   (西田久光)

59番国分寺門前(背後が唐子山城跡)

  37日目、曇りのち晴れ。前日に続き暑い日になったが、あのバテバテが嘘のように体シャッキリ、もうどうということはない。人間の適応力はすごい。たった一日で暑さになれてしまった。これもお大師さんの御利益だろう、還暦にして歩き遍路で生命力がアップしたようだ。
 7時半、今治国際ホテルをタクシーで出発。10分ほどで泰山寺門前着。今日の予定は57番栄福寺(玉川町八幡)58番仙遊寺(玉川町別所)59番国分寺(国分)と今治市内の札所を打ち終え、西条市桑村の遍路宿、ビジハウス・イン国安までの約23キロ。
 ぼくらと同じように、今朝は56番門前から打ち始めるという名古屋の65歳の人としばらく一緒に歩く。1回目は例によって室戸岬の手前でギブアップ、2回目は5日でダウンしたが、その後は順調。今回は今日で2日目、結願までやるつもりと言う。足早のうえ大股で、ノッシノッシとブルドーザーのごとし。とてもついてはいけず、じきに置いていかれた。続いて後ろからやってきたのは競歩の速歩スタイルの人。アッと言う間に追い越された。いやはや、いろんな歩き遍路がいるもんだ。
 田舎の古い住宅街を抜け8時半、栄福寺着。境内はさほど広くないのだが、限られた敷地の中に本堂や大師堂などがこじんまりとまとめられ、かと言って整然としすぎず、いるだけで何だか気持ちが良くなってくるお寺。納経所のおばあさんもすごく穏やかな表情、物腰。このお寺にいるべくしている、そんな感じだ。
 栄福寺を出てじき地道の遍路道に入る。急な山道を登り溜池の縁を回って更に登ると車道に。これがまた急坂で、合流地点から山門まで標高差120mを距離500mほどで上がる。漸く山門をくぐると今度は遍路転がし級の急な石段で一気に45mも登る。仙遊寺は標高255m。今治に入ってから平地のお寺が続いてきたせいか、結構きつい。栄福寺から仙遊寺まではわずか2・4キロだが1時間もかかった。上の境内に着いた時には汗びっしょり。ここの宿坊は温泉付きで歩き遍路に大好評。一風呂浴びたい気分だった。
 10時20分、仙遊寺発。途中スーパーでサンドイッチを調達。12時10分、国分寺門前着。土産物屋の前を通りかかると店のお兄ちゃんに呼び止められタオルハンカチのお接待。その上、国分寺の山号を刻んだ石柱を入れて夫婦一緒のところをカメラに収めてくれた。後で宿に入ってから気づいたのだが、この時撮ってもらった写真の背景に写っていた小山が、藤堂高虎が海岸部に今治城を築き新たな城下町を開くまで、この地方を治めた武将たちが拠点とした唐子山城(国分山城)跡だった。お兄ちゃんのお接待に感謝感謝である。
 お参り、納経を済ませ、小さな門の前にあった縁台をお借りして昼食。靴下を脱ぎ蒸れた足を天日乾し。春うらら、今まさに盛りを過ぎんとする満開の桜の花びらがはらはらと舞い、春風が渡れば桜吹雪の絢爛絵巻。音はと言えば、近くに鉄路があるのか時折り列車が通り過ぎるばかり。なんとものどかな田舎の昼下がり、のたりのたりと心地よい時が流れてゆく。綿菓子に包まれたような甘美な寡音の世界。連日この四国を歩き続けていることすらすっかり忘れてしまいそうな幸せ気分に満たされた。
 3時15分、今治・西条の市境を越える。日切大師の近くで女房が地元のおばあさんから呼び止められ、手作りのフクロウの根付を10個とアメのお接待を頂く。フクロウは不苦労、『苦労のないように』というお守りなのだと初めて知った。
 4時43分、ビジハウス・イン国安着。東京から来たという同世代の初遍路男性と同宿。3月8日に開始、1日35キロペースと初めてにしては強行軍。この人も高所恐怖症で浦戸大橋と四万十大橋は怖かった、岩屋寺の梯子はパスしたとか。
  部屋に国安関係のスクラップ帳。頁をめくりツルネン・マルティさんの記事が眼に止まる。フィンランド出身のキリスト教宣教師。国会議員としてこの国の文化を深く知りたいと3年がかりの区切り打ちをしているとあった。(西田久光)

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