地元の方のお陰で伝説の霊場へ

 44日目、晴れのち曇り。今日は道順の関係でまず73番出釈迦寺(吉原町)そして奥の院・捨身ケ嶽禅定を往復し72番曼荼羅寺(同)74番甲山寺(弘田町)75番善通寺(善通寺町)76番金倉寺(金蔵寺町)と善通寺市の5札所、更に多度津町の77番道隆寺、計6札所と1奥の院をめぐり丸亀市の丸亀プラザホテル泊……22キロと距離は短いが、お寺の数が多いので時間的には結構厳しい。
 7時半、出発。山越えの遍路道は水が涌いてジュクジュク。続いて霧が漂う幻想的な竹林を進む。歩いている最中は太股の疼きは感じないのだが、今度はお杖を握る左手の親指、更に右手の中指にバネ指の症状が出だした。一昨年、右手腱鞘炎、昨年は右手親指がバネ指。長年ワープロの文字キーを叩き続けてきた蓄積疲労から故障が続発した。職業病のようなものだが、その上に歩き遍路でお杖頼みの指の酷使がたたって両手ほぼ同時に故障。太股の異変と言い、肉体的に限界が近づきつつあるのを感じる。後1週間、何とか持ってほしいと祈るばかりだ。
 8時33分、出釈迦寺着。見上げれば捨身ケ嶽禅定は指呼の間にそそりたつ山の上にあった。お大師さん7歳の時、仏法による衆生済度の願を立て、それが成就するや否やの証を求めて我が身を断崖から投じ天女に抱き止められたという伝説の霊場。距離1・4キロ弱で標高差255mを登る。足に不安があるがここまで来たらやっぱり登りたい。
 お参りを済ませたところにミスター53とも縁のある小柄なおじさんが到着。下のうどん屋にいったん戻りリュックを預けてから奥の院をめざすという。ぼくらにも勧めたが、時間がもったいないので背負ったまま登ることにした。
 本堂の脇の階段を登り緩やかな車道に出て、更に数百m進む。そこからは斜度が30度もありそうな強烈なコンクリ道が立ちはだかっていた。道幅いっぱいを使い一歩一歩ジグザグ歩行。百mほど登ったあたりで、驚いたことにぼくより遥かに年配の男性に追いつかれた。「慌てずゆっくり登れば大丈夫」と励まされる。息も乱さず悠揚とした足の運び。凄い。おじさんはぼくの歩みに合わせつつ、群生するヤマブキ、シーボルトゆかりの紫陽花の原種など、捨身ケ嶽の特異な植生を解説してくれた。一番きつい所を登り切って振り向けば、女房は50mほど遅れて必死で登ってくる。
  40分でお堂に着いた。鐘をつき、お参りを済ませたら「お堂の裏の崖の上が実際に身を投げた所。案内するから登りましょう」と。上は風があり危険とリュック、菅笠を置き崖の下へ。尻込みする女房に「ぼくが手の位置、足をかける位置を指示するから、その通りにやったら大丈夫。これまでここで怪我した人は一人もいない」。ぼくは高所恐怖症。崖っぷちは吸い込まれそうで思っただけで身も心も不安定になるのだが、なぜか岩場登りは平気である。先導のお陰でお堂の屋根よりはるかに高い断崖の『捨身誓願之聖地』に夫婦で立たせて頂いた。海まで見渡せ眺望は素晴らしい。
 記念写真も撮って頂いてから岩場を下りる。ほっと一息つくぼくらをよそに、おじさんはさっさと下山していった。お堂の横の掲示板には徒歩最多参拝者の名前がずらり。一万八千回一名、七千回二名、四千回二名……等々。千回に達するとお寺が石標を建ててくれるのだとか。出釈迦寺に下山してから今日の参拝登山目標は5回という中年男性から、ぼくらがガイドして頂いた方は二千五百回を超えていると知らされた。
 小柄なおじさんは結局今回も断念したのか、奥の院に姿を見せなかった。
 奥の院の納経も出釈迦寺で行う。当番のお姉さんからタオルのお接待。ところが曼荼羅寺を終え、甲山寺の納経所で夫婦二冊のうち一冊の納経帳に出釈迦寺の朱印が抜けているのを指摘された。歩いて戻る気力はなくタクシーを呼んで出釈迦寺と甲山寺を往復した。
 お大師さんの生誕地と言う善通寺の大師堂はさすがに立派。金倉寺を過ぎたあたりからは風が強まり、しかも向きがくるくる変わって歩きにくかったが、四国旅行ですっかり馴染みの讃岐富士を遠望し讃岐を歩いていることを実感。道隆寺を終え、6時前、ホテル手前のコンビニで女房が中年女性から現金二千円のお接待を頂いた。(西田久光)