2011年11月

87番札所長尾寺の大師堂相輪

87番長尾寺(さぬき市長尾)から結願寺の88番大窪寺に向かうには分岐合流で5ルートあるが、大別すると標高774mの女体山越えと410mの花折峠越えの旧遍路道の二つ。距離は旧遍路道の方が3キロほど長い。ぼくらは足に不安を抱え険しい女体山越えを避けた方が無難なこと。もう一つ、翌日朝一番の静かな境内で結願を迎えたいとの思いもあり、旧遍路道を行き、大窪寺手前3キロの温泉旅館竹屋敷に泊まることにした。道程は20キロ弱。
  48日目、前夜の天気予報では曇り、ところにより雨が残り、午後晴れだったが早朝から嘘のような快晴。部屋の窓を開けると、志度湾の向こうに頂上部分だけがビョコンと空に出っ張った八栗山、その左隣に台形の屋島が、柔らかな朝の光を浴びて並んでいた。両山とも結構高い。雨の中、急坂に耐えてくれた脚に改めて感謝だ。
  昼のおにぎり弁当を頂き7時6分発。志度寺門前で一礼して長尾寺をめざす。距離は7キロ、平坦な、ほとんどが車道。歩き始めてすぐ小柄なおじさんと東京からの中年女性遍路と一緒になる。この人もリピーター。3月12日から打ち始めたというから相当早い。途中、自販機でコーヒーを買っている間に二人に置いていかれた。
  9時着。長尾寺は真ん中にドーンと何もない空間。その片側に本堂と大師堂が並び反対側に納経所やトイレ。余りにも真ん中がぽっかり空き過ぎてちょっと間が抜け見える。恐らく火災か何かで真ん中にあったお堂を喪失したのかと思ったのはぼくの大きな勘違いだった。いつだったか、男たちが巨大な鏡餅を抱えて境内を走る神事をテレビで見たことがあるが、それがこの長尾寺。鏡餅運びを行うための空間なのだ。
 中年女性も小柄なおじさんの姿もない。素早くお参りを済ませもう大窪寺に向かったようだ。ぼくらは峠越えがあるとはいえ、長尾寺を終えれば後は12キロ強先の温泉宿・竹屋敷に向かうのみ。時間はたっぷりある。納経を終え、改めて納経所そばに並べてあったベンチに腰を下ろし、お堂と向き合ってみる。
 本堂も堂々として美しいが、それ以上に大師堂は何とも言えない座りの良さでゆったりとした美しさがある。ゆるやかな曲線を描きながらせりあがる屋根瓦の頂点から、雲ひとつない真っ青な空を指して凛々しく伸びる相輪……お堂の緩と相輪の急。緩急相まって青空に向かい天上的な音楽を奏でているようだ。光明真言の世界を体感した三角寺とはまた違った、溜め息の出そうな光景が眼の前にあった。
 48日の間、別格や番外も入れ優に100カ寺を超えるお寺を見てきた。が、昨日道の駅源平の里であった男性遍路ではないが、気が急いてどうしても先を急ぎ一つひとつのお寺をじっくり味わってきたとはとても言えない。もっとゆっくりと、土佐で血豆の治療法を教えて下さった奈良のご夫婦のように平均20キロ、60日ぐらいの設定の方がよかったのではないか……87番札所まで来て後悔してみても後の祭りである。この至福のひとときは、お大師さんからのご褒美だと思うことにした。お礼に堂宇修理の瓦を寄進させて頂いた。
 出発前にトイレに行く。窃盗注意の張り紙。納経所で聞くと稀にお軸などを盗られる人がいるとか。
 道はゆるやかに上り11時前、ダム湖畔の前山おへんろ交流サロン着。お茶のお接待、そして館長さんから『貴方は四国八十八ケ所歩き遍路約1200㎞を完歩され、四国の自然、文化、人との触れ合いを体験されたので、これを証すると共に四国遍路文化を多くの人に広める遍路大使に任命致します』と書かれた四国八十八ケ所遍路大使任命書を頂く。ぼくが1991号、女房が1992号だった。
 館内のお遍路資料展示室は江戸期からの様々な史料が展示され圧巻。ボタンを押すと各札所のランプが点く四国のジオラマは道程がよくわかって結構楽しい。
 この後、車遍路で賑わう向かいの道の駅の休憩室で弁当を広げたが、寒くてじき日なたに場所を移す。
 1時発。少し戻って旧遍路道へ。花折峠越えの道は今は余り通らないのか人跡に乏しい。急峻な山の斜面を一気に上り尾根伝いに小刻みに急なアップダウンを繰り返す。所によっては幅20㎝ほどの崖道。女体山越えだけでなく、こっちも最後の遍路転がしだ。3時54分、敷地のあちこちに名残りの桜が咲く宿に到着。男女両風呂ともぼくらが一番風呂だった。(西田久光)

屋島寺の太三郎狸と

 47日目、結願まで残り5カ寺、3日。前夜の天気予報が外れ、またも雨。高松最高気温8・6度、箱根は雪……完全に異常低温。
 7時朝食。前日、一宮寺の境内で会った老夫婦と話す。金婚式記念に二人で車遍路中とか。
 今日は、84番屋島寺(標高284m、高松市屋島東町)85番八栗寺(標高230m、同市牟礼町)86番志度寺(さぬき市志度)をめぐり、志度寺近くのいせだ旅館泊。距離的には21キロ強だが、ほとんど海抜0mから屋島に登り、また0mまで下りて八栗山に登らなければならない。ぼくの太股の痛みとバネ指、女房の外反母趾に起因する足の痛みは好転する気配は微塵もないが、ここまで来ればもう這ってでも前に進むしかない。気力あるのみ。
 7時40分発。屋島寺は残り1・5キロが捨身ケ嶽に次ぐ厳しい急坂。コンクリ道と石畳で一気に登る。帰路は源平古戦場側の檀の浦に更に急勾配の遍路道を下りる。登り始めに、一昨日国分寺であった老遍路が下って来るのに出会う。檀の浦に下りる方が八栗寺への距離は短いが、「昨日からの雨で滑りやすく危険」と地元の人から忠告され、登りと同じコースを戻って来たという。
 雨にぬれた石畳はまだ新しく、表面にわざと細かく凹凸をつけ滑り止め加工を施してある。ここも捨身ケ嶽と同じく地元の人たちが健康づくりに登っており多数参拝者の表示がしてあった。ただし回数はまだまだ捨身ケ嶽に遠く及ばない。近年はじまった運動のようだ。傘を差して下って来る女性3人連れに挨拶。やはり参拝後、反対側に下りるのは危険と言う。八栗寺の上りも急だけどここよりは楽との情報も頂いた。
 屋島寺は総門、更に珍しい四天王門があり、御本尊千手観音、本堂は重文。源平合戦ゆかりの遺物を多く所蔵する宝物館もさすがに立派。本堂、大師堂にお参りした後、お大師さんが屋島で道に迷った時に案内したという『日本三名狸』の一匹、太三郎狸を祀る蓑山大明神にもお参り。因みに残る二匹は佐渡の団三郎狸と淡路の芝右衛門狸とか。朱塗りの鳥居を並べた参道の両脇に、太三郎狸と子狸を抱いた女房狸の石像があるのがご愛嬌である。
 境内にいるうち雨は一層強くなり、地元の方の忠告に従い同じコースで下山。牟礼北小学校近くのお好み焼き屋で昼食。八栗寺はケーブルカーと並行して斜度21%の急坂を登る。3時10分、道の駅源平の里着。
 休憩していると中年男性遍路が現れる。東京の人、今回4回目。足が痛いという。大詰めになると皆さん何がしかの故障が出るようだ。初回、2回は宿につけるか不安ばかりで必死で歩き、道中もお寺もほとんど覚えていない。ちょっとペースが落ちただけで実際よりも物凄く落ちた感覚になって焦ってしまう。奧さんに今回はゆっくり回ったらとアドバイスを受けそうしている。これでお遍路は終わりにするつもりとか。
 ぼくらは先に出発。雨足は更に激しくなる。志度町に入り8年ぶりに平賀源内生家の銅像にご挨拶。あの時は写真を撮っていたら偶然、源内家の当代さんが現れ早とちり源内の面白いエピソードを教えて頂いた。
 4時2分、志度寺着。納経を済ませたところにミスター53と小柄なおじさんが一緒に現れる。小柄なおじさんはうどん屋にリュックを預け捨身ケ嶽に登ろうとしたところにミスターが到着。「キツイよ」と言われ今回も断念したのだと。
  納経所の中にはもう一人ミスター53と旧知の方がいた。76番金倉寺の門前でうどん屋を経営しており、暇を見つけては札所を回っている四国霊場会公認先達・宮本武彦さん、当然錦札の人。ミスターの紹介で錦札をありがたく頂戴した。
 外はざざぶり。地図帳を広げるのは難しく、またまたミスター53にいせだ旅館の場所を教えて頂き、4時38分、志度寺を後にする。
  3月10日、室戸街道のゴロゴロ休憩所で出会って以来、どれほどアドバイスを頂いたことか。ぼくらにとって本当に幾ら感謝しても感謝し足りない先達さん。雨の志度寺が最後の別れになった。ありがとう、ミスター53。  (西田久光)