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2011年12月
4月19日、50日目。くもり。6時半徳島駅発。JR高速バス『阿波エクスプレス大阪号』で四国に別れを告げ、鳴門大橋、淡路島を抜け、8時50分JR難波駅着。雑踏するOキャットを通り南海電車で極楽橋駅からケーブルカーを乗り継ぎ高野山駅へ。ケーブルカーの車窓から横の急斜面を縫う細い参詣道が見えた。6日目、19番札所立江寺すぎの法泉寺バス停横の善根宿で一緒に休憩した大阪・堺の中年男性遍路が、お遍路の練習に歩き下りで転倒して手首を複雑骨折したと言っていた山道だ。自分が歩いた道ではないのに何故かなつかしい気がした。
奥の院参道入口までタクシーに乗る。参道脇の大きな桜の木が枝もたわわに花を咲かせていた。振り返れば修行の道場・土佐に入って間もなくからほぼ40日、毎日桜の花見をしながら歩いてきた。寒さが厳しくはあったが、この春を襲った異常低温の恵みである。お礼参りの最終日まで満開の桜に迎えて頂くとは、何と幸せな旅だったことか。
石畳の参道に入る。毎日早朝から夕方まで歩き続けてきたのに、今日はここまで難波で少し歩いただけでほとんど乗り物。足がいぶかしく思っていたのか、昨夜も右太股の芯が疼き疲労しきっているはずなのに、歩き始めると嫌いな堅い石畳なのに、『足が喜んでいる』のがわかる。足取りは驚くほど軽かった。
共に歩いて頂いたお大師さんが眠る奥の院で最後の巡拝勤行をあげる。般若心経、この旅で好きになった光明真言、そして大師宝号と進み掉尾を飾る回向文。 「願わくばこの功徳を以って普く一切に及ぼし」
ここまで声にして、全く予期せぬ熱く激しいものが唐突に胸の奧から吹き上がり、後段の「我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」がうまく言葉にならなかった。
納経所で金剛峯寺へのお参りも勧められ、従い、昼食を済ませてから下山。
帰路、近鉄難波駅のホームから伊勢中川駅5時33分着の特急と、家で待つ娘に電話を入れる。すると「今日、お父さん宛てに一番のお寺から郵便が届いたよ。中身は手帳みたい」と言うではないか。てっきりどこかの宿で落としたと思っていたら、何のことはない。頭陀袋の中のお参り用具がどこに何が入っているか全く頭に入っておらず、手順もよくわからなくて目を白黒、バタバタ状態でお参りした最初の霊山寺境内でいきなり落としていたとは思いも寄らなかった。
手帳には当然住所・氏名を書いてある。それにしても50日のお遍路の旅を終えて帰宅するその日にドンピシャリで送り届けてくれるとは……。あまり記憶がはっきりしないが、出発の日と帰宅の日を手帳に書いてあったのだろう。恐らく御住職がそれを見られ、計算して投函して下さったのだろう。年明けからの歩きトレーニングの記録をつけてあるし、帰宅後の予定も既に少々入っていたので紛失には困っていたが、これで一安心。ありがたかった。さっそく今晩にも礼状をしたため、御本尊へのお供えの寸志を添えて、明日発送しよう。
伊勢中川駅のロータリーには見なれたホンダFITが待っていた。後部座席には柴系雑種の『さと』。ぼくらの姿がわかると千切れんばかりに尻尾を振り、けたたましく犬語をまくしたてる。50日も留守にしたが忘れられてはいなかった。
家につき、居間でリュックを下ろし、お茶を一服してから霊山寺からの手紙の封を切る。中から愛用の黒い表紙の薄い手帳。ページをめくり3月1日を見る。やっぱりお遍路出発の記述があった。次いで4月19日を見る。そこには何も書かれておらず、全くの空欄だった……。
長年、打ち始めの一番札所としてお遍路に関わってきた御住職のこと、境内で誰かが拾って寺務所に届けてくれた日が、ぼくらの出発の日であることは分かり切った話。結願までの日数はおおよそ察しはつくだろう。そろそろかと見計らって送って下さったのだろうが、それにしてもドンピシャリとは……。歩き遍路の最後の最後にお大師さんから奇跡のような御利益を頂いたような気がした。(西田久光。1月単行本刊行)
2011年12月8日 AM 4:57
49日目、4月18日、晴れのち曇り、遅霜注意報。今日で結願。宿から88番札所大窪寺(標高445m。さぬき市多和兼割)まで2・9キロ、そして循環路の輪をつなぐため18・2キロ先の10番切幡寺(徳島県阿波市市場町切幡)に向かい、お遍路2日目以来2度目のお参りをして鴨島駅から列車で徳島駅へ。最後の宿は駅前のサンルート徳島を予約してある。
7時32分発。表に出ると息が白く、寒い。大窪寺との標高差は105m、ゆるやかに上る国道377号を歩き、じき体が暖まる。
8時8分、新山門着。二階には高欄のつきの回廊、軒下に醫王山の金文字が光る大きな山門。険しい岩山を背景に建つ本堂は威厳があった。予想通り早朝でまだ人影はまばら。落ち着いた雰囲気のなか清々しく結願の勤行をあげることができた。それなりの感慨はあるものの意外と高揚感はなく、ごくごく自然な感じ。女房も同じようだった。
納経所。前日頂いた完歩証があるから良いかと思っていたが、やっぱり女房と連名による結願証をお願いすることにした。金二千円也。これで一区切りがついた思い。ゆったり気分で境内を散策する。
若い夫婦連れが、白地に『同行二人』と書かれた犬用上着を着たテリア犬を連れている。かわいい犬のお遍路さん。そばに寄るとウーと唸られてしまった。
結願者たちが奉納したお杖がぎっしり何千本も詰まった宝杖塔。
そして透明のケースの中で燃える原爆の火。
「この火は、あの日、ヒロシマに落とされた原爆の火です。福岡県星野村の山本さんが叔父の形見として郷里にもち帰り大切に灯し続けてきたものです。核兵器廃絶の願いをこめ、ここに保存し永く人々の心によびかけています。
1988年10月24日」と石板に刻まれていた。炎は小さく頼りなげで、一瞬にして数万人、事後を含めると14万人もの命を奪った悪魔の劫火の残り火というよりも、理不尽に殺された名もなき人々の一人ひとりの命の揺らめきに思えた。
門前で旅館竹屋敷が経営する土産物店・野田屋で葛湯のお接待を頂いた後、9時8分下山。ここから途中県境を越えて徳島自動車道下まで日開谷川に沿って14キロ強の長い下り。進むにつれ前方の谷間の狭い空が扇が少しずつゆっくりと開くように徐々に大きく広がってゆく。山肌をおおう木々の緑も眼に鮮やかな若葉の新緑が次第に増え、大窪寺という一札所ではなく四国88カ所霊場という大山を登り終え、次第しだいに平地へ、町へ下りてゆく……そんな感慨に包まれる。
11時20分、岩野トンネル手前の公園で早昼。1時過ぎ高速の下をくぐり、やがてうどん八幡の大看板が立つ見覚えのある交差点へ。11番藤井寺をめざして歩いた所だ。
切幡寺まで2キロ弱。自販機の前に椅子とテーブルが置いてあり休憩していると、20代半ばくらいか、ロングヘアに菅笠ではなくキャップを被ったジーンズ姿の女性遍路が歩いてきた。徳島に住み数日ずつの区切り打ちを始めたところ。やけに大きなリュックを背負っている。荷物はちょっとでも減らした方がいいよと言うと「中身はほとんど空っぽ。スノボー用のリュックで友達の形見なんです」と。事故か病気か、恐らく恋人を亡くしたのだろう。ここにも供養のお遍路がいた。「明日は焼山寺まで行きたいけど天気が心配」。あの道は厳しいから雨なら次回に見送った方がよいとアドバイスさせて頂く。
久々の切幡寺は日曜とあって車遍路で大賑わい。急な石段を喘ぎながらぞろぞろと登っている。ぼくらは「ごめんなさい」と声をかけながら隙間を縫ってスイスイと登る。お遍路2日目に苦労した333段を登り切って息も乱れない。足に不安を抱えている状態なのにこれはどうしたことか?2回目の、唯一比較できる場所に来て初めて、知らず知らずのうちにぼくらの足がいかに鍛え上げられていたのか、漸く気づいた。
坂下の土産物屋で新品のお杖を1本買う。使ってきたお杖と並べたら15㎝も長い。やっぱり1200キロの道程は半端じゃない。
ホテルの大浴場は温泉だった。湯船の中で足を揉みバネ指をストレッチ。49日間風邪ひとつ引かず、ぎりぎり耐え抜いてくれた体に改めて感謝。(西田久光)
2011年12月1日 AM 4:57