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49日目、4月18日、晴れのち曇り、遅霜注意報。今日で結願。宿から88番札所大窪寺(標高445m。さぬき市多和兼割)まで2・9キロ、そして循環路の輪をつなぐため18・2キロ先の10番切幡寺(徳島県阿波市市場町切幡)に向かい、お遍路2日目以来2度目のお参りをして鴨島駅から列車で徳島駅へ。最後の宿は駅前のサンルート徳島を予約してある。
7時32分発。表に出ると息が白く、寒い。大窪寺との標高差は105m、ゆるやかに上る国道377号を歩き、じき体が暖まる。
8時8分、新山門着。二階には高欄のつきの回廊、軒下に醫王山の金文字が光る大きな山門。険しい岩山を背景に建つ本堂は威厳があった。予想通り早朝でまだ人影はまばら。落ち着いた雰囲気のなか清々しく結願の勤行をあげることができた。それなりの感慨はあるものの意外と高揚感はなく、ごくごく自然な感じ。女房も同じようだった。
納経所。前日頂いた完歩証があるから良いかと思っていたが、やっぱり女房と連名による結願証をお願いすることにした。金二千円也。これで一区切りがついた思い。ゆったり気分で境内を散策する。
若い夫婦連れが、白地に『同行二人』と書かれた犬用上着を着たテリア犬を連れている。かわいい犬のお遍路さん。そばに寄るとウーと唸られてしまった。
結願者たちが奉納したお杖がぎっしり何千本も詰まった宝杖塔。
そして透明のケースの中で燃える原爆の火。
「この火は、あの日、ヒロシマに落とされた原爆の火です。福岡県星野村の山本さんが叔父の形見として郷里にもち帰り大切に灯し続けてきたものです。核兵器廃絶の願いをこめ、ここに保存し永く人々の心によびかけています。
1988年10月24日」と石板に刻まれていた。炎は小さく頼りなげで、一瞬にして数万人、事後を含めると14万人もの命を奪った悪魔の劫火の残り火というよりも、理不尽に殺された名もなき人々の一人ひとりの命の揺らめきに思えた。
門前で旅館竹屋敷が経営する土産物店・野田屋で葛湯のお接待を頂いた後、9時8分下山。ここから途中県境を越えて徳島自動車道下まで日開谷川に沿って14キロ強の長い下り。進むにつれ前方の谷間の狭い空が扇が少しずつゆっくりと開くように徐々に大きく広がってゆく。山肌をおおう木々の緑も眼に鮮やかな若葉の新緑が次第に増え、大窪寺という一札所ではなく四国88カ所霊場という大山を登り終え、次第しだいに平地へ、町へ下りてゆく……そんな感慨に包まれる。
11時20分、岩野トンネル手前の公園で早昼。1時過ぎ高速の下をくぐり、やがてうどん八幡の大看板が立つ見覚えのある交差点へ。11番藤井寺をめざして歩いた所だ。
切幡寺まで2キロ弱。自販機の前に椅子とテーブルが置いてあり休憩していると、20代半ばくらいか、ロングヘアに菅笠ではなくキャップを被ったジーンズ姿の女性遍路が歩いてきた。徳島に住み数日ずつの区切り打ちを始めたところ。やけに大きなリュックを背負っている。荷物はちょっとでも減らした方がいいよと言うと「中身はほとんど空っぽ。スノボー用のリュックで友達の形見なんです」と。事故か病気か、恐らく恋人を亡くしたのだろう。ここにも供養のお遍路がいた。「明日は焼山寺まで行きたいけど天気が心配」。あの道は厳しいから雨なら次回に見送った方がよいとアドバイスさせて頂く。
久々の切幡寺は日曜とあって車遍路で大賑わい。急な石段を喘ぎながらぞろぞろと登っている。ぼくらは「ごめんなさい」と声をかけながら隙間を縫ってスイスイと登る。お遍路2日目に苦労した333段を登り切って息も乱れない。足に不安を抱えている状態なのにこれはどうしたことか?2回目の、唯一比較できる場所に来て初めて、知らず知らずのうちにぼくらの足がいかに鍛え上げられていたのか、漸く気づいた。
坂下の土産物屋で新品のお杖を1本買う。使ってきたお杖と並べたら15㎝も長い。やっぱり1200キロの道程は半端じゃない。
ホテルの大浴場は温泉だった。湯船の中で足を揉みバネ指をストレッチ。49日間風邪ひとつ引かず、ぎりぎり耐え抜いてくれた体に改めて感謝。(西田久光)
2011年12月1日 AM 4:57